軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第  話(解読不能)

森の東。

谷は深く、冷たく、そして静かだった。

霧が川面を撫で、岩肌に貼りついた苔は朝も昼も区別せず濡れている。

その中心に――眠るものがある。

地形の一部にしか見えない巨躯。

谷に横たわる稜線。岩の列。山脈の断片。

だが、それは山ではない。岩ではない。

世界天蛇(イオルムンガンドル) 。

そこに居るだけで、周囲の世界の輪郭がわずかに歪む。

湿った空気が重くなる。音が遠のく。鳥の声が途切れる。

森が息を潜めるほどの巨躯。

その渓谷に、ひとつの芽が伸びた。

音もなく、抵抗もなく。

柔らかく、しかし尋常ではない速度で。

芽は枝になり、枝は骨格になり、骨格は皮膜を纏う。

人形の形。

肩、腕、胴、脚。

そして――顔。

樹神女帝(ドライアド・エンプレス) の樹人形。

肌は木肌のまま滑らかに均され、硝子のような眼が埋まる。

そして何より、マネキン染みた無表情。

その無表情は王国の者にも魔国の者にも、一度として見せたことのない種類のものだった。

会談で見せた皮肉も、食卓で見せた悪ガキの笑みもない。

完全に「外部」を拒む冷徹さ。

情緒を削り落として、目的だけを残した顔。

樹人形が渓谷を見上げる。

『――おい。蛇。事情を話せ』

声は冷たい。

温度など一切ない。

それは怒声ではなく、命令でもなく、ただの要求。

誤魔化しも引き延ばしも許さない声色。

返答はない。

眠る巨躯は、動かない。

ただ、そこにいる。

だが領域は、動いた。

谷の空気がわずかに歪む。

霧の流れが止まり、川のせせらぎが消える。

岩肌の影が濃くなり――渓谷そのものが「目を開く」ような感覚。

そして深淵の眼が、女帝を見た。

見た、と例えることすら埒外。

視線という概念の外側から、知覚が向けられている。

目で見られているのに、目で見られていない。

法則の裏側から覗き込まれている。

女帝の樹人形は一歩も引かず、吐き捨てるように言った。

『貴様、何を考えている。自らの分け身を、国に与させるなど……』

言葉の途中で、一度首を振った。

怒りの方向を修正する。論点を絞る。要点だけに刃を立てた。

『いや、国に与する事が問題ではない。外に出る事の方が問題だ。我等の力は、他を陵駕しておる。安易に出せば、世界が揺れるぞ。解っておるのか?』

返答はない。

蛇は、答えない。

ただ、見下ろす。

その沈黙が、女帝にとっては嘲笑と同義だった。

理解していて黙っているのか。理解していないから黙っているのか。

どちらでも同じ――答えないなら、答えさせる。

女帝の眼が細くなる。

『この後に及んでまだ答えぬか……舐めるなよ』

そして――女帝の領域が広がった。

世界に根が伸びる。渓谷の、蛇の領域を侵食する。

繁る樹々の気配が、谷の隅々まで満たし、岩の隙間に入り込む。

世界の表面に、繁栄の法則が上書きされていく。

呼応して。

蛇の領域が広がる。

女帝の勢力圏を押し返すように、蛇の存在感が満ちる。

空間が軋む。音が潰れる。空気が鈍る。

視界は保たれているのに、距離感が崩れる。

力と力のぶつかり合い。

睨み合いだけで、空間が軋む。

この瞬間、もしも帝国軍が渓谷に残っていたなら。

一人残らず、魂までひしゃげていただろう。

鎧も骨も魂も、歪んで潰れていた。抵抗する暇すらない。

常人では踏み入る事すらできない神域の争い。

睨み合いの中心で、魔力が弾ける。

永遠不滅の蛇と、無限繁栄の樹。

力の大きさは、ほぼ互角。

拳も魔法も剣も不要。

ただ存在するだけで、鬩ぎ合いが始まる。

しばらく二者の衝突は続いた。

女帝が天蛇を見上げるだけで、樹々が怒りに騒めき。

