作品タイトル不明
8 親心(2)
店に戻ると、三人目のお客様が待っていた。今日は大忙しだ。
「ローウェンのところの弟子を更生させたのは、お前さんだな」
「…まあ、そうなんですかね?」
白い髭を蓄えた、いかにも頑固そうな絵画教室の師匠。
芸術大学で教鞭をとっていたこともあるらしく、このあたりでは「巨匠」と呼ばれている。
「最近の若いもんは、冒険をせん!若いうちに世界を旅して、実際に見て聞いて魂を震わせて絵を描けと言っとるのに、『いつか』『金があれば』なんて言い訳して、誰も行きゃあせんのだ!」
「…はあ」
「年を取ってからでは、時間はない、体力はない、仕事や家庭はあるで、行きたくても行けなくなる!今行かずにどうする!金はなんとかなるもんじゃ!何ならわしが貸してやる!」
「ほお…」
「わしが若いころは、カバンひとつで片道切符を握りしめ、言葉も通じない外国へ――」
長い昔話が始まりそうだったので、私は遮るように片手を挙げた。
「わかりました。つまりは生徒さんたちに『今しかない若さと時間の大切さ』を教え、広い世界に飛び出してほしいわけですね」
「…左様。腑抜けどもに、情熱を注入してくれたまえ」
「できるかわかりませんけど、とりあえず行きましょう」
彼の絵画教室では、十数人の若者たちがゆったりとキャンバスに向かっている。
「いつか世界を旅して、誰も見たことのない景色を描きたいよな」
「そうそう。お金が貯まったら、そのうちね」
「『いつか』『そのうち』と言い続けて何もできずに死ぬ人間が、どれだけおると思っとるんじゃ!」と巨匠が吠える。
ま、それは正しい。たいてい、年を取ってからようやく気づくことだけどね。
だからこその、師匠の願い。
私は彼ら全員に術をかけた。対象者が多いので、基本料金はがっぽり入る。
◇
今日も朝から晩まで帳簿を書き写して終わった。上司に叱られながら。
仕事を終えて、誰もいない家に帰る道。
画材店の扉に貼られた《王国青年芸術大賞 優秀作品展》というポスターが目に入った。
「大賞…ヨハン・フェルナーだって…?」
一緒の絵画教室で学んでいたヨハン。
貧しい家の子だったけれど、師匠にアドバイスをもらい、彼にお金を借りて旅に出たのだった。
「俺だって…」
「いつか旅に出たい。自分の目で世界を見て、絵を描きたい」と思ってはいた。
だけど「もう少し余裕ができたら」なんて思っているうちに、十年が経ち、二十年が経ち…
「旅に出て絵を描きたい」という気持ちがないわけじゃない。
でもキャンバスは部屋の隅で埃をかぶり、絵の具も固くなっている。
「…いつから、描いてない?」
あんなに好きだったのに。夢見ていたのに。
今は仕事に追われて時間もないし、かといって今更仕事を辞める勇気もない。それにもう四十も見えてきて、世界を見て回れるような体力もない。
若いころ、あんなにたくさんあった自由な時間。その気になればきっと何にでも挑戦できた、動く身体。
どうしてあのとき、ヨハンのように動かなかったんだろう。
「一歩踏み出していれば、俺も…」
何か違ったのかもしれない。
だけど、どれだけ後悔しても、時間と若さはもう戻ってこない。
◇
術が解けた瞬間、絵画教室の生徒たちが、弾かれたように全員立ち上がった。
目がやる気に燃えている。
「今行かなきゃ一生行けないんだ!俺、今すぐ荷物まとめて芸術の都へ行く!!」
「私は王都へ留学するわ!働きながらでもいいから、王都で絵を描くの!最先端の絵画を学びたい!」
「とにかく親に相談だ!」
「師匠、行ってきますね!うまくなって帰ってきますから!」
「おお、おお、そうか!よくぞわかってくれた!頑張れよ」と巨匠が感動の涙を流すなか、生徒たちは風のように教室から飛び出していく。
しん、と静まり返る教室に残されたのは、感動の余韻に浸る巨匠と、私だけ。
数分後、巨匠はハッと我に返り、がらんとした教室を見回した。
「全員、行ってしもうた」
「そうですね。やっぱり若い子には効くなあ」
「しかしこれでは、わしの絵画教室に生徒がいなくなる…来月の家賃が…!」
巨匠はこちらを振り返り、私の両手をがしっと掴む。
「お前さん、見たところ絵の才能がありそうだな!生徒にならんか!?」
「絵の才能は皆無です。犬を描いたのに『芋虫』って言われたくらいですよ」
「そんなことを言わずに…頼む…!」
縋ってくる巨匠を置いて、私は教室をあとにした。
そして「今日はよく働いた」とご褒美の骨付き肉にかぶりつき、いつもより少し念入りに歯磨きをして、ベッドに入ったのだった。