軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第53話・有羽の思惑

名前を呼んだ――ただそれだけのはずだった。

なのに、空気はまだ甘ったるい熱を残したまま、妙に落ち着かない。

揚げパンの香ばしさと、茶葉の青い匂いと、誰かの鼓動が近くにある気配が、ログハウスの中に居座っている。

有羽とアウローラは、未だにどこか「噛み合っていない目線」のまま座っていた。

有羽は視線を真正面に置けない。

置こうとした瞬間、妙に意識してしまって、逃げる。

逃げた先で誤魔化すように髪をがしがし掻いて、息を吐いて、また逃げる。

アウローラは逆だ。

曇りのない瞳で、まっすぐに有羽を見つめ続けている。

見つめるだけで攻撃力がある。無自覚の太陽砲だ。

見つめられる側は焼ける。焼け焦げる。

「……あー……その……話の続きなんだけど……」

有羽の喉が鳴る。

普段なら、こんな間の取り方はしない。

料理の段取りも、結界の調整も、数字ゲームも、迷わず前へ進む男が――今は言葉を探している。

侍女や護衛達は、思わず「そういえばそうだった」みたいな顔をしてしまう。

カレーのレシピやら米やらの話題だった。決して賢者と第二王女の、甘酸っぱいやりとりが主題ではなかった。今更ながら思い出した。

ラディウスやレジーナは、流石に忘れていない。

それ故に……ただ、静かに有羽の言葉を待っている。

有羽は頭をがしがし掻いて、眉間を寄せて、アウローラから若干視線を逸らしながら。

そして、諦めたように口を開いた。

「ほんっとうに申し訳ないけど……カレー、メトゥスさんにあげた」

「え?」

アウローラの声が、あまりにも素直で、あまりにも間抜けで。

それが逆に恐かった。

「……カレーの残り、っていうか持って行った鍋の残り、魔国に置いて来た……そういえば分かりやすい?」

一拍おく。ぱちくりと瞬きする。

次の瞬間、アウローラが吠えた。

「ど、どどどどどどどどどどういう事だ有羽ぅ!? 私達だって欲しいんだぞ!! なんで魔国にだけ……っ!!」

声が跳ねる。

椅子が少し軋む。

机の上の皿がカタリと震えて、小さな揚げパンが転がりそうになる。

侍女達は反射的に口を開きかけた。

護衛達も窓の外で「お、おい……」と声を漏らしかけた。

だが、アウローラの反応の方が早い。

早すぎる。矢のようだ。止まらない。

有羽は慌てて両手を上げる。

戦闘の構えではない。

完全に「叱られる子供」の構え。

「落ち着けって! アウローラの王都まで距離あるだろうが! ここで渡したって腐るの! 君らに渡したって意味無いの!!」

「で、でも……有羽は『擬似的な時間停止』とかできるんだろ!? それを魔国に使ったんじゃないのか!?」

「誓って言う。使ってない」

有羽の声が少し低くなる。

ふざけていない、という線を引く声だ。

「向こうが欲しいって言ったから取引に応じたけど……残したカレーに手は加えてない。多分、距離近いんだろうな。西部の「主の領域」と魔国首都までの距離が」

有羽は思い出しながら言う。

魔国女王メトゥスの服装。あの森に似つかわしくない、綺麗なドレスローブ。

布の質。装飾は控えめだったけれど上質な仕立て。

距離が遠ければ、あんな格好で森へ入ることはできない。

森は、見目麗しい衣装を「容赦なく」泥と血で塗り潰す。

(つまり……魔国は 近(・) い(・) )

有羽の内心の推定が、言葉の端々から漏れる。

有羽の居住空間まで、アウローラ達の小隊でさえ一昼夜。

普通なら、辿り着く前に死ぬ。

それを考えれば、魔国の女王が「椅子に座って」待っていたという事実は、距離の意味を雄弁に語っている。

アウローラは唇を尖らせたまま、まだ言い返したい顔をしている。

だが、有羽の真剣さが見えて、少しだけ勢いが落ちる。

その隙を、有羽は逃さない。

「で、俺としては「米」との取引の前に、色々確かめたいこともあったから……魔国の「ある情報」と引き換えに、カレーを渡した」

ある情報。

その単語が出た瞬間、レジーナの眉が僅かに上がった。

驚きと興味と警戒を、同じ角度に整えて見せる王族の顔だ。

「……その情報とは?」

声は穏やか。

しかし、問いの刃は鋭い。

ラディウスも静かに姿勢を正す。

侍女隊も、空気が一段締まる。

有羽は頷く。

「今から教える……というか、 こ(・) こ(・) に(・) い(・) る(・) 皆(・) さ(・) ん(・) に(・) 判(・) 断(・) し(・) て(・) も(・) ら(・) う(・) 。その為にもらった情報」

