作品タイトル不明
第五十六話:黒縄衆の初陣 〜孤児が見た泥公方の執念〜
天文七年 十月 / 西暦一五三八年 十月
視点:夜叉丸
――なんで、あんなに必死なんだ。
飯盛山城の裏手、霧が深く立ち込める険しい杉林の巨木の陰から、俺たち『剣山黒縄衆』の見習い、行き場のない孤児どもは、息を呑んでその光景を見つめていた。
俺の名は夜叉丸。先年、京の命令でこの城を襲い、生け捕りにされた伏見の忍びの息子だ。
失敗した忍びの家族など、他所であれば一人残らずなぶり殺しにされて当然の身分だった。それなのに、あの四歳の若君――足利三郎様は、俺たちに堺の奇麗な家と腹一杯の飯を与え、こうして生きる道をくれた。
だから、筆頭教官となった親父や、新たな頭領である賀茂柳斎様から課せられる山での厳しい訓練にも、文句を言う奴は誰もいなかった。命を救われた恩を返さねばならないと、誰もが必死だった。
だが――俺たちの前に立ちはだかる現実は、想像を絶するものだった。
俺たちの前を泥まみれになって這い進むのは、高貴なる阿波公方の血を引く、この城の主たる足利三郎様だ。
大人たちを顎で使い、天下の堺の商人たちを無条件降伏させた、雲の上の天才児。
俺たちのような、泥にまみれて死ぬだけの忍びの孤児とは、生まれも育ちも住む世界も、何もかもが違うはずの御方。
それなのに、あの四歳の若君は、俺たち見習いの子供の誰よりも泥を啜り、誰よりも必死な形相で、柳斎様からの容赦のないシゴキに耐え抜いている。
「足が止まっておるぞ! それでは次の一歩で崖から落ちますぞ!」
柳斎様の木刀が、若君の小さな背中を容赦なく叩く。俺たち見習いに対するものよりも、遥かに厳しく、一切の手加減がない地獄の如き荒行。四歳の子子供なら、とっくに大声をあげて泣き叫び、逃げ出しているはずの光景。
だが、若君は痛みに涙を流すことすらしない。
小さな爪から血を流し、泥水を顔中に浴びながらも、その瞳には「何が何でも生き残って、この乱世を書き換えてやる」という、凄まじいまでの執念の炎が宿っていた。何度も、何度も、倒れそうになりながら、若君は自分の力で立ち上がる。
その背中を見つめているうちに、俺の胸の奥で、言葉にならない激しい感情が湧き上がってきた。
あの人は、俺たちをただの都合のいい駒として使い捨てるために生かしたんじゃない。
自ら泥を啜り、自ら血を吐くような苦しみを背負ってでも、俺たちのような行き場のない民を食わせるための、新しい世を本気で造ろうとされているんだ。
畏怖。そして、圧倒的な憧れ。
この御方のためなら、地の果てまで影として付き従い、いつでもこの命を投げ出せる――。
泥まみれで進む四歳の背中に向かって、俺たち黒縄衆の少年たちは、誰に命じられるでもなく、胸の中で絶対的な忠誠を誓っていた。
視点:足利 三郎(維直)
「――ふぅ、はぁ……っ! 柳斎、今の岩場の登坂、さっきより四秒縮めたよ……!」
「ふん、まだまだ。一瞬の油断が命取りとなるのが戦場にございます、若君!」
泥だらけの顔を袖でぬぐいながら、俺は必死に呼吸を整える。背後から、黒縄衆の少年たちが熱狂すら孕んだ、痛いほどの畏敬の視線を送ってきていることに、俺は全く気づいていなかった。ただ、四歳という貧弱な肉体を、前世の安全管理の知識と野生の感覚でどう最適化するか、それだけを考えていた。
そこへ、杉林の影から音もなく一人の男が現れ、俺の前で片膝を突いた。黒縄衆の筆頭教官、百地弦十郎だ。その表情は、いつになく険しい。
「若君、柳斎様。修行の最中に失礼いたします。京に潜ませている我が黒縄衆の耳目より、緊急の報せが入りました」
「……弦十郎殿か。京の動きだね。何があった?」
俺は一瞬でエンジニアの冷徹な脳へと切り替え、泥を払いながら問いかけた。
「はっ。細川高基が動き出しました。飯盛山城への夜襲が失敗に終わったことを受け、今度は兵を動かすのではなく、京から堺、そして阿波へと繋がる物資の流通を締め上げる構えにございます。特に、鉄砲の火薬の原料となる『硝石』と、堺に集まる『塩』の流通に制限をかける大令を、公家や周辺の国人たちへ根回ししている模様にございます」
「経済封鎖(ブロック経済)、か……。武力で勝てないと踏んで、今度は兵糧攻めを仕組みで仕掛けてきたわけだね」
俺は小さく鼻で笑った。守旧派にしては上出来な嫌がらせだが、あまりにも前時代的で、流通の本質を理解していない浅知恵だ。
「弦十郎殿。さっそく、君が育てつつある黒縄衆の初陣といこうか」
「はっ。我らに、どのような御命を?」
「細川がどこの国人と手を結び、どの 流通経路(サプライチェーン) を断とうとしているのか、その正確な『情報』の遮断と偽報の流布をお願いしたい。彼らが関所を設ける前に、安宅の水軍と堺の商人を動かして、迂回路を完全に構築する。敵の嫌がらせが実を結ぶ前に、細川の経済網そのものを逆に干上がらせてやるのさ」
俺の言葉に、弦十郎はゾクリとしたような、歓喜に満ちた笑みを浮かべて深く頭を下げた。
「御意にございます。我が黒縄衆の影、細川の足元を暗闇から侵食してみせましょう」
四歳の俺が泥にまみれ、最強の影たちに冷徹な命令を下す。
京の細川高基が放った次なる嫌がらせに対し、俺は自ら鍛え上げた漆黒の耳目を解き放ち、乱世の経済戦という新たな戦場を、裏側から完全に支配するための罠を仕掛け始めるのだった。