作品タイトル不明
引っ越しと約束
引っ越したばかりの防音マンションの一室で、俺は無数のケーブルと格闘していた。
モニターアームの固定。
オーディオインターフェースの配線。
マイクのスタンド調整。
「お兄ちゃーん、引っ越し祝いのピザまだー?」
背後から、気の抜けた声が降ってくる。
振り返ると、まだ段ボールが積まれた部屋の真ん中で、妹の紗由がソファに寝転がっていた。
「あと十分で届く。つーか、手伝いに来たなら、せめてその空き箱くらい畳んでおいてくれると嬉しいんだけど…」
「えー、私はプロのVtuberだよ? そんな下働きさせたら事務所に怒られちゃうよ」
ケラケラと笑いながら、紗由はスマホをいじり続けている。
このマンションへの引っ越しは、事務所からの強い要望でもあった。
『前の場所だと防音もセキュリティも不安です。プロとして自覚を持ってください』
そう、高木Pに真顔で諭されたのが数週間前。
初期費用を事務所に一部負担させてしまった以上、俺に拒否権はなかった。
「……なあ、紗由」
「んー?」
「いよいよ今週末が初配信なわけだが。……先輩として、デビュー前の心構えみたいなものはあるか?」
俺が真面目なトーンで尋ねると、紗由はスマホから視線を上げた。
ソファの上で胡座をかき、少しだけプロの『月宵空』の顔になる。
「うーん、『自分を騙し通す覚悟』かな」
「騙し通す?」
「うん。最初は誰でも、自分のキャラ設定に照れると思うの。私もそうだったし。でも、少しでも『そういう感じ』を出すと、リスナーは一瞬で冷める。お兄ちゃんは『没落貴族』なんだから、身の丈に合ってなくても、頑張ってなりきるの」
なるほど。
第一線で活躍している人間ならではの、地に足のついたアドバイスだ。
「それに、私たちの計画を成功させるためにも、しっかり『好感度』を稼いでおかないとね。だから最初は肝心だよ。初動が一番大事なんだから」
「……好感度?」
「そう。もしお兄ちゃんの初配信がバズって、人気配信者になったとしても、ただ数字を持ってるだけじゃダメ。リスナーが『この人なら惚れるわ』とか、『この人なら何があっても許せる』って思えるような、絶対的な信頼と好感。それを築いて欲しいな」
俺と紗由の間で交わされた、一つの約束。
紗由が演じるVtuberである『月宵空』に群がる厄介ファンを牽制するため、身近な男の存在を、意図的に匂わせる計画。
「なるほどな。まずは人間的な魅力をアピールして、確実に味方を増やすわけだ」
「うん。最近もDMとかで、彼氏面してくるリスナーが増えててさー。まあ別に慣れてるし平気なんだけど、やっぱいい気分じゃないんだよね」
だからやっぱこの作戦はやりたいんだよね。紗由はスマホをくるくると回しながら、軽い調子で言った。
表面的には気にしてないようにも見える。しかし、兄を使った、下手をしたら会社にも迷惑をかけかねない計画を進めようとしているのだ。
そんな荒唐無稽な計画であっても、紗由が一生懸命考えたこの話に乗らないのは、兄として失格だ。そう改めて思った。
「了解した。とりあえず、初手で炎上しないように気を付ける」
「あはは、お兄ちゃんなら大丈夫だよ。……あ、ピザ届いた!」
玄関のインターホンが鳴り、紗由が弾かれたように立ち上がる。
俺はため息をつきながら、ハンガーにかけてあった薄手のシャツを手に取った。
「ピザ残さなくてもいいからな。俺はこれから本社に行って研修だ」
「はーい、いってらっしゃーい! コンプラ講習、資料の分厚さに負けないようにね!」
背中で妹の声を聴きながら、俺は袖を通し、部屋を後にした。
この後、 Vtuber(リアルのすがた) に会うとも知らずに。