軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十五話:無能の皮、石の牙

天文六年 二月 / 西暦一五三七年 二月

1.「無能」という名の安全靴

京の都に春の気配が漂い始めた頃。再建された羅生門の陰で、四歳の三郎は今日も泥まみれになって地面を這い回っていた。

傍目には、高貴な血筋を引く幼子が公方としての自覚もなく土遊びに興じているようにしか見えない。通りかかる公家たちは「足利の血も、阿波の田舎で腐ったか」と、隠そうともしない嘲笑を投げかけていく。

(……それでいい。どんどん笑って、僕のことなんて忘れてくれ)

三郎は泥のついた手で鼻先を拭った。

彼にとって足利の名字は、平穏を乱す「呪い」に等しい。畳の上で天寿を全うするという、この時代では最難関のゴールに辿り着くためには、徹底して「無害で無能な子供」を演じ通す必要があった。

だが、彼が泥をこねて作っている小さな「山」や「溝」は、子供の遊びなどではなかった。それは、京の地質構造を逆手に取った、環境そのものの要塞化のための 縮尺模型(ジオラマ) であった。

2.松永久秀の違和感

「若君。また熱心に泥を練っておいでですな。……なれど、その『泥遊び』のおかげで、昨晩忍び込もうとした刺客が、門の前の溝に嵌まって動けなくなっていたのは、果たして偶然でしょうか?」

背後から声をかけてきたのは、三郎の監視役であり、その実力を疑い続けている松永久秀であった。彼は、三郎がただ「偶然」泥を捨てた場所が、人間の心理的な死角や、物理的に足を取られる地盤現象を誘発するポイントであることを、直感的に察していた。

「……久秀。僕はただ、お城を作ってるだけだよ。ほら、ここが崩れやすくて面白いんだ」

三郎はわざと舌足らずな口調で答え、模型の一部を無造作に壊してみせた。

(……危ない。こいつは鼻が利きすぎる。でも、こいつを味方につけておかないと、三好の組織を盾に使えない)

久秀は三郎の泥だらけの顔をじっと見つめ、不敵に口角を上げた。

「左様でございますか。では、その『脆いお城』をより強固にするための石灰、さらに人足を手配しておきました。若君の『遊び』、某が全力でお手伝いいたしましょう」

3.暗殺者を呑み込む地盤

その夜。将軍・足利義晴が放った精鋭の暗殺集団が、三郎の宿所となっていた羅生門の裏手に音もなく侵入した。

彼らは歴戦の猛者であり、四歳の子供一人を殺めるなど、赤子の手をひねるより容易いと考えていた。

だが、彼らが宿所の庭に足を踏み入れた瞬間、異変が起きた。

「……ぬっ、足が抜けん。ただの泥ではないのか!?」

三郎が昼間「泥遊び」と称して細工を施した地面。そこには、特定の振動を与えると瞬時に液体化する流砂地帯が形成されていた。

慌てて這い上がろうとする暗殺者たち。しかし、彼らが動けば動くほど、三郎が仕込んだ高粘土質の泥が、真空パックのように彼らの身体を締め付けていく。

「長慶……。あそこのゴミ、片付けておいて」

建物の影から、三郎が冷徹な目で指示を出す。そこには、かつての「無能な幼子」の面影は微塵もなかった。

現れた三好長慶の兵たちが、身動きの取れなくなった暗殺者たちを、淡々と処理していく。

三郎はそれを見届けることなく、次の図面を引き始めた。

4.「畳の上」への防衛線

(……一人消せば、次は十人。十人消せば次は百人。足利の血が流れる限り、僕の安眠は訪れない)

三郎は、前世で培った「自然を屈服させる意志」を、今世では「自分を守るための絶対的な防壁」に変換していた。

どんなに城壁を高くしても、いつかは破られる。ならば、この京の都そのものを、侵入者が一歩足を踏み入れただけで自壊する、死角なき戦場に変えなければならない。

「若君、次はどの『泥遊び』をなさいますか?」

返り血を拭った長慶が、畏怖を込めて問いかける。

「……次は、川だよ。鴨川の流れを少しだけ変えて、都全体を『巨大な水堀』にしようと思うんだ」

四歳の三郎は、月明かりの下で独り言ちた。

それは天下を望む者の言葉ではなく、ただ死を恐れ、平穏な眠りだけを欲する一人のエンジニアの、あまりにも壮絶な生存戦略であった。