軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第54話・商人伝説

ログハウスのテーブルが、いきなり「戦場」に変わった。

いや、戦場と言うと物騒だが――実際、そこにあるのは地図と駒と硬貨と、小さな盤だけだ。

なのに空気は、剣の柄に指をかける時のように張りつめている。

テーブルの上には大きな地図。

王国と魔国をざっくり二分する境界線、川筋、街道、森の印、海岸線。

地名はどれも見覚えがある。見覚えがあるからこそ、レジーナは背中に薄い冷汗を感じる。

その周囲に、人型の小さな駒が四つ置かれた。

有羽の駒は簡素な木の人形。

アウローラの駒は、頭に小さな星の刻印がある。誰が彫ったのか、分かりやすすぎる。

ラディウスの駒は騎士兜のように尖り、レジーナの駒は僅かに細身――侍女達の目が「かわいい……」と震えていた。

硬貨を模した玩具の通貨。

そして、色分けされた三枚のルーレット盤。

青。赤。黄。

さらに、ころころ音を立てる角張った箱から出てきたのは、目が刻まれた小さな立方体――サイコロだ。

有羽は咳払いを一つ。

そして、口元だけで笑って告げた。

「新しい遊戯。暫定だけど名前つけた。――『商人伝説』。略して『商伝』」

「しょうでん……?」

アウローラが舌の上で転がすように復唱する。

その瞬間にはもう、わくわくが抑えきれていない。尻尾が見える。完全に見える。

「参加者は四人。俺、アウローラ、お姉さん、ラディウスさん。観客は自由。口出しは……まあ、最初だけは許すけど基本は無しね」

窓の外に張り付いた護衛達が「了解!」と妙に大声で返事をして、侍女達に肘で小突かれて黙った。

「よし。じゃあ、最初はルール説明しながら。基本は簡単。サイコロ振って進む。止まったマスで金が増えたり減ったり、魔法を拾えたりする。あと町に止まったら「物件」を買える。物件は毎年収益を生む。……最終的な「総資産」を競う」