「?」

首を傾げる者が多い。

けれど、レジーナの目だけは、傾げない。

理解しようとしている目だ。

そして 嫌(・) な(・) 予(・) 感(・) が混じっている。

有羽は侍女隊へ視線を投げる。

「っと、侍女さん。ちょっと片づけ手伝って。このテーブルに広げるから」

ぱちくりと瞬きしながらも、侍女達は即座に動いた。

茶器を下げる。皿を下げる。油紙をまとめる。

揚げパンの香りが少し遠のき、木の机の素の匂いが戻る。

有羽は一度、自室に戻った。

足音が床板を軋ませ、扉が閉まりすぐに開く。

戻ってきた有羽の腕には、色々なものが抱えられていた。

まず、大きめの地図。

布ではない。紙でもない。

薄い板に貼り合わせたような、しなるのに強度がある――見慣れない素材。

次に、木でできた小さな駒。人の形。ちょこんと摘めるサイズ。

そして、角張った箱。中でころころと音がする。

円盤状の板――中央に針のようなものがついた小さな盤。

硬貨を象った「玩具の通貨」。

最後に、冊子。……いや、よく見ると二冊。

机の上に並べられた瞬間、ログハウスが別の場所に変わった。

会談の場ではなく、「遊戯場」に。

有羽は意地の悪い顔で笑う。

「ふっふっふ……実は麻雀以外の『新しい遊戯』を作ってね。それの試験を手伝ってもらおうかと」

アウローラは、ぱあっと明るくなる。

怒っていた熱が、一瞬で霧散した。

まるで犬が餌の袋の音を聞いたみたいな変わり身の早さ。

「新しい遊び!?」

声が弾む。

侍女達も護衛達も興味を隠せない。

窓の外の男達が、顔を寄せてくるのが見える。

ラディウスですら、眉を上げて「ほう」と息を漏らした。

ボードゲームという文化は王国にもある。

だがここまで「準備された道具」は見ない。

そして何より――有羽が作る遊戯は、麻雀の実績がある。

恐ろしく面白い、という保証付きだ。

しかし。

レジーナだけは違った。

広げられた地図を見た瞬間――背筋が、冷えた。

(王国と魔国……その全域を描いた地図……)

精巧だ。

地形の捉え方、線の引き方、縮尺の感覚。

地図を作る者の訓練を受けている。

ここまでなら、王国でも作れる。王家の書庫にもある。

(問題は、そこではない)

レジーナの視線が、冊子へ滑る。

ページの端。数字の並び。見出しの言葉の断片。

一瞬だけ見えた。

それだけでレジーナは把握してしまった。

特産品。

産出量。

収益率。

税の流れ。

交易の比率。

輸出入の品目。

そして――それを支える「路」。川、港、湿地、鉱山……数字が紐付く位置。

(……魔国における特産品の産出量と、その収益……!)

喉の奥が、ひゅっと鳴った。

声に出さないように、必死に飲み込む。

レジーナは知っている。

国の上に立つ者なら把握している。

魔国との友好があるから、 大(・) ま(・) か(・) な(・) 数(・) 値(・) は外交官として掴んでいる。

だからこそ――見えた数字の重さが分かってしまった。

あれは、国の経済そのものを裸にする資料だ。

一流の商人。財務官僚。王家の一部。

そういう 上(・) 澄(・) み(・) だけが握るべき情報。

(なにを……なにを渡しているの、メトゥス……!)

