作品タイトル不明
第148話・二人の決意
夜の庭に、焼肉の余熱と人々の賑わいの名残が、未だに残る。
神鉄の鉄板の上では、ついさっきまで魔物肉が派手に脂を弾けさせていた。今は熱気も落ち着き、夜風に乗って香ばしい匂いだけがゆっくりと漂う。そして魔導灯の柔らかな明かりが、庭のあちこちを淡く照らし、そこに集う者たちの顔を浮かび上がらせていた。
しかしその場の空気に、食事の最中にあった愉快さは無い。
スキエンティアが静かな声で告げた話が、それほどまでに重かったのだ。
神聖国。光輝神ソル・サンクトゥス。森の北に座す番人、黒竜大魔。千年単位で歪められてきた善悪の均衡。そしてこのまま時が進めば、大陸全土に破滅が波及しかねないという現実。
……有羽のことだけは伏したまま。有羽が黒竜の後継機として選ばれた存在であることも、今の彼が「二人目」であることも、その先に待つ未来がどれも地獄じみていることも……それだけは秘したまま。
だがそれらを除いても、十分に世界規模の一大事であることに変わりはない。
アウローラは腕を組み、顔を伏せ、静かに今知った情報を反芻する。
「……ニクス殿が北の番人の分身体……神聖国の千年の行いが原因……このままだと大陸規模で被害が起きる……とんでもない、な。想像以上に、世界は大変なことになっていたんだな」
アウローラが知る限り、いま最も危険視すべきはアギトの存在だった。国境の大河で現れた星髪の少女。帝国という大国に寄り添いながら、戦場そのものを一瞬で塗り替えうる災厄。だが、そのアギトは有羽の手によって叩き伏せられ無力化。有羽の脅しも効いて、しばらく帝国絡みのいざこざは大人しくなると考えていたばかり。そこにこの情報だ。自然と眉間に皺が寄ってしまう。
それはアウローラの部下も同じこと。侍女も護衛も、先程までの緩んだ顔は消して深刻な顔つきに変わっている。その内の一名が、静かに進言を。
「殿下。ここまで事態が大きくなっているのでしたら、我々も動かねば……」
「分かっている。これは国を挙げて動かねばならない事態だ。帝国や、星髪のアギトの動向を注意するだけでは足りない……姉上とも相談して、王国の対応を決めなければ」
もはや、アウローラの率いる部隊だけでどうにかできるような状況ではない。南王国が総力を挙げて挑まねばならない事態だ。王都に帰還後の活動内容まで、脳内で激しく組み上げられていく。
その最中――アウローラはむくれた顔を、有羽に向けた。不服そうな、けれど責め切れないような顔。
「それにしても、だ……おい有羽。こんな事を黙ってるつもりだったのか? まさかお前だけでどうにかできるとでも?」
「いや、そういう訳じゃないが……」
じっと睨まれるように見つめられ、口ごもる有羽。
真っ正直に事情を語れるわけもなく、頭の中で情報を整理しながら言葉を選ぶ。
それは決して嘘ではない言葉選び。つまり――。
「結局のところ、問題の根本はこの魔境絡みだろ? それに黒竜の対処は、間違いなく俺たちがどうにかしなくちゃならないし」
「それは――まあ、そうだ。話に聞くだけでも、私たちが北の黒竜をどうにかできるとは思えない。国の全軍を挙げても太刀打ちできそうにない……悔しいことだけどな」
アウローラは悔しそうに唇を噛む。国境線でアギトの暴威を受けた彼女には、人の限界がどこにあるのかがよく分かっている。届かぬ相手に対して、届くと言い張るほど愚かではない。
そしてそれは、事実である。魔境の森の北に座する黒竜は、人が数を集めてぶつけたところで倒せるような相手ではない。四年前に、有羽と女帝が協力して相手取って、それでも完全に打倒することが叶わなかった規格外だ。有羽の言うように、この情報を伝えたところで黒竜周りの問題は解決しない。
「だが、逆に神聖国そのものには、有羽たちは手出しできないんだろう? そしてそれは神々も同じ……そうなのですよね、スキエンティア様?」
アウローラが王女の顔つきで問えば、スキエンティアは女神の顔で応じる。
「……そうだね。私が直接動ければいいんだけど、そうなるとヴェルミクルムが動く。アイツはこっちのことなんて考慮しないから、会話での説得も望み薄だし」
ヴェルミクルムに事情を話して理解を求める――なんて行動は何の意味も齎さない。
合理性だけで動く計算機に、言葉をどれだけ尽くしても無駄だ。それはスキエンティア自身が良く解っている。彼女と天上に座する神々の王の間に、会話が成立したことは皆無なのだから。