ラディウスが目を細める。もう計算を始めている顔だ。

レジーナは微笑を崩さないが、その視線は地図の街道をすでに追っている。

アウローラだけが、うんうんと勢いよく頷いている。理解が追いついているかは怪しい。

「で。まずはアウローラから。理由? 分かりやすいから」

「私、分かりやすいのか……?」

本人は首を傾げるが、有羽も侍女隊も護衛隊も、全員同時に「はい」と頷いていた。

レジーナが上品に咳払いをして、笑いを飲み込む。

アウローラはサイコロを取る。

握りしめる手が、戦場に赴く将の手みたいに力強い。

「よし……行くぞ!」

ころころ、と転がったサイコロは、軽い音を立てて止まる。

アウローラの駒が、地図の上を進む。

そして止まった先は、青のマス。

「青だな。じゃ、青の盤。回せばいい。青いマスは「収入」。このルーレットに書かれた数値の分だけ金貨が貰える」

「これを回せばいいのか?」

「そう。回してみて」

アウローラは青い盤を両手で押さえ、勢いよく針を弾いた。

くるくる、くるくる。

針が回る音に、侍女達が無駄に息を飲む。護衛達が無駄に身を乗り出す。

やがて、針は「100」と書かれた目でぴたりと止まった。

「はい。これでアウローラは金貨100枚手に入れた」

「うははー! これだけで金貨100枚とか、大儲けじゃないか!」

アウローラは拳を握って喜ぶ。

そして、ふと地図の色を見回し、きょとんとした顔になった。

「……ん? そうなると、この赤いマスや黄色いマスは何なんだ?」

有羽は、待ってましたとばかりに指でトンと机を叩く。

口調は軽いが、内容は妙に 重(・) み(・) がある。

「赤いマスは「支出」。青の逆。赤いルーレット回して、その分金貨が減る。払う理由は色々……税とか、修理費とか、事故とか、罰金とか。リアルだろ?」

レジーナが微妙に口元を引きつらせる。

妙に生々しい。王族だから出費に関してはいつも頭を悩ませる。

こういう時は、黙って微笑むのが外交の勝ち筋。

「黄色は「魔法」。ここがこのゲームの味。黄色のルーレット回して、出た目の魔法カードを取る。魔法は一回使い切り。持てる枠は三つまで」

「三つだけ?」

「三つだけ。持ちすぎると魔法ゲーになる。選択の余地があるのが面白い」

ラディウスが頷く。

制限があるから戦略になる、という感覚を理解している。

有羽は黄のルーレット盤を回し、わざとらしく読み上げた。

『駿馬』『名馬』『天馬』――移動の際、サイコロの個数が増える魔法。

『落石』――3ターン道を塞ぐ。

『暴風』――自身がランダムに吹き飛ばされる。

『帳消し』――借金をゼロにする。

『交換』――持ち金を入れ替える。

『豪商』――物件をひとつだけ激安、十分の一の値段で買える。

『会議』――全員集合。

『強奪』――相手の魔法を奪う。

説明を聞きながら、ラディウスが静かに唸った。

「これは……魔法マスは積極的に停まるべきだね。強力な効果が多い。特に豪商……これは、勝敗を決める一撃になり得る」

同じように、レジーナの声がほんの少しだけ低くなる。

「……強奪は厄介ね。強力な魔法を手に入れても、奪われてしまえば意味がない。魔法の価値が上がるほど、強奪の価値も上がる……これは頭を使うわ」

言葉は落ち着いているが、瞳は完全に真剣だ。

「大体取った瞬間に狙われるけどな」

有羽は肩を竦める。

その 軽(・) さ(・) が、余計に怖い。

やってみた上での軽さだ。

そしてアウローラは、青マスで100を当てて浮かれていたのに、急に難しい話になって首を傾げている。わんこが急に王宮の会議室に放り込まれた顔だ。

「え? え? え? えっと……つまり……今の私、強い?」

「今の君は、金貨100で浮かれてるだけの王女だよ」

「ひどい!」

有羽は咳払いして、場を整える。

「ま、とりあえず初回は説明も兼ねてやる。全員が一回ずつサイコロ振って進む。これで「一か月」。これを十二回で「一年」。区切りはとりあえず「三年」。三年終わった時点で資産の合計を比べる」

「三年……」

レジーナが小さく復唱する。

彼女の頭の中では、すでに「年次決算」が走っている。

資産の評価、物件の収益、イベントの確率。

そして、なにより――地図を使った地理理解の補助。

あまりにも「教育用」だ。

ゲームは進む。

有羽がサイコロを振り、赤マスに止まってルーレットを回す。

針が「30」で止まり、「はい、損失30」と淡々と言う。

侍女達が「賢者様でも赤引くんですね」と囁き合う。

有羽が「俺だって運は普通だよ」とぼやく。

ラディウスは最初の手番で黄色を引いた。

黄のルーレットを回し、引いたのは――駿馬。使うと振るサイコロが二個になる。

「移動が増えるのは分かりやすい。序盤に持っておけば、物件を買うチャンスが増える」

即座に戦略化。

騎士なのに、商人の目をしている。

レジーナは慎重に進む。

赤を避け、黄色を拾える道を確認しながら、青も踏む。

収入を得ながら、手札を整えるという、あまりに妥当な動き。

周りの侍女達が「さすが第一王女様……」と尊敬の眼差しを送る。

一方のアウローラは。

「よし! 次も青を狙う!」

「狙って止まるもんじゃない」

「狙う気持ちが大事なんだ!」

有羽が突っ込み、アウローラが胸を張る。

護衛達が外で「殿下、それで勝てます!」と余計な応援をして、侍女隊に黙らされる。

やがて、アウローラの駒が「町」に止まった。

「有羽ー。これ、何買うのがいいんだー?」

買い物の相談が、恐ろしく無邪気だ。

有羽は地図のその町の欄を指で叩く。

「お勧めは収益が高い物件。今の町だと――武器屋だな」

「あ! 知ってる! ここの武器は有名なんだ。ドワーフの鍛冶師が居て……」

アウローラは、知識を「生活の言葉」で語る。

それがそのままゲームに繋がるのが、面白い。

冊子をめくると、武器屋の欄に「収益10割」とある。

アウローラの目が丸くなった。

「収益が10割! これ、買った金額分が来年そのまま返ってくるのか!?」

「そ。だから二年三年と続けば、その分金が増える。買い得だ」

「買う!!」

即決。

王女の即決は怖い。

いや、これはゲームだから可愛い。現実なら財務官が倒れる。

アウローラは鼻歌でも歌いそうな勢いで、武器屋の札を自分の前に置く。

レジーナはにこやかに見守りながら、内側で思考を走らせた。

(……これは覚えやすい)