脳内で悲鳴が上がる。

しかし次の瞬間、別の理屈が押し寄せてきて、それを塗り潰す。

(……違う。問題にならない。賢者は森の奥に籠っている。これを握っても、商談もできない。投資もできない。市場を動かせない。渡しても害がない……だから渡した)

理屈は、通る。

だがそれでも、身体が冷える。

危険なのは、情報そのものではない。

この賢者が 情(・) 報(・) を(・) 扱(・) え(・) る(・) という事実だ。

レジーナは、笑みを保ったまま――恐る恐る問いかけた。

「賢者様……そ、その冊子に書かれている数値は、まさか魔国の……」

有羽が軽く手を振る。

「あ、見えちゃった? うん。これがメトゥスさんから聞いた 情(・) 報(・) 。その様子だと、正確な数値みたいだね」

あっけらかん。

昨日の買い物の話でもするような調子。

侍女達の多くは、まだ気づいていない。

数字の意味を読み解く訓練がない。

護衛達も同様。

だが、数名は顔色が変わった。

国(・) の(・) 数(・) 字(・) が並ぶということが何を意味するか、理解している者がいる。

ラディウスも、さすがに気づく。

聖騎士であり、侯爵当主。

領地経営をする者だ。

経済数字が武器になることは、剣より理解している。

そしてレジーナは……もう一冊の冊子に眼を向ける。

同じ作り。

同じような文字の整い。

(まさか……王国側の分も?)

ぞっとする。レジーナが表面上だけでも取り乱さなかったのは、奇跡に近い。

有羽は冊子を指でとんとん叩く。

「王国側の話は、この二年間で 大(・) 体(・) 聞いたからさぁ……アウローラ、これ合ってる?」

「うん? どれどれ……おお! そうだそうだ! ここの果物有名なんだぞ! 凄いな有羽! 確かに食事の時とか麻雀の時とかで口にしてたけど……どこに書き留めておいたんだ?」

アウローラは屈託がない。

無邪気に覗き込み、無邪気に感心する。

妹のこういうところが、レジーナには愛おしくて、同時に怖い。

有羽は肩を竦める。

「え? ここ」

そう言って、自分の頭を指し示す。

……その瞬間、レジーナは必死に悲鳴を押し殺した。

(雑談を…… 記(・) 憶(・) し(・) て(・) 、 整(・) 理(・) し(・) て(・) 、 数(・) 字(・) に(・) し(・) た(・) ……!)

二年間の会話の断片。

食卓の何気ない話。

護衛の愚痴。侍女の買い出しの話。

そこから「経済」の輪郭を掴み、形にした。

(この男は……記憶の管理の仕方が、常人ではない)

もう完全に理解した。

なぜ、この男が森に引き籠っているのか。

彼が宮廷に出れば、貴族が放っておかない。

彼が市場に出れば、商人が放っておかない。

彼が戦場に出れば、国家が放っておかない。

彼は、居るだけで国を傾ける。

だから森に居る。

居るしかない。

そして――居てくれている。

レジーナがそんな恐怖と安堵を同時に抱えていた――その時。

有羽は、そのレジーナの震えを見ていた。

にこやかに。

優しい顔で。

しかし目の奥は、静かに澄んでいる。

彼は、ただ笑っているだけではない。

レジーナは悟る。

悟ってしまう。

有羽が、唇だけを動かした。

声にしない。

音にしない。

だが、その口の形だけで――レジーナだけが意味を拾ってしまった。

―― あ(・) あ(・) 、 安(・) 心(・) し(・) た(・) 。

胸の奥が冷える。

(測った……)

レジーナは瞬時に結論へ至る。

(メトゥスが与えた情報が、真か。嘘か。誇張か。誤誘導か。私に見せることで検証した)

もし誤った情報なら。

賢者は魔国との縁を切った。

少なくとも、距離を取った。

そしてレジーナもまた、メトゥスの信用度を測る材料にした。

賢者は遊戯という形で、王国に判断を投げた。

遊びの顔をして、試験をした。

(この方は……甘いのは基本的にアウローラだけ)

侍女にも護衛にも優しい。

だがそれは善性であって、信頼とは別だ。

信頼の中心は、 妹(・) 。その一点に凝縮している。

レジーナの腹の底で、別の冷たいものが疼く。

羨望でも嫉妬でもない。

純粋な評価だ。

(……上手い。恐ろしいほどに上手くて、怖い人)