だがそれ故に、アウローラに考えが浮かぶ。
「しかしそれは裏を返せば、光の神が国同士の争いに介入しない理由にもなる、と?」
「うん。そこは断言できる。ソルに出来るのは、神聖国の民に加護をばら撒くところまで。それ以上は出来ない。出来る訳がない。アイツはせいぜい、裏で指示を出す程度」
「なら――国と国の戦いは、私たちの領分だ。有羽たちは森の中の黒竜を頼む」
森の中は有羽たちに。森の外はアウローラたちが。それが最適解であり、大切な役割分担。どの道、神聖国を放置できないのだ。全ての元凶である北の大国は、外界の人間たちの力で抑えるしかない。
ひとつ大きく頷いて、アウローラは部下たちに視線を巡らせる。
「そうと決まれば……今晩ゆっくり休んで、明日には王都に戻るとするか。神聖国への対応を国家規模で考えなくてはならない……したくもない戦の準備も、な」
そして、憂鬱な顔で大きく溜息をひとつ。
「はぁ、大変な仕事になりそうだ。私は帰って謝罪行脚と戦争準備に明け暮れることになるのか……うう、いやだいやだ。有羽のところにも、またしばらく来れなくなりそうじゃないか」
その台詞に、侍女隊の顔色が変わる。今後、世界情勢がどう動くにしても……とても有羽の居住空間に足を運ぶ余裕はないだろう。国と国の争いが間近に迫っているのだから。
それくらいは皆理解している。しかし、理解しているからこそ、全員が遠い目で文句たらたらの顔に。
「そうですわね……この美味しい焼肉も、高品質なベッドも、何もかも再び遠ざかるのですわね」
「ああ、いやですわいやですわ。この別荘――じゃなかった、有羽様のところへお邪魔出来るのが、お預けになるだなんて」
「おい。今、別荘とか口走らなかったか?」
聞き捨てならない言葉を、有羽は決して逃さない。瞬時に、声のした方へジト目を向けた。
けれど侍女たちは全員、素知らぬ顔で視線を逸らすばかり。中には、よく聞こえなかったとばかりに耳を澄ませる者たちまで。この距離で聞こえないはずがなかろうに。
「まったく。都合よく遠くなる耳だなぁ……」
そんな侍女たちに苦笑を漏らす有羽。
随分と気安くなったものだと呆れるばかりだ――そんな態度に、腹を立てることすらなくなった自分自身に対しても。
有羽は思う――変わったのだと思っている。この世界に来てから初めてまともに関わり合った者たち。拒絶して、今でも完全に信頼しているとは言い難い。
それなのに……こんな小さなことは、平然と受け入れていた。最初はあんなに煩わしかったはずなのに。まるでこれこそが「いつもの日常」なのだと言うように。
ただ、そんな日々も――多分、もう。
「――有羽」
そこで、考えに耽る寸前で、アウローラの声が有羽の耳に。
反射的にアウローラの顔を見る。見慣れた顔に、慣れ親しんだ瞳。
ただ、今のアウローラの表情は――。
「うん? どしたの? ……何か、やけに神妙な顔をしてるけど?」
「…………」
問い返すが、無言。何かを言おうとして、それでも言葉が出てこなくて、胸まで上がってきた言葉が喉の上まで登ってくれない――そんな顔。
それでも、一度だけ深く呼吸をする。迷いも、羞恥も、不安も、全部胸の内に押し込めてから……アウローラは有羽に向き直る。
「……今回の件が終わったら、一段落したら……お前に、伝えたいことがある」
どこか覚悟を決めた瞳。
晴れ渡る青空のような眼が、真っ直ぐ有羽を見る。
その瞳の奥に、どこまでも純粋な想いを乗せて。
「……大事な話だ。私の……私にとっての、大事な話なんだ……」
それは、夕食前に形になったアウローラの気持ち。
ずっと自覚して、ずっと抱いていて、それでも明確に言葉にはしなかった気持ち。
それを言ったら、大きく関係が変わるのが分かっていたからだ。王国の王女が、その言葉を安易な気持ちで口にすることができない。一度別の男性を愛したアウローラが、軽い気持ちで伝えることが許されない言葉。
それでも――言いたい。言わなくてはならない。そう思ったから。
「……聞いてくれるか? 有羽に、迷惑かけることになるかも知れないけど……それでも、それでも――」
「聞くよ」
アウローラの言葉に被せるように、有羽が答える。
彼の瞳もまた、澄んだ色。黒い目が、曇りのない黒曜石のようにアウローラを見ていた。
「聞く。アウローラが何を言う気なのかは分からないけど……ちゃんと聞くから」
有羽も気持ちが固まっていたから。
二年前から続いた関係。いつの間にか居着いたお日様の光。心の奥に座ったまま離れてくれない暖かさ。