町に止まる。

名産を見る。

収益を見る。

買う。

増える。

失う。

奪う。

守る。

遊びの流れに乗るだけで、地理と産業が頭に入る。

苦しい暗記ではない。

欲(・) が記憶を引っ張る。

自分が買った武器屋の存在は忘れない。

忘れるはずがない。毎年金が入るのだから。

(学習を「快楽」に変える発想……恐ろしい)

王族としての教育を受け、学園で座学を積んできたレジーナですら、勉学は「義務」だった。

必要だからやった。得意だから成績が良かった。

好き好んでいたわけではない。

だが、これは違う。

楽しい。

それが一番厄介だ。

楽しいものは、人を縛る。

縛るものは、文化になる。

文化になれば、国を動かす。

(……もし、この遊戯を広めたら)

この遊戯を王都へ持ち込めば、瞬く間に流行るだろう。

貴族の子供達が夢中になる。

そして知らず知らず、王国の地理と産業を「遊びながら」覚える。

それは政治の基礎を配ることに等しい。

(賢者自身がそれを望まずとも、拡散する)

だからこそ、彼も遊戯も森に留める。

理解を示して、そっとしておく。

それが、最善。

……そう、頭では分かっている。

分かっているのに。

レジーナは、自分の番が待ちきれなくなっていることに気づいた。

視線が、無意識にサイコロへ行く。

盤の色へ行く。

自分の駒へ行く。

(……これ、結構面白い)

