作品タイトル不明
Vtuber 姫川ユリナと遭遇する
指定された時刻の五分前に、ダイバーシア本社の受付に着いた。
受付の女性に名前を告げると、「ご案内します」と静かに先導された。
コンプラ研修。
ダイバーシアの高木プロデューサーからのメールには、それだけしか書かれていなかった。
持ち物の指定もなく、服装と指定もなく、ただ「日時と場所」だけが添えてあった。
廊下を歩きながら、昨日の紗由の声を思い出す。
「コンプラ講習、資料の分厚さに負けないようにね!」
背中越しに笑いながら言っていたあの声は、若干の悪意を含んでいたと思う。
研修室のドアの前で、受付の女性が「こちらです」と言って、軽くノックしてから引き戸を開けた。
俺はそこで、少しだけ立ち止まった。
部屋の中に、すでに二人の男が座っていた。
横に長いテーブルを挟んで、二人は向かい合わせではなく、同じ側に並んでいた。
一人は背もたれに体を預け、スマホを見ている。
茶色がかった短い髪に、人懐っこそうな顔立ち。
もう一人は姿勢よく椅子に座り、テーブルの上のマニュアルらしきものをすでに開いていた。
黒髪を整えた、眼鏡をかけた、理知的な雰囲気を感じさせる男だった。
どちらも、俺と同世代くらいだろうか。
受付の女性が「ご案内しました」と一礼して、ドアを閉める。
三人だけになった研修室を沈黙が支配する。
スマホを見ていた方が、ふと顔を上げて俺を見た。
「……あ、もしかして、同期の人ですか?」
「たぶんそうだと思います」
「よかった。だれだろう、ベルンさん?」
コクコク、と首を縦に振る。
「俺、神宮寺愁です。本名は朝日奏太。よろしくです」
キャラ名と本名を一緒に名乗る感じが、妙にこなれていた。
もう一人は、マニュアルから顔を上げないまま、短く言った。
「御影玲音です。本名は月本」
また視線を戻した。
「一ノ瀬透です。ベルン、らしいです」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「らしい」ってなんだ。
奏太は気にした様子もなく、「三人揃いましたね」と言って軽く笑った。
「月本さん、もうマニュアル読んでるんですか」
「始まる前に読んでおこうかと」
俺はとりあえずページ数だけ確認した。
百四十七ページあった。
研修は定刻通りに始まった。
担当の人事スタッフが入ってきて、プロジェクターを起動する。
スライドのタイトルには、でかでかとこう書かれていた。
『ライバー活動における コンプライアンスと情報管理 基礎研修』
「……分厚いっすね」と奏太が隣でこっそりつぶやく。
「今日、全部読むんですかね?」
「読むんだろうな」
月本が静かにボールペンを取り出した。
それを見た奏太が、
「月本さん、真面目だなあ」と独り言をこぼす。
奏太は座学が苦手らしい。
研修を受けるからには、月本を見習って、真面目に受けるべきだろう。
俺はそう思い、マニュアルの最初のページを開いた。
『配信活動における個人情報の取り扱いについて』
これから、長い午後になりそうだった。
研修が終わったのは、二時間と少し経った頃だった。
「……終わった」
奏太が背もたれに全体重を預けながら、天井を仰いだ。
「途中、一瞬意識飛びましたよ」
「俺も正直危なかった」
「月本さんはどうでした?」
月本はノートをぱたりと閉じた。
「もちろん全部聞いてた」
「すごっ」
月本はなんでもなさそうな顔をしていた。
彼には2時間程度の研修など、苦でもないのだろう。
二人が先に廊下へ出ていくのを見送って、俺は一人、研修室に残った。
立ち上がろうとした瞬間、足が重くなる。
二時間以上椅子に縛り付けられていた体は、栄養を求めているらしい。
べつにすぐ帰らなくてもいいか、と思って、ひとまず近くの自販機を探すことにした。
廊下の角を曲がったところに、「休憩室」と書かれたドアがあった。
半開きになっていて、中から人の気配がする。
覗くつもりはなかったが、ドアを押し開けると同時に、小さな声が耳に入った。
「……うん。だから、それはお姉ちゃんが――」
窓際の丸椅子に、女性が一人座っていた。
スマホを耳に当てたまま、こちらに背を向けている。
俺が入ってきた気配に、一拍遅れて気づく。
「あ、ごめん、後で折り返す。うん。じゃあね」
通話を切って、振り返った。
