作品タイトル不明
【18】
このキス未遂事件があってからグレースは明らかにユーグを意識するようになっている。最初は顔を合わせて話をするだけで真っ赤になっていた。これは数日で落ち着いたのだが、触れようとすると恥ずかし気に避けられる。朴念仁のユーグなら嫌われたかと勘違いしそうなところであるが、彼女の赤い頬と恥ずかし気に潤んだ瞳を見ては、勘違いのしようもなかった。むしろ、ユーグの機嫌がいいので執事やメイドたちがドン引きしている。
ユーグとグレースの進展はともかく、村では流感がはやりだしていた。情緒的な面では進展のないこの若夫婦は、とりあえず仕事はできた。はやりだしたという兆候を察すると、療養所を整え薬を入手し、看病の方法を教えて回った。表立って動いたのはユーグだが、様々な手配はグレースが行った。こういうことは得意なのだ。
何度か村に様子も見に行ったのだが、そのせいかグレースが流感にかかってしまった。ユーグも二、三年に一度はかかるので苦しさは知っている。
その日は朝から少し顔色が悪いな、と思っていたのだ。結婚した当初のような様子で、食事もあまりとらなかった。もともと、少食ではあるが。本人に尋ねても「大丈夫」としか返ってこないとわかっていたので、侍女に気にかけるように伝えていた。そうしたら、案の定これである。
顔を真っ赤にして眠っているグレースの額に手を当てると、熱かった。額に濡らしたタオルを置いてやるが、すぐにぬるくなってしまうだろう。
おかれたタオルが冷たくて気が付いたのか、うっすらとグレースが目を開けた。ユーグは思わず顔をのぞき込む。
「……ユーグ様?」
その声はかすれていた。ユーグはグレースの熱い頬をなでると「何か飲んだ方がいいな」とグラスに水を注いだ。その間にグレースがのそのそと起き上がる。力が入らないようだったので、ユーグは背中に手をまわして体を支えた。
「ほら」
グレースにグラスを持たせて、水を飲ませる。ゆっくりとだが、すべて飲み干した。空になったグラスを受け取ると、サイドテーブルに乗せる。少し体を引き寄せ、ユーグにもたれかかるような姿勢を取らせてやる。
「何か食べられそうか? 薬を飲むにしても、何か腹に入れた方がいいと思うんだが」
首を左右に振った。食べられないと言うことだろう。果物は用意してあるが、ゼリーやプリンのような食べやすいものも用意すべきかもしれない。
「寝ていれば治ります」
これまではそうだったのだろう。デュノア伯爵家の経済状況では、薬など買えなかっただろうと思う。だとしたら、寝て治すしかない。
そこには言及せず、ユーグはグレースを寝かせてやりながら言った。
「薬を飲んだ方が治りが早い。少なくとも、多少は楽になるはずだ。俺が心配だから、飲んでくれ」
グレースの青紫の潤んだ瞳がきょとんとユーグを見る。それからかすかに笑みを浮かべた。
「わかりました」
いいこだ、とユーグはグレースの頭をなでる。額に触れると、熱い。まだ発熱しているのだ。ユーグは外の使用人に声をかけて、果物と薬を持ってきてもらった。ユーグが持ってきたトレーに乗った小さく切ったリンゴを見てグレースは驚いたようだ。
「この時期に、リンゴが……?」
「保存してあったものだし、ここらが最後だな」
リンゴの時期はもう終わっている。保存していた最後の方のリンゴだ。コンポートにしたりなど、煮詰めて保存しているものもあるにはあるが。
もう一度体を起こさせ、リンゴを食べさせる。それから薬を飲ませ、彼女が眠るまで話をした。熱でぼんやりとしているが、そうして話しているとグレースが安心したような反応をするのだ。ナタリーとこうして過ごしていたのだろうか。
薬が効いたのか、翌日にはグレースの熱もだいぶ下がっていた。なぜかグレースが驚いた顔をしている。
「……お薬ってすごいですね……」
薬もなければ食事も満足にいかなかったデュノア伯爵家では、一度熱が出ると三日は下がらない、と言うことがざらにあったようだ。ここで、ユーグはもしかしてグレースは体が弱いのだろうか、といぶかしんだが、医者が言うには別に病弱、と言うことはないらしかった。ただ、完全な健康体ともいえず、これまで薬をほとんど飲んだことがないので、飲む際は気を付けるように、と言われた。
「若奥様がお元気になられて何よりです」
執事がしみじみと言った。
「若奥様が臥せっておられる間、ユーグ様がそれはもうそわそわと気もそぞろで」
仕事にならなかったのだ、と暴露されてユーグは慌てたが、グレースは「はあ」と全く信じていない表情だ。自分がユーグに対して何か影響を与える、などとつゆほども思っていない表情だ。これは恥ずかしがっている場合ではなく、言い聞かせなければならない。
「……グレース。本当にみんな心配していたから、お前が元気になってくれてうれしいんだ」
グレースは驚いた表情でユーグを見上げた。
「ユーグ様もですか?」
「……そう言っている」
「……そうですか」
うれし気にはにかむように笑うグレースが可愛い。思わず息を吐きだしそうになるのをぐっと耐えた。