レジーナは気付いてしまった。

自分の番が待ちきれない。

内心が、微かに浮き立っている。

それを悟られまいと、背筋を正し、王女の微笑を整える。

けれど、指先がわずかに机の縁を叩いてしまう。

小さな癖。癖の方が先に楽しんでしまっている。

「次、お姉さんの番」

「……レジーナで構いませんわ」

「え?」

「妹はアウローラ。夫はラディウスさん。私だけ仲間外れは酷いのではなくて?」

ぐ、と呻くような有羽の声。

ほんの少しの意趣返し。今の緩い空気なら距離を詰められる。

仮にも王女が黙ったままではいられない。それに隣には――無邪気な援軍がいる。

「そうだぞ有羽。姉上だって名前で呼んで差し上げろ。それに有羽が姉上を「お姉さん」とか言うのは……」

「……言うのは?」

「何か、気持ち悪い」

「おい! 何だそれ!?」

ぎゃあぎゃあとやり取りする、有羽とアウローラ。

その様子を微笑みながら見る。警戒心の強い賢者との距離を詰める機会は少ない。妹とじゃれ合っている間に、レジーナもちゃっかり距離を縮める。

「あーもー……分かったよ。それじゃ……レジーナさん」

「はい」

有羽の声。

その呼び方が、少しだけ新鮮で。

レジーナは小さく頷き、サイコロに手を伸ばした。

ころころ、と転がる木の音。

盤面の上で、王国と魔国の街道が、遊びの道に変わっていく。

商人となって巡る旅。

稼ぎ、奪い、塞ぎ、吹き飛ばされ、時に笑い、時に呻く。

『商伝』はまだ序盤。

なのに既に、皆の目が本気になり始めていた。

次の一手が、待ち遠しい――そんな熱を残したまま。

ゲームは、まだまだ続いていく。

◇◇◇

テーブルの上に広がる大判の地図。

そこに並ぶ駒、硬貨、札束、色分けされたルーレット盤。

火にかけた鍋も、香ばしい揚げ物の匂いも、もう遠い。

今この場を支配しているのは、金貨の擦れる音と、サイコロの転がる音と、そして――勝負事特有の、人の顔が「勝負師」になる気配だった。

侍女隊はいつの間にか壁際に整列し、茶の差し出し方すら控えめになっている。

護衛達は家の外で張っているはずなのに、窓の下に影が増えている。

覗いている。護衛達は交代で、覗いている。

そして、四人の「商人」が、テーブルのこちら側に揃っていた。

有羽は気楽そうに肘をつき、アウローラは身を乗り出し、ラディウスは背筋を伸ばし、レジーナは微笑を崩さない。

だが――その瞳は全員、盤面の一点に釘付け。

目的地。

魔国領内、野菜の名産地。

畑と市場と荷車が行き交う、地味だが堅実な稼ぎの街。

そこへ、最初に辿り着いた者がいた。

ラディウスである。

現実では聖騎士として最前線で剣を振るう男が、盤面では最速で目的地に到達した。

「……お、僕が一番乗りか」

口元は笑っている。

しかし目は笑っていない。勝負師の目だ。

本人も気づかぬうちに、騎士の「勝利への嗅覚」が商人の遊戯に転用されている。

「それで、この後はどうなるんだい?」

ラディウスが有羽に問いかけると、有羽は指を一本立てた。

「最初に到着した者には「褒美」。金貨2000枚」

言い終わるより先に、空気が凍った。

「に、ににににに2000枚ぃ!?」

アウローラが、文字通り椅子から浮きかける。

目玉が飛び出る寸前で踏みとどまっているのが奇跡だ。

侍女達が一斉に口元を押さえ、護衛達が窓の外で「えぐ……」と呟いた。

レジーナは笑顔のまま瞳孔だけを細め、ラディウスは貰う前から守りに入る顔をした。

「2000枚!? 凄すぎだろう、その金額は!!」

「うん。だから急ぐ意味が出る。目的地に着くのが遅いと損。早いと得」

有羽は淡々としている。

淡々としているが、その淡々は、経験の淡々だ。

つまり、こういう仕掛けで人がどう動くか知っている。

「この褒美は 最(・) 初(・) に(・) 到(・) 着(・) し(・) た(・) 一(・) 人(・) だけ。二着三着には意味がない。……というか、目的地に着くたびにルーレット回して、新しい目的地が設定される。だから一着以外は褒美なし」

「えぐい……」

アウローラが思わず漏らす。

レジーナは、ここまでで全てを理解した。

(……ただ青マスを踏めばいい単純な遊戯ではない。目的地へ向かう必要がある。そして目的地の価値が高いからこそ、「一手の差」が致命傷になる)

彼女の指先が、無意識に黄色の魔法札へ触れかけ寸前で止まった。

外交官の癖。感情を表に出さない癖。

「なるほど。最初はただ「多く進める」だけと思っていた『馬』の魔法が、なぜ三つも用意されているのか……理解したわ。早く着くことが資産に直結する。速度は価値、ね」

「そう」

有羽は頷き、わざとらしく馬札を扇のように並べて見せた。

「特に『天馬』は最強。一度にサイコロ四個。移動だけ見たら他を圧倒する。……だからこそ『強奪』や『交換』が恐ろしい」

その言葉に、ぎくりとラディウスの肩が固まる。

――交換の魔法。

それを、今、レジーナが持っている。

盤面の上では、ラディウスの手元に金貨2000枚。

現実の金貨ではない。玩具の硬貨だ。

しかし玩具でも、重い。

重すぎる。存在感が。

レジーナは、にこりと笑っている。

笑っているが、その笑みは「優しさ」と「刃」の両方を含んでいる。

ラディウスは、妻の顔を見て悟る。

これは、外交ではない。

家庭内の、ややこしいやつだ。

「……賢者殿。この場合、どうすればいいのかな? いや、もちろん現実なら対策はいくらでもあるが、遊戯の盤上では――」

「今、街に停まってるでしょ。その2000枚で物件買っちゃえばいい」

「おお、なるほど。資産に変換してしまえば、持ち金を交換されても……待ってくれ」

ラディウスは冊子をめくる。

ページに並ぶ畑。畑。畑。

野菜畑。香草畑。根菜畑。……たまに市場。たまに荷車屋。

「この街、畑だらけで収益があんまり美味しくないんだが……」

言い方がすでに商人。

現実の一次産業は国の土台だが、盤上での「伸び」は地味だ。

有羽は、肩を竦めて言った。

「でも金を持ったままだと、交換でごっそり持っていかれる可能性がある。なら、薄利でも資産に変えるのが正解。でないと、次のレジーナさんの手番で交換されちゃいますよ?」