天蛇が女帝を見下ろすだけで、星空が無慈悲に堕ちる。

互いに意思を向ける。世界を己の法則で塗り替えていく。

その無言の戦いは千日手の様相を見せる。

終わりの見えない、超越者同士の睨み合い。

だからだろうか。

――蛇が言葉を紡ぐ。

『――何を焦る。豊穣の樹』

声は女性。

アギトの声ではない。軽やかな少女の声とは違う。

妙齢の女性の声。

長い年月が染み付いた、落ち着いた声。

星空の彼方から響くような声色。

女帝の眼が、僅かに釣り上がる。

『何を、だと? 言わずとも解るだろう。貴様の行動を見て、どうして焦らないと思う? その力、我や隠者と同格のその力。我より先に生まれた永遠の蛇――それが外界に出たのだぞ? 焦らぬ理由があるものかよ』

睨み合いを続けながら、女帝は吐き捨てる。

当然だ。森の主の力は、外で振るえば簡単に国を亡ぼす。反則を通り越した禁忌。

その力が帝国に行った。そこからどう世界が動くのかは解らない。

だが確実に、平穏では終わらない。終われるような力ではない。

だからこそ――隠者も女帝も外に出ない。

『貴様が動くのなら、我と隠者も黙ってはおれぬ。だからこそ――』

『――だから、何故焦るのかと聞いている』

その言葉に、女帝は僅かに止まった。

天蛇の言葉が、上手く呑み込めない。

何か――自分と天蛇の中で、齟齬が起きているような気がして動けない。

『――確かに。わたしの「手」が外界に伸びれば、それは間違いなく世界を揺るがす結果になろう』

蛇は淡々と告げる。

脅しではない。誇示でもない。

当然の事実として語る。

『解っているのなら何を――』

女帝が言い返そうとした、その瞬間。

『だから―――― そ(・) れ(・) で(・) 何(・) 故(・) 、 貴(・) 様(・) が(・) 焦(・) る(・) の(・) か(・) と(・) 問(・) う(・) て(・) い(・) る(・) の(・) だ(・) 』

『――――』

その言葉を聞いた瞬間、女帝はすぐに返答できなかった。

世界は揺れる。大陸は動く。戦争になる可能性だってあるだろう。

だがそうではない。確かに、自身の領域内にある魔国が、巻き込まれる可能性がある以上「多少の便宜」は図る。巻き込まれても無事で済むように。

だがそもそも――国も、人も、全て枝葉だった筈。

いや、その認識は今も変わっていない。

女帝の認識は変化していない。魔国内の住民が死んだとしても、それほど感情は動かない。

多くある命のひとつが失われるだけのこと。悼みはするだろうが……逆を言えばそれだけだ。

こんな―― 必(・) 死(・) に(・) な(・) っ(・) て(・) 焦(・) る(・) 理(・) 由(・) はどこにもない。

蛇の分身が外に出たからといって――焦る理由がどこにある?

『――なんだ、これは』

人と触れ合って感傷を抱いた? 否、違う。

仮に今、魔国女王のメトゥスが死んだとして、戦争の果てに惨殺されたとして――そこまで心が動かない確信が女帝にある。超然たる意識に変化は無い。慈悲はあれど、人とは違う慈悲だ。

たとえ国が荒れようと、世界を巻き込む戦乱が起きようと、心に波風立たないのが女帝だ。

そうやって生きて来た命。女帝の価値観は人とは大きくズレている。

それなのに、焦っている。

世界に戦乱の気配が宿っただけで慌てている。

枝葉でしかない国の存亡に――

――違う。

焦りの原因は、ただ一点。

天(・) 蛇(・) の(・) 分(・) 身(・) が(・) 外(・) 界(・) に(・) 出(・) た(・) と(・) い(・) う(・) 事(・) 実(・) だ(・) け(・) が(・) 、 何(・) 故(・) か(・) 女(・) 帝(・) に(・) 焦(・) 燥(・) 感(・) を(・) 抱(・) か(・) せ(・) て(・) い(・) る(・) 。

