作品タイトル不明
第十一章「実況できません!?」
気がついたのは、朝だった。
いつも通り目が覚めて、いつも通り窓の外を眺めた。
曇り空で、遠くに鳥が飛んでいた。
何かがおかしかった。
おかしい、と気づくのに少し時間がかかった。
おかしい理由がわからなくて、部屋の中を見回した。
リナがまだ来ていない。
時計は朝の七時を指している。
窓の外に変わったものはない。
それから、ようやくわかった。
静かだった。
頭の上から、何も聞こえなかった。
「……?」
私は声を出してみた。
声は出た。
でも実況は、来なかった。
起き上がって部屋の中を歩いた。
窓から外を見た。
庭師が花壇の手入れをしていた。
普通なら今頃、実況が庭師の一挙手一投足について何か言っているはずだった。
何も、来なかった。
「……ちょっと待ってくださいませ」
自分の声だけが部屋に響いた。
◆
リナに話すと、彼女は最初きょとんとした顔をして、それからじわじわと表情が変わった。
「止まった……んですか? 実況が?」
「今朝から、何も出ていません」
「本当に?」
「本当に」
リナはしばらく私の頭の上を見た。
見てから、また私の顔を見た。
「……なんか」
「なんか?」
「静かですね」
「静かですね」
二人でしばらく沈黙した。
実況があった時には気にならなかったが、なくなると——確かに、妙に静かだった。
父に報告すると、父は新聞を置いて私をじっと見た。
「体の具合は」
「問題ないと思います。声も出ますし、頭も痛くありません」
「フィン博士に診てもらうべきだな」
「そうですね……」
父は立ち上がり、使者を呼ぼうとした。
その前に、クロード卿が来た。
いつも通りの時刻に、いつも通り定刻きっかりに。
私を見た瞬間、彼の目が微かに変わった。
「……実況が聞こえません」
「気づきましたか」
「門を入った時から。いつも屋敷に近づくと聞こえ始めるので」
彼が来る前から、屋敷の外でも聞こえていたとは知らなかった。
「今朝から止まっています。理由はわかりません」
クロード卿はしばらく私を見た。
その目が、普段と少し違った。
何かを確かめているような目だった。
「体の具合は」
「問題ありません。父もそう聞きました」
「わかりました。フィン博士への連絡を手配します」
彼は動き始めた。
いつも通り、迷いなく。
でも——その背中が、心なしか、いつもより少しだけ張り詰めているように見えた。
◆
フィン博士が屋敷に来たのは午後だった。
診察というほどのものではなく、様々な測定器具を当てながら、博士はひたすら首を傾げていた。
「能力自体は消えていません。あなたの中にある」
「では、なぜ」
「制御系が一時的に過負荷になったのでしょう。昨日の事件のストレスか、あるいは——感情的な負荷か」
博士は眼鏡越しに私を見た。
「最近、強い感情の動きがありましたか」
私は少し黙った。
昨日の誘拐未遂。
クロード卿の言葉。
眠れなかった夜。
「……あったかもしれません」
「感情が過剰に動くと、処理が追いつかなくなって一時停止することがあります。機械と同じです。再起動を待っている状態とでも言えばいい」
「いつ戻りますか」
「わかりません。数時間かもしれないし、数日かもしれない」
博士はそう言って、荷物をまとめ始めた。
◆
翌日も、実況は戻らなかった。
その翌日も。
三日目の朝、王宮から使者が来た。
内容は、またしても私への同席要請だった。
今度は貴族院の定例会議だという。
「実況がない状態で、出席するのですか」
私が確認すると、使者は困った顔をした。
「実は……その点について、議員の方々から懸念の声が上がっておりまして」
「懸念?」
「実況令嬢がいらっしゃらないと、議会の空気が締まらない、と」
私は少しの間、使者の顔を見た。
「……締まらない」
「はい。実況がないと、不正をしても誰にも気づかれない気がして落ち着かない、という議員も」
「……みなさん、実況が怖くて不正を自粛していましたの?」
使者は視線をそらした。
答えが出ていた。
◆
父の書斎で、父と私とクロード卿の三人で話し合った。
「実況がなくなってから、街の様子も少し変わっています」
クロード卿が報告した。
「変わった、とは」
「商人たちの間で、計量の不正が増えました。小さな詐欺も数件、報告されています。実況令嬢の目がないと思って、気が緩んだようです」
「……わたくしがいるだけで、不正の抑止になっていたということですか」
「結果的に、そうなっていたようです」
父がため息をついた。
「社会インフラになっていたか、あの実況が」
インフラ。
心の声が、社会のインフラ。
なんということだろうと思った。
その夜、私は一人で庭に出た。
月が出ていた。
石畳の上に腰を下ろして、静かな空を眺めた。
実況がない夜は、こんなに静かだったのか、と思った。
静かで、少し、寂しかった。
いつから実況を、自分の一部のように感じるようになっていたのだろう。
始まった頃は、早く止まれとしか思っていなかった。
止まれ、黙れ、消えてくれ、と。
それが今は——ないと、何かが足りない気がした。
足音が聞こえた。
振り返ると、クロード卿が立っていた。
「夜に外に出てはいけません。危険です」
「すみません。少し、外の空気が欲しくて」
彼は少し間を置いてから、隣に立った。
座りはしなかった。
ただ、立って、同じ月を見た。
しばらく沈黙が続いた。
「……静かですね」
私が言うと、クロード卿が短く答えた。
「静かです」
「実況がないと、こんなに静かでしたのね」
「慣れていました」
「実況に?」
「あなたの声に」
低い声で、静かに言った。
月明かりの中で、彼の横顔は普段より柔らかく見えた。
私は膝の上で手を組んだ。
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
「戻りますか、実況は」
クロード卿が聞いた。
聞き方が、業務連絡とは少し違った。
「フィン博士は、時間の問題だと言っていました」
「そうですか」
「……怖いですか。戻ってきたら、また何でも暴かれてしまうかもしれませんが」
彼はしばらく黙っていた。
「怖くはありません」
「本当に?」
「本当に。あなたの実況は——正直すぎて困ることもありますが、あれはあなたの一部です。なければ、あなたではない」
「……大げさですわ」
「大げさではありません」
きっぱりと言った。
私は月を見たまま、少しだけ笑った。
「ヴァルナー卿」
「はい」
「実況がない間、ずっと気にしていてくれましたか」
「……護衛の立場として、能力の変化は把握する必要があります」
「それだけですか」
また間があった。
「それだけでは、ありません」
月が雲の間から顔を出した。
庭が、やわらかく白く染まった。
私たちはしばらく、並んで月を見ていた。
翌朝、目が覚めた時、実況が戻っていた。
『おはようございます! 実況令嬢、三日ぶりに復活です! 主人公、今少しだけ安堵しています! そしてほんの少しだけ、嬉しいとも感じています!』
「……少し、嬉しいですわ」
誰もいない部屋で、私は一人、小さく笑った。