レジーナが、微笑みを深める。

頷きも否定もせず、ただ 持(・) っ(・) て(・) い(・) る(・) という事実だけで圧をかけている。

ラディウスは、呻いた。

「く……か、買えるだけの畑を買う……!」

断腸の思い。

騎士の断腸は内臓の位置が違うのかと思うほど、顔が歪む。

それでも決断は早い。

2000枚を守るために、利益の薄い畑を「資産」へ変換する。

硬貨がざらざらとテーブルを滑り、畑の札が次々とラディウスの前へ積み上がる。

畑、畑、畑。

まるで領地の地図に、畑の旗が刺さっていくかのようだ。

アウローラが変な声を出した。

「ラディウス卿……畑王になったぞ……」

「嬉しくないね!?」

即座のツッコミ。

侍女達がくすくす笑い、護衛達が外で盛り上がる。

有羽は盤面を整え、次の工程へ進む。

「じゃ、次の目的地をルーレットで決める――それから、全員、今いるマスから ラ(・) デ(・) ィ(・) ウ(・) ス(・) さ(・) ん(・) の(・) い(・) る(・) マ(・) ス(・) ま(・) で(・) の(・) 距(・) 離(・) を数えて」

「距離……?」

レジーナの眉が僅かに動く。

目的地に一着した者が得をするゲームで、距離を測らせる。

つまり、 遅(・) れ(・) た(・) 者(・) へ(・) の(・) 何(・) か(・) がある。

アウローラもそれに気づいたのか、急に真顔になる。

遅れは嫌いだ。

戦場でも、追撃でも、遅れた者は死ぬ。

そしてこの遊戯でも、遅れは「死」に等しいらしい。

全員がマス目を数え始める。

この地図は精巧で、道筋も見やすい。

すぐに結果が出る。

一番遠いのは――アウローラだった。

「よし。それじゃアウローラにはペナルティ」

「ええ!? 何でぇ!?」

「目的地から一番遠い商人は、動きが遅い。鈍い。商売の機会を逃してる。だから罰、って感じ」

なるほど、とレジーナは頷く。

遅れている者は競争上不利なのだから、さらに不利を背負わせる。

理不尽だが、勝負としては筋が通っている。

人の感情は燃える。遅れた者ほど焦る。焦った者ほど無茶をする。無茶をした者ほど――転ぶ。

有羽は、テーブルの端から新しい駒を出した。

それは、ひょろりとした人型。

どこか哀愁のある顔。

旅装束のような形。

そして妙に「見覚え」がある。

続けて出されたのは、黒のルーレット盤。

そこには、見るだけで胃が痛くなる文字が並んでいる。

アウローラが、嫌な予感を隠しきれない顔で呟いた。

「あれ……これって」

「そう。みんな知ってるよね。有名な神様。――放浪神ノングラータ」

その名を聞いた瞬間、侍女隊の空気が一段ひやりとした。

この世界では、ノングラータは『お伽噺の神』であり、『ネタにされる神』だ。

王都の賭場で負けた者が、最後に責任転嫁する相手。

金回りが悪くなったときに、飲み屋で槍玉に上げられる神。

――ノングラータに嫌われたな。

――祝福じゃなくて呪い貰っただろ。

そんな軽口が、誰の口からも自然に出る程度には、身近で、厄介で、ネタにされる存在。

信仰というより、生活の冗談の中にいる神。ちなみに「上位神」である。

だが冗談の形をしているからこそ、怖い。

人は笑いながら呪いを受け入れてしまう。

「そんなわけで、しばらくの間、アウローラはノングラータと一緒に旅をしてもらいます。やったね」

「全然よくない!!」

アウローラが即座に叫ぶ。

顔が引きつり、全身が拒絶している。

昼飯のカレーで幸せだった人間と同じとは思えない。

「よく分かんないけど、放浪神に取り憑かれて良い事になる訳がない!!」

「その通り」

有羽が肯定したせいで、アウローラが逆に絶望する。