意味が、解らない。

女帝の意識していない、何か「別の機能」が働いている。

『ようやく気付いたか。そうだ。それがわたし達「森の番人」に課せられている「役目」』

天蛇が悠然と語る。

今、女帝が抱いている焦りは――女帝自身が抱いている感情ではない。

その焦りは「世界の内」から漏れているモノだと。

『最初にわたしが東で生まれた。次にお前が西。そして北。最後に南――その順番で配置された』

天蛇が語るモノ。それは順番だ。

森の四方に配置された順番。

その言葉が、女帝の認識に別の影を落とす。

何故、この森の主となったのか。何故、 樹神女帝(ドライアド・エンプレス) という名を付けられたのか。

女帝が考えていた以上の意味が、ある。

蛇が続けた。

『役目がある。わたし達は、その役目を果たす為だけに配置された楔』

そして女帝よりも長い時を生きている天蛇だからこそ、その順番が意味することを朧気ながらに掴んでいる。

何か、役目があるのだ。天蛇が世界を 噛(・) み(・) 続(・) け(・) て(・) い(・) る(・) よ(・) う(・) に(・) 。

西にも、北にも、南にも。

何か――「世界」にとって大切な役目がある。

『だから焦ったのだよ。東が勝手に役目を放棄したように錯覚して』

錯覚。

女帝と隠者の焦りは、役目の警報。

本来焦る必要のない事柄を、一大事として取り上げる。

超然たる女帝ですら狂わせるほどの仕組み。

その事実が、女帝に久々の恐怖を思い出させた。

力の差を恐れるのではない。

死を恐れるのでもない。

自分が、自分ではないものに動かされる。

その感覚こそを恐れる。

『……一体、何なのだ、この森は。我等に一体何を求めている?』

女帝の問いは、渓谷に落ちる。

渓谷の冷えた空気がそれを吸い込んで、答えのないまま漂う。

『解らん』

蛇は、嘘をつかなかった。

『わたしも永遠をここで過ごしているが、誰かの意思を感じたことは一度も無い』

天蛇も、その詳細まで知っている訳ではない。

命令された覚えも、縛り付けられた覚えもない。

ただ、ここに居た。ここで過ごした。悠然と長い時をこの森で。

その際に掴んだ、僅かな意味を噛み解いただけ。

蛇の眼が、ほんの僅かに細まる。

思案の仕草なのか、ただの揺らぎなのか判別できない。

『ただ、八年前に南が異界より召喚され……四年前に北が暴走した。偶然ではないのだろうな』

時間が並べられる。

八年前。四年前。

間隔がある。ズレがある。誤差がある。

これが意味する事は何なのか。蛇にもそれは解らない。

ただ、偶然ではないと思っている。今までの経験から、単なる「出来事」ではなく「進行」の一部なのだと推測しているだけ。

女帝の身体が僅かに震える。

怒りでも焦りでもなく……純然たる恐怖で。

『案ずるな』

蛇は、女帝に向けて言う。

慰めの形をした、何の慰めにもならない言葉。

『おそらく何も変わらん。思うように動けばいい。わたしが外に手を伸ばすように――お前も隠者も、思うように動けばいい』

女帝の中で、何かが軋んだ。

思うように動け?

それは、動いていいという許可なのか。

それとも、動くことを織り込み済みだと言っているのか。

あるいは―― 動(・) い(・) た(・) と(・) こ(・) ろ(・) で(・) ど(・) う(・) に(・) も(・) な(・) ら(・) な(・) い(・) と知っているのか。

『何をしてもいい。何をしたところで、結末はひとつだ』

蛇は、悠然と告げる。

世界の底すら見通すような瞳で。

霧の向こう、岩の向こう、森の向こう――さらにその向こうを見ている目で。

『どうせ世界は――ハッピーエンドを迎えるのだからな』

天蛇は言った。

穏やかな声色で。整った響きで。

そんな―― 安心する(救いのない) 言葉を贈った。