最初は迷惑だったはずなのに。早く帰れと思っていたはずなのに。
気がつけば、当然のように出迎えて、同じ食卓でご飯を食べるような関係になって。
きっとそれは、アウローラにだけ抱いた唯一無二の気持ちに違いなくて。
――ただ、優しい笑みとともに、アウローラを見つめた。
「う、うん……ちゃんと聞いてくれれば、それで、いい……」
その笑みを、正面で受け止めたアウローラは顔を赤らめて小声になっていく。
侍女たちが、護衛たちが、無言で微笑ましいものを見る顔に。ずっと見守ってきた二人が、ようやくひとつの関係に纏まるのかと期待する眼差し。
ただ、ニクスとスキエンティアの二人だけは悲しげな顔を浮かべていた。僅かな切なさが宿った悲壮感。
それは、その二人だけがこの場で有羽の決意を知っていたからだ。アウローラの抱いた決意とは、似ているようで逆方向の意思を、この両名だけは知っている。
有羽は確かに想っている。逃げることなくアウローラを見て、自分の気持ちから逃げていない。
けれど違うのだ。有羽の想いは、有羽の決意は――。
(――俺が、俺のままでいられたら、ちゃんと聞くから)
――未来への期待ではなく、断崖の先へ足を踏み出す悲壮な決意。
穏やかな団欒の中に、もう元には戻れない変化が、静かに横たわっていた。
◇◇◇
そして夕食が終わり、片付けも済んだ夜。
すでにアウローラたちは外の客間に戻っている。早くに王都に帰る為に、今夜は麻雀で盛り上がることもなく、今頃は就寝の準備に取り掛かっているだろう。
侍女たちはアウローラと同じ客間に。護衛たちは庭にテントを張って寝床の準備。
いつも通りだ。有羽の生活空間で、定期的に繰り返されているいつもの日常――慣れ親しんだ、穏やかな日々。有羽の知っている、いつもの夜。
だが、ログハウスの中――有羽の自室だけは、その静けさと無縁だった。
椅子に座って向かい合うのは、有羽とニクス。
外見だけなら驚くほどよく似ている二人が、けれど空気だけは真逆の硬さを帯びながら、互いを見据えている。
「……で? どうするつもりだ兄弟?」
有羽と同じ顔で、鋭い視線を向けてくるニクス。
その声色には、誤魔化しを許さないある種の硬さが宿っている。……有羽の誤魔化しを、見逃さぬように視線を向け続けている。
有羽は、何気ない態度で問い返す。
「どうって……何がだ?」
「とぼけんなよ。あの王女さんのことだ……よっぽどお前が鈍感じゃなきゃ、何を言おうとしてるか分かってんだろ?」
ニクスに問われて、すぐに思い至る。
鈍感でなければ――ああ、その通りだろう。有羽は、何度もアウローラの顔を見てきたのだ。笑ってる顔も、怒っている顔も、悲しんでいる顔も、照れている顔も、泣き顔も、何もかもを。
だから分かっている。アウローラが、有羽との関係にひとつの決着をつけようとしていることくらい、もう痛いほど分かっている。
「――俺は、嘘は言ってねぇよ」
「……」
「何一つ、嘘は言ってない。ちゃんと聞く。アウローラの気持ちを聞いて、俺の気持ちを全部言葉にする。そこに嘘は一切ない」
「……」
ニクスは黙って有羽の言葉を聞く。
確かに、有羽は嘘は言っていない。アウローラの言葉を聞いたのならば、それに対して真摯に答えを返すだろう。有羽自身も決意して、心を決めて返答する。そこに嘘はない。
ただ――そんな未来を、欠片も信じていないだけ。ニクスには、そんな有羽の悲壮が分かった。
「……俺はな、兄弟。お前さんをどうこうする気なんて、さらさらねぇんだよ。こんな森のいざこざに巻き込むのだって、本当は不本意だ。あの王女さんと馬鹿みたいに笑って、美味い飯食って、どうでもいいことで喧嘩して楽しく暮らせるんなら……そうやって生きていけるなら、それに越したことはねぇって本気で思ってる」
それは、ニクスがアウローラたちと一緒に、このログハウスに向かっている最中に言った言葉だ。
王女さんの大事な人を、どうこうする気は俺にない――本当だ。本気だとも。ニクスは心からそう思っている。むしろ、願わくば二人で笑って過ごして欲しいとさえ。
ただ、現実がそれを許してくれそうにないだけで。
有羽は誤解などしていない。ニクスの心情を、曲解せずに受け止める。
「……んなもん分かってるよ。そっちが俺を道具扱いしてたなら、そもそも俺に事情を説明しにくるわけねぇだろうが」
そもそも……ニクスが事情を説明する義理はない。義務もない。ニクス自身、森から役目を押し付けられた黒竜の分身体。彼自身も理不尽な役目を背負わされている。悪態吐きたいのはニクスだって同じなのだ。