目が合う。
明るいメッシュの入った、しっとりとしていて、よく手入れされている髪。
切れ長の目に、すっと通った鼻筋。
耳元では、小さなピアスが光っている。
白のノースリーブのブラウスが雰囲気に合っていて、
初夏らしい、涼しげな恰好をしていた。
街で見かけたら思わず振り返ってしまうような、不思議な雰囲気の女性だ。
「……すみません、ちょっと使わせてもらっていて」
「こちらこそ。突然入ってしまって」
「いえ」と彼女は首を横に振った。「休憩室なので」
それだけ言って、また窓の外に視線を戻した。
彼女を尻目に、俺は入り口近くの自販機で、缶コーヒーを一本買った。
プルタブを開けて、立ったまま一口飲む。
「新人の方ですか」
不意に声をかけられた。
「見たことない顔だったので、なんとなく」と彼女は続ける。
「わかりますか。今週末デビューの新人です」
そうですか、と彼女は小さく頷いた。
「私、姫川ユリナです。Vtuberをしてます」
姫川ユリナ。半年前にデビューした先輩だ。
後から入ってきたのに、月宵空よりもチャンネル登録数が多いことを、
紗由が気にしていたことを思い出した。
「一ノ瀬……あ、わかんないですよね。ベルンです。灰城ベルン」
言ってから、少し間があった。
「これからお世話になります」
ユリナは小さくこちらこそと答える。
しばらく無言になって、いたたまれなくなった俺は、そういえば、と切り出す。
「初配信まで、何か準備しておいた方がいいことって、ありますか」
ユリナは手を顔に添えて、少し考えているようだった。数秒たって。
「自分のペースを、早めに見つけることだと思います。最初にリスナーさんと作った空気って、わりと後まで続くので」
「なるほど」
「……あんまり参考にならないかもしれないですけど」
「いや、ありがたいです」
ユリナは「そうなら良かった」と言って、窓の外に視線を移した。
夕方に差しかかった空が、窓ガラスの向こうで少しだけ橙色を帯びている。
しばらく、何も言わなかった。
気まずいわけではなかった。ただ、この場を満たすのに、適切な言葉が思い浮かばなかったのだ。
先に動いたのはユリナだった。
椅子から立ち上がり、バッグを肩にかける。
思ったより背が高かった。
「初配信、頑張ってください」
「ありがとうございます」
「緊張しても別に、死にはしないので」
僅かに口角を上げて、ユリナが微笑む。
笑うと、その整った顔立ちがより際立った。
ユリナはゆっくりと休憩室を出ていった。
引き戸が静かに閉まる。
休憩室に残されたのは、オレンジ色に染まりかけた窓の景色と、
飲みかけの缶コーヒを持ってたたずむ俺だけだった。
◆人物紹介
神宮寺(じんぐうじ) 愁(しゅう) / 中の人: 朝日(あさひ) 奏太(そうた)
公式設定:借金まみれの探偵
リアル:22歳大学生で、在学中。天性の愛嬌を持つ、コミュ力お化けの感覚派。場のノリと直感だけで生きており、計画性や座学は絶望的に苦手。
外見:
茶色がかった短髪と、初対面の相手にも安心感を与える人懐っこい顔立ちが特徴 。どこか放っておけない弟分のような雰囲気を纏っている。
御影(みかげ) 玲音(れおん) / 中の人: 月本(つきもと) 新(あらた)
公式設定:裏社会の情報屋
リアル:
27歳。職業:元プログラマー。実は極度の口下手でコミュ障気質だが、インターネットや配信といったリアル以外のコミュニケーションであれば、驚くほど淀みなく喋れる。ネットとリアルでキャラが違うとよく言われる。
外見:
端正に整えられた黒髪に眼鏡。常に姿勢が良く、一見すると非常に理知的で隙のない佇まいをしている。
姫川 ユリナ(ひめかわ ゆりな)/中の人:???
公式プロフィール
遥か北方の「氷の国」から、現代の文化(特にゲーム)を学ぶためにお忍びでやってきた第一王女。
配信スタイル・ 特技(ゲーム) :
FPS、格闘ゲーム、LoL(MOBA)などの競技性の高いタイトルから、死にゲーなどの高難易度アクションまで幅広くこなすガチゲーマー。プレイスキルの高さと劣勢でもブレない冷静な立ち回りで、コアなゲームファンを掴んでいる。
リアル:
モデルと見紛うほどスラッとしたプロポーションの女性。
本人はその長身を気にしており、ヒールの高い靴を履けないことに密かなコンプレックスを抱いている。