軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

7 親心(1)

今日一組目のお客様は、ぷりぷり怒っているお母さんと、「来たくなかったのに」と頬を膨らませている十歳くらいの男の子。

「この子、面倒くさがって全然歯を磨かないの。『大人の歯は失ったら二度と生えてこないのよ』ってどれだけ言っても聞かなくて」

男の子は鼻を鳴らす。

「だって痛くないし汚れてないんだもん」

「毎日ご飯を食べてるのに、汚れてないわけないでしょ!目に見えなくても汚れてるんだから!歯の裏側とか根本とか!このままじゃ歯がなくなるわよ!」

「なくなっても困らないもん」

「スープしか食べられなくなってもいいの!?」

「スープ好きだし」

「まったくあんたって子は…っ!」

私はお母さんに免責事項のサインをもらうと、少年の前にしゃがみ込んだ。

「スープしか食べられない生活、体験してみる?」

お母さんは「食べたら歯磨きしなさい」って、がみがみうるさい。

だけど面倒だしミントの味は嫌いだし、うがいしてるから大丈夫でしょ。

歯はいつもざらざらするけど、虫歯はないもん。きっと僕は歯が丈夫なんだ。

一人暮らししてからは、口うるさく言われることもなくなって、快適。

だけどある日、職場で好きな女の子に話しかけたら、嫌な顔をしてこう言われた。

「言いにくいけど…ハンス、口臭いよ。歯磨きしてる?」

してない。

恥ずかしい。

口を覆って家に帰って、必死で歯磨きした。けど臭いは消えない。

鏡でよくよく口の中を見てみたら、奥歯は黒くてボロボロ。茶色っぽい凹みもある。

前のほうの歯を指で触ってみたらぐらぐらして、ある日肉にかぶりついたら、抜けてしまった。

パンを噛むことすら怖くなって、もう具のないスープしか食べるものがない。

どうしたらいいかわからない。

治癒師のところにいったら「来るのが遅すぎる。全部抜かないと」って。

歯が、なくなる――

「いやだぁああああ!」

術が解けた瞬間、少年は自分の口を両手で押さえて、「鏡!鏡!」と叫ぶ。

まだ歯が揃っていることを確認して、「よかった」と涙を流す。

「お母さん、帰ろう!帰ってすぐ歯磨きする!」

「あらあら、口コミ通り効果てきめんねぇ」

お母さんはカプセルを一ダース買ってくれて、まだ「健康な歯を失う未来」に恐怖している息子をにこにこ顔で連れて帰った。

親子を見送ったら、入れ違いに五十代くらいの女性がやってきた。

「娘さんに術をかけたい、と」

「ええ。もっと旦那さんを大事にしてほしくて。本当にいい旦那さんだから」

彼女の娘は、足の悪い鍛冶屋と結婚している。

「うちの娘は気が強すぎてなかなか結婚が決まらなかったんだけど、ヴァルは『俺は気が弱いからちょうどいい』なんて、本当に大切にしてくれてねぇ。足を向けて寝られないわ」

「ほぉん」

「なのにブリギッテったら、『ヴァルは友達の旦那さんより容姿が良くない』とか『稼ぎが少ない』とか、下に見るようなことを言うの」

「…なるほど」

「稼ぎが少ないって言っても、ヴァルは腕のいい鍛冶屋だし、困ることなく生活はできてるのよ?もし悪口がヴァルに聞かれたらと思うと…あの子は大切にしてくれる人を失ってしまうかもしれないわ。だからお願い」

そうやって案内されたのは、年季の入った鍛冶屋だった。

軒先で依頼人の娘と思しき女性が、近所の奥様方と「夫の悪口大会」を開催中。

「足を引きずってノロノロ歩いて、いつだって顔は黒く汚れていて、みっともないったら。それに友達はみんな弁護士や商人と結婚してるのに、私だけ鍛冶屋のおかみさんだなんて、恥ずかしくて」

依頼人が「ブリギッテ、いい加減にしな!」と声をかける。

母親に悪口現場を見つかって「あ、まずい」という顔をした彼女に、私はほいっと術をかけた。

「ごめんよ、ブリギッテ。君に恥ずかしい思いをさせて」

夫に、私が言っていた彼への悪口を聞かれていた。「ずっと我慢していたんだけど、もう無理だ」と彼は言った。

「そんなに俺と一緒にいるのが嫌なら、離婚しよう。きっと、君にはもっといい男がいるだろう」

そう言われて、反論することもなく、私たちの結婚生活は終わった。

私は「お父さんと離れるのは嫌」と泣く三人の子どもを連れて実家に戻り、しばらくして別の男と再婚した。

結婚経験者同士のお見合い会で出会った、医者。

「ブリギッテ、医者と再婚したなんてすごいじゃない!」

「そうでしょう。顔もいいのよ」

私にとっては自慢の夫、子どもにとっては自慢の父になってくれると思った。

だけど――

「食器を運べ?男にそんなことさせるのか?」

「子どもと一緒に風呂?疲れてるんだから、風呂くらい一人で入らせてくれよ」

新しい夫は、家事も育児も、まったく手伝わなかった。

忙しすぎるのか私の誕生日は覚えていないし、プレゼントをくれたことも一度だってない。

私が両手にいっぱいの重い食材を抱えて、よろめきながら歩いていても、荷物を持とうともしない。

私のことなんて気にもしないで、話しかけてくる患者さんと笑顔でおしゃべりしている。

「ヴァルは…違ったのに」

ヴァルと一緒にいたとき、私は一度だってこんな重い荷物を持ったことがなかった。彼は足が悪いのに、いつも荷物を持ってくれて。

私が「あれが欲しい」と言えば必ず覚えていて、誕生日にはちょっと恥ずかしそうに、「喜んでくれたら嬉しい」とプレゼントしてくれて。

料理も洗濯も掃除も、おむつ替えも寝かしつけも、一緒になってやってくれて。嫌な顔も偉そうな顔もしないで、「自営業だとこういうとき助かるね」なんて。

「最高の夫だったんだ…」

なのに私は、見た目だとか稼ぎだとか、くだらない見栄のために彼を馬鹿にして、失ってしまった。

子どもたちにとっても、最高の父親だったはずなのに。

「ごめんなさい、ヴァル…みんな…」

涙が溢れて止まらなかった。

「ヴァル…」

現実に戻ってきたブリギッテさんは、自分が工房の前にいることを確認する。そしてドアを開けて、夫に飛びついた。

「ブリギッテ、いきなり危ないよ…」

「ごめんなさい!あなたは、世界一かっこいい夫よ!私と結婚してくれて本当にありがとう!私、あなたのために精一杯頑張るから、これからも一緒にいてくれる?」

「あ、ああ…もちろんだよ。こちらこそいつもありがとう」

「ヴァル…!ううん、私これまで最悪だったの…!だからこれからは本当にあなたのこと、あなたが私にしてくれたみたいに大事にするから!私、あなたに惚れてるの…愛してるわ、大好きよ」

私と依頼人は窓からその様子を見て、顔を見合わせる。

「…カプセル買います?」

「もう大丈夫だとは思うけど、念のため一ダースください」

「毎度」

依頼人はほっと息を吐いて、ふっとほほ笑んだ。