背負いたくもなかった善悪の均衡。そして向けられた独善の負荷。用済みになれば後継を宛がわれて壊れる寸前の本体。
……むしろ、後釜になる有羽に対して負の感情を抱いたっておかしくない立場。それくらいにニクスの置かれている立場も酷い。
けれど、恨まなかった。それどころか選択の機会を与えてくれた。危険を顧みず、有羽のところまで足を運んだ。そんなニクスの思いを勘違いするほど、有羽は馬鹿ではない。
「ただ、どうにもならない。悩み考えてる時間もない。最長で半年って言ってたが、そんなもん信用できるかよ。明日崩れてもおかしくないし、ひと月後に全部ひっくり返るかもしれない」
それは掛け値なしの本音。もう悠長に悩む時間さえ無いと、有羽は思っている。
そしてどれだけ悩もうと、ニクスが何を思おうと、どんな道を提示しようが――迎える未来が破滅であることだけは変わらない。
目を伏せた後、ニクスは口を開く。
「……どの道を選ぶつもりだ、兄弟?」
「……深奥に潜る。それしかねぇだろうが」
第三の選択肢。再起魔法を使用して知識の海へ潜り、黒竜の治療法を得る。
成功率は低い。代償は重い。自我が砕けてもおかしくない。だが、他にまともな道はない。
何もしなければ黒竜は崩壊し、悪性が世界に溢れる。黒竜を止めれば、正式な後継となって終わる。
ならば、まだ僅かでも「今の自分」が続く可能性のある道を選ぶしかない。
ただただ有羽は苦笑した。
「ゼロじゃないんだろ? 僅かとは言え、俺が俺のまま続く可能性はあるんだろ? だったらそれを選ぶさ。崖の向こうに飛び降りる気持ちで――もしかしたら、生き延びられるかもしれない」
その苦笑と共に浮かぶ感情は、諦観だ。
生き延びる。そう言っておきながら、その可能性を信じていない声。
「長年、再起魔法を使ってきたんだぜ俺は? なぁに、案外平気な顔して戻ってこられるかもな。それでお前の本体治して、光の神も神聖国もどうにかして……それで――」
顔をあげて、有羽は思い出す。
この森に居を構えて、ひとりで生活して、環境を整えて。
その果てに選んだ道。それしかなかったから進んだ道。
誰もいない森の南で。魔物を倒して、畑を耕して、井戸を掘って家を建てて。
それで――。
「それで――森の奥で引きこもって、のんびり暮らすんだよ」
変わらぬ明日を夢見よう。
もうそれが、叶わぬ願いなのだとしても。
「……決行はいつだ?」
「明日。アウローラがここを離れたら、やる」
ニクスの問いに即座に返す。
有羽の顔に悩みはない。進むべき道を決めた青年の顔。
「こういうのは思い立ったが吉日ってな。ぐだぐだ悩んでないでさっさとやるのが良いんだよ」
あるいは、もう悩むことすらしたくないのかもしれない。
念願だった米も食べた。その米を美味しいと笑った連中がいた。その連中は、有羽がこの世界で唯一長く付き合ってきた、騒がしくも楽しい人たちで。
そんな者たちと、そんな人たちと、これからも長くのんびり過ごしたい願いはある。だからこそ、僅かでも可能性がある道を選んだのだ。
だけど――そんな有羽を、歪んだ顔でニクスが見ている。怒りと悲しみが混ざったような、酷い顔で。
(――分かってるさ。耐えられる訳がない。明日「俺」は死ぬ。どんな形で再構成されるかは知らないけどさ)
有羽も理解している。最初の「世渡有羽」が粉々になるまで壊された再起魔法の深奥だ。そんなものを使って無事で済むなんてありえない。「二人目」は明日砕け散る。その結末こそが予定調和。
選ぶ義理なんてない。見知らぬ誰かに説明したところで、理解なんてされないだろう。結局アウローラたちは赤の他人で、有羽にそんな者たちのために破滅の道を歩く――そんな責任などどこにもない。
ただ、それでも……そんな他人こそが、この世界で、二人目の有羽が得たものだ。
本物の有羽ではない。七年間この地で生きた二人目の有羽が、この世界で知り合って笑い合い、何度も寝食を共にした数少ない他者。嘘ではない、本物の記憶。
それが、あのアウローラたちとの出会い。模造品の有羽が得た、ただひとつの確かな宝物。
(――ま、楽しかったよ。お日様みたいなアウローラに会えて、本当に楽しかった)
だから、彼の決意は変わらない。宝物を壊される未来を、許せない。
まるで砂粒のような、僅かな可能性を掌に握り締めて……明日彼は、深奥に潜る。
――その決意だけは変わらなかった。