作品タイトル不明
【19】
冬の間、フォートレル男爵家の領地にいたグレースとユーグだが、さすがに春になり、雪が融ければ王都に向かわなければならない。領地でのびのびと過ごした自覚のあるグレースは、少し憂鬱だった。王都が嫌なわけでも、義理の両親が嫌なわけでもない。どうやら、実家があれこれ画策しているようなのだ。
「……さすがに、ため息が多いぞ」
王都に近づくごとに増えるグレースのため息に、さすがのユーグも苦言を呈した。自覚があったので、グレースも「すみません」と肩をすくめる。
「そんなに嫌なら、残っていてもよかったんだぞ、領地に」
「いえ……さすがにそんなわけには」
次期男爵夫人としての仕事を放棄したくはないし、何より、ユーグと結婚してまだ一年も経っていないのだ。なのにもう別居、などと言われたくない。ただでさえ悪意のある噂の方が多いのだ。付け入る隙は少ない方がいい。
「両親が何をする気なのかと思うと、少し憂鬱なだけです」
「ああ……」
グレースが正直に言うと、グレースと同じ情報が耳に入っているユーグは納得の声を上げた。
「グレース、お前は俺の妻だ。フォートレル男爵家の人間だ。デュノア伯爵家のことで尋ねられても、知らぬ存ぜぬで通せばいいんじゃないか」
真面目なユーグから出たとは思えない提案に、グレースは「そうですね」と思わず微笑んだ。実際には知らぬ存ぜぬでは通しきれないだろうが、言い分にはなりそうだ。実際、グレースはユーグに嫁いでから実家とはほとんどかかわっていない。
「わざわざお前が傷つくようなことはしなくていい」
馬車の向かい側に座るユーグが手を引くので、グレースは一瞬立ち上がった。そのまま、ユーグの膝に座らせられる。冬を共に過ごしてから、こうした接触が多くなってきた気がする。
「回避して問題ないなら、回避すればいい」
するりと頬を撫でられる。グレースはユーグの翡翠の瞳を見つめた。きれいな人だ。どうして、こんなきれいな人がグレースなんかを好きだと言ってくれるのだろう。
「聞いているか?」
「あ……はい。一応」
見とれてはいたが、話も聞いてはいた。ユーグが「そうか?」と顔をのぞき込んでくる。
「……ユーグ様は美人ですよね」
「急に話が飛んだな。俺は、お前の方が整った顔をしていると思う」
真顔で言われた。結婚してから何度か言われているが、たぶん、ユーグは本気で言っているのだろうな、と最近は察してきた。大いに主観が入っている気がするが、褒められれば悪い気はしない。
「……ありがとうございます。けれど、私はユーグ様の顔を見ているのが好きだな、と言う話です」
好みかと聞かれるとわからないが、好きな顔立ちだと思う。ユーグは少し意外そうにした後に、「それはうれしいな」と表情を変えずに言った。だが。
「グレース、いいか?」
端的に尋ねられた。しかし、それだけでグレースには通じた。ここ最近、何度もしたやり取りなのだ。グレースがこくりとうなずくと、すぐに唇が重なった。
急には困る、と言ったグレースに、ユーグはいちいちお伺いを立てるようになった。聞かれると、これが案外恥ずかしいのだ。これからキスをするぞ、と宣言されているわけで。しかし、まじめなユーグはちゃんと聞いてくるのだ。
最初は本当に唇を重ねるだけだったのが、今では舌を絡め、吸われる。背中に回った手もグレースの体の線をなぞる。腰をなでられてくぐもった声が漏れた。
「ん、ぅ」
苦し気な声が漏れたが、ユーグは引かない。食べられるのではないかと思うほど深く口づけられて苦しい。しかし、慣れとは恐ろしいと思う。何度も繰り返しているうちに、苦しいながらも呼吸はできるようになってきていた。
ちゅっと音を立てて名残惜し気に唇が離れた。肩で息をしているグレースに対し、ユーグは多少呼吸を乱した程度だ。これだけこちらを翻弄しておきながら、納得出来ない。
「……なんだ?」
恨みがましい気持ちが顔に出ていたのだろうか。ユーグがグレースの頬を名でながら尋ねた。グレースは悔しくて彼の肩に頬を乗せながら言った。
「大したことではありません。ユーグ様が余裕そうなので、ちょっと悔しいだけです」
「……そう見えるか?」
聞かれたので、うなずく。そう聞くと言うことは、案外余裕ではないのだろうか。
「そうか」
一つうなずいて、ユーグはグレースを抱きしめる。服越しだが、触れられたところが熱い気がする。
「……白状すると、俺は経験が少ない。お前が満足できているならいいのだが」
生真面目にそんなことを暴露された。こういうまっすぐなところは嫌いではない、と言うか、こういうところが好ましいと思うのだが、この話題はちょっと気恥ずかしい。
「……私も、経験がありませんので、よくわかりません」
男女の行為に関してなどは、姉のナタリーに聞いたことがあるくらいだ。姉と言っても二歳違いなので、ナタリーも経験があったわけではないが。デュノア伯爵家は母親が娘の教育を放棄していたので、このあたりの知識は姉妹そろって少々怪しい部分がある。
「だから、ユーグ様に教えていただくことがすべてです」
場合によっては試行錯誤と言うことになるだろうが、そう言うことだ。ユーグは嬉しそうに笑って「そうか」とうなずいた。親指で唇をなでられる。
「もう少しいいか?」
はい、とうなずく前に唇が重なった。むさぼられると言うのはこういうことを言うのだろうか。気恥ずかしさがあると同時に、求められることがうれしい、と思う。
どうしても呼吸が苦しくなり、息を弾ませているグレースの襟元のボタンが外された。息を整えていたグレースがユーグの手をつかむ。
「ユーグ様!」
「少しだけだ」
そう言って、鎖骨のあたりに吸いつかれた。ぴりっとした痛みに、「んっ」と声が漏れる。
「痛かったか? すまん」
全く悪びれていない口調で謝ると、ユーグは器用に寛げたグレースの襟元を直した。
「そろそろ到着するな。これくらいにしておこう」
残念だが、といつも通りの無表情で言われ、グレースはそそくさとユーグの膝から降りた。が、顔の熱が引きそうにない。これからユーグの両親と顔を合わせるのに、どんな顔をすればいいかわからない。
「大丈夫か? 顔、まだ赤いぞ」
からかうように言われ、思わず「誰のせいだと思ってるんですか」と言い返した。ユーグは「俺だな」となぜか楽しそうだ。無表情でも、なんとなく感情が読めるようになってきた。