「これからアウローラは自分の番が来るたびに、ノングラータルーレットも回す。ここに書いてある効果が発動する」

有羽が、黒いルーレット盤をテーブルに置く。

覗き込んだアウローラの顔が、見る見る青くなる。

「……物件ひとつ売る、とか……金貨50枚失う、とか……魔法ひとつ捨てる、とか……ろくでもないことしか書いてないんだけど……」

「……がんばれ」

「おおい!! どうしろというんだ、こんなクソ神つけてちゃ絶対勝てないじゃないかー!!」

ログハウスの天井が軋むくらいの叫び。

仮にも神をクソ呼ばわり。

だが誰も止めない。

この神は、そういう立ち位置なのだ。

有羽は悪い顔で、追い打ちのように言う。

「大丈夫。救済策はある。ノングラータ、他人に移せる」

「え?」

「マスを進んで、他人に重なったり追い越したりしたら、その相手にノングラータがくっつく」

今度はレジーナが、凍った。

凍りながら、微笑を保つ。

王女の技能である。

(……一番近いの、私……)

レジーナの駒とアウローラの駒の距離は、確かに近い。

しかもアウローラは動く。考える前に動く。

つまり――来る。

レジーナが、にこやかな笑みのまま、低い声で言った。

「……アウローラ。来なくていいわ。来たら駄目よ」

「……姉上。今、行きます」

「来るなと言っているでしょう。姉の言葉を聞きなさい」

アウローラは、もう戦場の目をしていた。

目的は目的地ではない。

姉にノングラータを押し付けることだ。

有羽が横から、余計な燃料を投下する。

「アウローラ、名馬カード持ってたよね? 使えば追い越せるかもよ」

「使う!!」

「こら!!」

そして醜い姉妹喧嘩が始まる。

侍女達はそわそわし、護衛達は窓の外で肩を震わせて笑っている。

ラディウスだけが「まぁまぁ」と宥める顔をするが、その目は笑っている。楽しんでいる。

「だって姉上! 私だけ不幸になるのはおかしいだろう!? 運命共同体だ!」

「私達は姉妹であって共同体ではありません! せめて一人で抱えなさい!」

「嫌だ!」

有羽は盤上を指で軽く叩き、進行役に戻る。

「はいはい。じゃ、アウローラ。ノングラータルーレットからね。逃げるな。神と向き合え」

「向き合いたくない!!」

アウローラが渋々ルーレットを回す。

くるくる、くるくる。

針が止まる。

『金貨50枚失う』

「うわぁぁぁぁ!!」

叫びがログハウスに響き、外の護衛達が「殿下ぁぁ」と同情の声を上げる。

侍女達が即座に「静かに!」と叱る。

レジーナは胸の内で小さくガッツポーズをした。酷い姉である。

有羽は淡々と金貨を回収する。

「はい、50枚。ノングラータ、仕事早いね」

「仕事しなくていい!!」

アウローラは涙目でサイコロを取る。

その目が、ちらりとレジーナを見る。

レジーナは微笑んで、目で言う。

(来たら、許しません)

アウローラも笑って、目で返す。

(行きます)

何をやっているのか、この姉妹は。

ラディウスが肩を竦め、有羽が呆れ顔で天井を仰ぐ。

侍女達は、もう完全に観客として「楽しい」を隠しきれていない。

護衛達は窓の外で、いつの間にか賭場の客みたいな顔になっている。

盤の上では、目的地が変わり、金が動き、物件が増え、そして神が取りつく。

現実ではありえないほど軽く、けれど現実以上に容赦ない。

――そして何より。

この遊戯は、全員が気づいてしまっていた。

恐ろしく、面白い。

わいわい、ぎゃあぎゃあ。

叫び声と笑い声が木の壁に反射し、ログハウスは一時だけ、森の奥の楽園に。

商伝はまだ序盤。

ノングラータはまだ旅の途中。

そして、レジーナの安寧は――まだ、保証されていない。