作品タイトル不明
【26】
グレースは自分が消沈している場合ではなかったと後悔していた。縛られているわけではないが、身動きが取れない。あまり物のない埃っぽい物置に、グレースは閉じ込められていた。高いところに採光用の窓があるが、高いうえに嵌め殺しのガラスなので脱出もできない。
「はあ……」
今が春で、夜でもそこまで気温が下がらないのが唯一の慰めだ。グレースは膝を抱えて頬を自分の膝に押し付けた。彼女は今、自分の実家であるデュノア伯爵家に監禁されていた。
時間だけはあるのでグレースは今日のことを振り返る。ユーグを見送った後、グレースはレナエルの嫁ぎ先にお茶に誘われた。アメリーにも気分転換に行ってくるといい、と言われ、午後にグレースはレナエルの嫁ぎ先であるヴァンタール男爵家に向かった。
レナエルとおしゃべりを楽しんで、それほど遅くならないうちにフォートレル男爵家に帰宅しようとした。
馬車はフォートレル男爵家の物だったが、家紋のない無地のものだった。御者と侍女が一人同行していた。
ヴァンタール男爵家を出てどれほどもしないうちに、馬車が襲われて路地裏に引き込まれた。御者は殴られて気絶したが、馬車の中にいたグレースと侍女は引っ張り出された。
馬車を襲ったのは、雇われたと言うならず者だった。グレースを襲おうとする相手は何通りか考えられるが、それほど多くない。グレースの交友関係がそれほど広くないからだ。
フォートレル男爵家の商売関係か、グレースの実家関係か。最近の状況を考えると、後者の可能性が高い。馬車は見張っていれば誰が乗っているかわかる。特定するのはそんなに難しくなかったはずだ。
グレースは自分の実家の犯行だと思ったので抵抗する気はなかったが、侍女は泣き叫んだ。自分は関係ない、命令されてグレースに同行していただけで何のかかわりもないのだと半狂乱で主張した。最近は使用人ともうまくやっているつもりだったので、さすがにちょっとショックだった。
ならず者は侍女を殴ろうとしたので、グレースは解放してほしいと主張した。だが、さすがにそううまくはいかなかった。現場を見られているので、当然と言えば当然だが。結局一緒にデュノア伯爵家に連行された。侍女には道中、ずっと恨み言を言われた。
「久しぶりだな、グレース」
四十歳前後で痩身の、見た目は紳士的な男性の前に引き出されたグレースは、その男性を見上げた。
「……お久しぶりです、お父様」
デュノア伯爵、グレースの父親のジョアキムだ。グレースの両親は互いの顔に一目ぼれした恋愛結婚だと言う話だから、ジョアキムも整った顔をしている。
「多少はましになったと思ったけれど、相変わらず辛気臭いこと」
古びたソファに深く腰掛け、豪奢な扇で口元を隠しながら嘲笑の口調で言ったのは母のミリアンだ。お互い顔に惚れたので当たり前なのかもしれないが、ミリアンも美人だ。この二人から生まれたナタリーがより美人なのは自明の理なのかもしれない。
「お母様も、お久しぶりです」
「ふん」
結婚する前から母はグレースに対してこんな態度だったので、グレースは視線をそらした。
「お前の侍女は金を握らせて解放した。助けを求めても無駄だ。と言っても、その侍女もお前のことをペラペラ話してくれたが」
人望がないな、と淡々と父が言った。使用人からの人望がないのはわかっているので、余計なお世話だ。結局グレースは、主らしい振る舞いができなかった。
金を握らされたなら、口止めをされているだろう。逃がした、と言ったが殺されている可能性もある。その金をどこから出したのだ、と言う気もする。経済的にも外聞的にも、デュノア伯爵家は追い詰められている。
「……フォートレル男爵家の方が、早晩、私の不在に気付きます。私を強引に連れてきて、何をしたいんですか。デュノア伯爵家を継げとでもいうのですか」
「この伯爵家の跡取りはセヴランよ!」
金切声を上げたのはミリアンだ。ミリアンは息子のセヴランを目に入れても痛くないほどかわいがっていた。だからわがままな世間知らずに育ったわけだが、今になっても母は現実を見られていないらしい。
近衛が動いているのだ。デュノア伯爵家が存続できたとしても、セヴランが伯爵を名乗れる可能性は著しく低い。グレースの言った方法が、まだしも可能性が高いと思うのだが。
「フォートレル男爵家とは離縁してもらう。お前から言い出せ。こんなことなら、あの時許可を出すべきではなかった」
「あなたのせいではないわ、ジョアキム。あの成金の男爵の口車のせいよ」
ミリアンは夫に慰めるような言葉をかけると、扇を閉じて立ち上がり、グレースの前に立った。つんと顎をあげてこちらを見下す姿勢を取った。
「セヴランに爵位を継がせるために金が要るの。お前を娶ってその金を出してもいいと言う方がいらっしゃるわ。ユーグ・リュフィエと離婚し、その方と夫婦になりなさい」
自分の思い通りになるはずだと疑いもしない口調でミリアンは命じるが、世の中彼女の思惑通りに進むわけがない。
「フォートレル男爵家には、私との婚姻にあたり、多額の援助をいただいていたはずです。私がユーグ様と離婚すると言うことは、そのお金をすべて男爵家に返さなければならないと言うことです」
そういう契約結婚だったのだ。レイモンはグレースの両親とは違い、有能で抜かりない。そう言った契約書を交わしている。
「問題ない」
「そうよ。あのいけ好かない男爵家の援助がなくてもやっていけるほどの額を出すとあの方はおっしゃったわ。まったく。お前が処女なら五倍の値段で売れたのに」
グレースはぞっと背筋に寒気が走った。離婚歴がつくため、金額が値切られたと言いたいらしい。グレースは自分が商品のように売り買いされるということにか、母が自分を金づるくらいにしか思っていないことにか、何を恐れればいいのかわからなくなった。そして、グレースは未だに夜の経験はない。それを知れば、母は金額を吊り上げるのだろうか。
「……フォートレル男爵家の方が、社会的に信用があるはずです。長期的に見れば、そちらのほうがいいと思うのですが」
「けれど、あの家はお前に伯爵位を渡せと言うわ。私のセヴランではなく。お前なんかに、爵位を渡すはずがないだろう!」
ばしん、とミリアンが扇を振り上げてグレースの頬を打った。ミリアン、とさすがにジョアキムが咎める。
「しつけよ。少し目を離したら生意気なことを言うようになって。あら、元からだったかしら。ごめんなさいね」
扇で打ったところをぐっと押される。痛い。
「やめないか。顔に傷をつけるな。価値が下がる」
淡々とした父の言葉にやはり自分は彼らにとって、ただの商品なのだと思った。
「お前が離婚する、と言うまで閉じ込めておこう。何、フォートレル男爵家には里帰り中に体調を崩したので療養している、と伝えよう。尤も、ここにたどり着いたら、だが」
そうだ。グレースは自分がどこにいるのか誰も知らないのだ、と言うことを思い出した。父はどうも、グレースが離婚に応じれば、後の彼女の身柄は妻に任せているようだった。そして、同じ女性であるミリアンが考えることはえぐい。
「あの方は結婚したら、あなたにお友達のおもてなしをさせるんですって。楽しみね」
満足そうに笑って言った母の顔は、整っているはずなのにこの上なく醜く見えた。