そして有羽は、机の上の駒を一つ手に取った。

指でつまむ。

人の形の小さな木駒。

それを地図の端に置いて、軽く指を弾く。

「さーて。じゃあ、遊戯の説明するか」

その声が、いつもの「賢者の家の声」に戻る。

ぶっきらぼうで、軽くて、しかし段取りは確かだ。

「これはな。各自が「商会」を持って、地図の上を巡って、稼いで、増やして、時々ひっくり返されて、最後に一番「資産持ってるやつ」が勝つゲーム」

「……つまり、擬似的な商人体験をするということかい?」

ラディウスが眉を寄せる。

領地経営に近い概念を想像し、すぐに噛み砕こうとしている。

「そう。あるいは領地経営のミニ版みたいなもん。道を進んで、町に止まって、土地の「名産」を手に入れて、収益が増える」

有羽は冊子を指で叩く。

その動作だけで、レジーナの胃がきりりと痛む。

「この冊子は「町ごと」の名産と価値。収益の見込み。要するに、どこに投資すると強いか、が書いてある」

「……なるほど」

ラディウスの目が光る。

これは騎士の目ではない。

領主の目だ。

そして「政治」の匂いを嗅ぐ目でもある。

アウローラは、既に乗り気だ。

椅子の上で前のめりになり、駒を見て、地図を見て、笑う。

「面白そうだ! 有羽、早くやろう!」

「待て待て。まだ「イベント」がある」

有羽が小さなルーレット盤を掲げる。

中央の針をくるりと回すと、軽い音を立てて止まる。

侍女達が「わあ」と声を漏らす。

「サイコロで進む数が決まる。で、止まった町で稼ぐ。止まったマスによっては「災厄」が来る」

「災厄……?」

レジーナの声が、僅かに硬くなる。

有羽はにやりと笑った。

意地の悪い笑み。

だが、その裏にあるのは――子供っぽい遊び心。

「災厄って言っても、ゲームだからな。例えば、資産が減るとか、移動できなくなるとか、逆に大儲けするとか……そういう「波」を作る」

護衛達が外で「うわそれ怖ぇ!」と笑う。

侍女達が「わ、私、絶対運悪いです……」と震える。

アウローラは「負けないぞ!」と拳を握る。

レジーナは、その喧騒の中で、静かに息を吐いた。

(遊戯の形を借りて……国の経済情報を、皆の前に置いた……そして、メトゥスの情報の正確さを「検証」した。おそらく彼は……私達が、反射的に食いつくか、それとも冷静に扱えるかも見ている)

もしここでレジーナが、経済情報の価値を声高に騒げば。

賢者は王国との距離を取る。

もし侍女や護衛が、面白半分で外へ漏らすようなら。

賢者はこの場で「全部回収」して終わる。

(試験……そう、試験ですわ)

レジーナは、微笑みを深くした。

王族の仮面を整える。

外交官の顔を固定する。

そして、あくまで「遊戯」として、言った。

「……面白そうですわ。賢者様。私も参加してよろしいかしら?」

有羽が、レジーナを見る。

その目は、優しい。

だが澄んでいる。濁りがない。

レジーナは、そこに 合(・) 格(・) か(・) 不(・) 合(・) 格(・) か(・) の線が引かれるのを感じた。

「もちろん。むしろ、お姉さんみたいな人がいた方が、このゲームはちゃんと面白くなる」

名前で呼ばれたわけではない。

けれど、さっきまでの「見定め」ではなく、「親しみ」があった。

それだけで、レジーナは心の中で一段だけ肩の力が抜ける。

(……なるほど。こちらも一歩、進めた)

アウローラは駒を握って、わくわくしている。

侍女達は、自分の運命を勝手に嘆き始めている。

ラディウスは冊子の端に目を走らせ、すでに戦略を立てている顔だ。

護衛達は外で「俺は稼ぎ方なら得意だぞ!」と謎の自信を叫んでいる。

そして有羽は、地図の端に駒を並べ始めた。

まるで、国を並べるみたいに。

王国のマス。魔国のマス。

そして、まだ何も知らない「参加者」達の駒。

「さあ――まずは資金配る。スタート地点はここ。最初の目的地は……まあ、運だな」

ルーレット盤の針が、指先でくるりと回された。

軽い音が、ログハウスの中に響く。

遊戯の始まりの音。

同時に――目に見えない外交の始まりの音でもあった。