「ありがとうございます」
自分の妻の笑顔がまぶしい。
グレースが元気になり、雪もだいぶ溶けたので視察に出かけることにした。自分でも言っていたが、グレースは本当に馬に乗ってデュノア伯爵領を巡回していたのだろう。見るべきものを理解していたし、乗馬もうまかった。本人はお手伝いレベルだった、というものの、領地経営はできそうだ。商会の方を手伝えなかったとしても、領地を管理してくれるのであれば、それはそれで助かる。
「わっ! もふもふ!」
初めて羊を見ると言うグレースは、毛むくじゃらの羊を見て華やいだ声を上げた。結構独特なにおいもする牧場でこんなに華やいだ声をあげられるグレースはすごいと思う。羊飼いの男性も若い女性のうれしげな声に、自分も嬉しそうだ。
「春に毛刈りをするので、今が一番毛が多いですね」
「なるほど……触ってみてもよいですか?」
「かまいませんが、きれいではありませんよ」
羊飼いが言うように、わらなどが絡まっていて羊毛はきれいとは言い難い。だが、それで気にするグレースではなく、両手で羊をモフモフした。
「意外と硬いんですね」
「絡まっていますからね」
品質が良くない、と言うことでこの牧場を訪ねたわけだが、ここでユーグとグレースの意見は一致した。おそらく、この冬の気候と食べ物のせいだ。羊だって生き物なのだから、環境や食べ物に体質が左右されるのは仕方がない話だ。
「来年に向けて対策を講じた方がよさそうだな」
「そうですね……今年は今年の羊毛で可能なことを考えた方がよさそうです」
状況に応じて必要なものをそろえるのはグレースが得意だ。ユーグは彼女に任せてみようと決める。羊毛の質が低下しているので、領地収益が下がってしまうため、グレースが指摘したように今年の羊毛でできる最適解を考えなければならない。こちらはユーグの方が向いているだろうか。
不意にユーグは羊飼いがこちらに手を振っているのに気づいた。
「……グレース。羊のチーズを食べてみないか」
「食べてみたいです」
嫁いできたばかりのころは遠慮がちだった彼女も、今ではこれだ。特に、食べ物関係だとよく釣れる。
自家製だと言うチーズを羊飼いからもらい、少しかじってみた。
「少し濃厚……な気がします」
「栄養価が高いから、お前は食べておいた方がいいんじゃないか」
「アメリー様にも乳製品を食べるように言われているのですけど」
親子で同じことを言わないでください、とグレースが少しむくれる。グレースは嫁いできた時、栄養失調気味だった。ユーグの母が栄養価の高いものを食べろ、と言ったのはそのせいだ。それに、乳製品は発育によい。どこの、とまで言うと下世話な話になるが、少なくとも多少の効果は見られているように思われる。
「……なんですか?」
まじまじとグレースを見つめていると、彼女はきょとんと首を傾げた。そのどこか幼げな様子に、自分が下心を持って見つめていたことに気まずくなる。
「……すまない」
「別にかまいませんけれど……では、私も同じだけユーグ様を見つめ返してみます」
「それはやめてくれ」
ユーグが緊張してしまう、と思って即拒否したら、グレースは少し残念そうに「そうですか」と返事をした。え、そんなにユーグを見たかったのだろうか。
「きれいな顔だなぁとは思っています」
との回答が返ってきて、どう反応すればいいのかわからない。まったく他意はなさそうであるが。
「……俺も、お前がかわいらしいと思っている」
少し憮然とした態度になってしまったが、意趣返しがてらユーグが言うと、グレースは相変わらず全く信じていなさそうに「ありがとうございます」と答えた。鈍感すぎて、最近は一周回って心配になってくる。
「どうしたら信じてくれるんだろうな?」
「はい?」
グレースが宣言通り見つめてくるので見つめあっていたが、ユーグは一つため息をついてぐっと彼女に顔を寄せた。顎に指をかけ、そっと口づける。触れただけで離れたが、グレースは何が起きたかわからないと言うようにきょとんとしていた。
その様子を見て、ユーグは開いている手を彼女の腰に回すと、ぐっと抱き寄せた。そのままもう一度キスをする。今度は軽くした唇を食み、舌で唇をなぞった。
「――っ!」
そこでやっと何をされているか気づいたらしいグレースは、ユーグの胸をたたいた。素直に離してやる。見ると、グレースは顔を赤くしてわずかに震えていた。
「嫌だったか?」
顔をのぞき込んで尋ねると、グレースは涙目でこちらをにらんできた。
「……嫌ではありませんけど、急にはやめてください」
驚きました! と文句を言われ、ユーグは「そうか」と笑った。
「なら、許可を取ることにする」
「許可……」
グレースはいちいち尋ねられるのもちょっと、と言うような反応だった。ならどうすればいいのだ。雰囲気をよめ、と言うには二人とも真面目過ぎた。
「私は、抱きしめられる方が好みです」
情緒にかける、と言うよりは情緒が幼いようなことを言われ、ユーグはどうすればいいのかと少々戸惑うことになった。