軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十一章「実況できません!?」

気がついたのは、朝だった。

いつも通り目が覚めて、いつも通り窓の外を眺めた。

曇り空で、遠くに鳥が飛んでいた。

何かがおかしかった。

おかしい、と気づくのに少し時間がかかった。

おかしい理由がわからなくて、部屋の中を見回した。

リナがまだ来ていない。

時計は朝の七時を指している。

窓の外に変わったものはない。

それから、ようやくわかった。

静かだった。

頭の上から、何も聞こえなかった。

「……?」

私は声を出してみた。

声は出た。

でも実況は、来なかった。

起き上がって部屋の中を歩いた。

窓から外を見た。

庭師が花壇の手入れをしていた。

普通なら今頃、実況が庭師の一挙手一投足について何か言っているはずだった。

何も、来なかった。

「……ちょっと待ってくださいませ」

自分の声だけが部屋に響いた。

リナに話すと、彼女は最初きょとんとした顔をして、それからじわじわと表情が変わった。

「止まった……んですか? 実況が?」

「今朝から、何も出ていません」

「本当に?」

「本当に」

リナはしばらく私の頭の上を見た。

見てから、また私の顔を見た。

「……なんか」

「なんか?」

「静かですね」

「静かですね」

二人でしばらく沈黙した。

実況があった時には気にならなかったが、なくなると——確かに、妙に静かだった。

父に報告すると、父は新聞を置いて私をじっと見た。

「体の具合は」

「問題ないと思います。声も出ますし、頭も痛くありません」

「フィン博士に診てもらうべきだな」

「そうですね……」

父は立ち上がり、使者を呼ぼうとした。

その前に、クロード卿が来た。

いつも通りの時刻に、いつも通り定刻きっかりに。

私を見た瞬間、彼の目が微かに変わった。

「……実況が聞こえません」

「気づきましたか」

「門を入った時から。いつも屋敷に近づくと聞こえ始めるので」

彼が来る前から、屋敷の外でも聞こえていたとは知らなかった。

「今朝から止まっています。理由はわかりません」

クロード卿はしばらく私を見た。

その目が、普段と少し違った。

何かを確かめているような目だった。

「体の具合は」

「問題ありません。父もそう聞きました」

「わかりました。フィン博士への連絡を手配します」

彼は動き始めた。

いつも通り、迷いなく。

でも——その背中が、心なしか、いつもより少しだけ張り詰めているように見えた。

フィン博士が屋敷に来たのは午後だった。

診察というほどのものではなく、様々な測定器具を当てながら、博士はひたすら首を傾げていた。

「能力自体は消えていません。あなたの中にある」

「では、なぜ」

「制御系が一時的に過負荷になったのでしょう。昨日の事件のストレスか、あるいは——感情的な負荷か」

博士は眼鏡越しに私を見た。

「最近、強い感情の動きがありましたか」

私は少し黙った。

昨日の誘拐未遂。

クロード卿の言葉。

眠れなかった夜。

「……あったかもしれません」

「感情が過剰に動くと、処理が追いつかなくなって一時停止することがあります。機械と同じです。再起動を待っている状態とでも言えばいい」

「いつ戻りますか」

「わかりません。数時間かもしれないし、数日かもしれない」

博士はそう言って、荷物をまとめ始めた。

翌日も、実況は戻らなかった。

その翌日も。

三日目の朝、王宮から使者が来た。

内容は、またしても私への同席要請だった。

今度は貴族院の定例会議だという。

「実況がない状態で、出席するのですか」

私が確認すると、使者は困った顔をした。

「実は……その点について、議員の方々から懸念の声が上がっておりまして」

「懸念?」

「実況令嬢がいらっしゃらないと、議会の空気が締まらない、と」

私は少しの間、使者の顔を見た。

「……締まらない」

「はい。実況がないと、不正をしても誰にも気づかれない気がして落ち着かない、という議員も」

「……みなさん、実況が怖くて不正を自粛していましたの?」

使者は視線をそらした。

答えが出ていた。

父の書斎で、父と私とクロード卿の三人で話し合った。

「実況がなくなってから、街の様子も少し変わっています」

クロード卿が報告した。

「変わった、とは」

「商人たちの間で、計量の不正が増えました。小さな詐欺も数件、報告されています。実況令嬢の目がないと思って、気が緩んだようです」

「……わたくしがいるだけで、不正の抑止になっていたということですか」

「結果的に、そうなっていたようです」

父がため息をついた。

「社会インフラになっていたか、あの実況が」

インフラ。

心の声が、社会のインフラ。

なんということだろうと思った。

その夜、私は一人で庭に出た。

月が出ていた。

石畳の上に腰を下ろして、静かな空を眺めた。

実況がない夜は、こんなに静かだったのか、と思った。

静かで、少し、寂しかった。

いつから実況を、自分の一部のように感じるようになっていたのだろう。

始まった頃は、早く止まれとしか思っていなかった。

止まれ、黙れ、消えてくれ、と。

それが今は——ないと、何かが足りない気がした。

足音が聞こえた。

振り返ると、クロード卿が立っていた。

「夜に外に出てはいけません。危険です」

「すみません。少し、外の空気が欲しくて」

彼は少し間を置いてから、隣に立った。

座りはしなかった。

ただ、立って、同じ月を見た。

しばらく沈黙が続いた。

「……静かですね」

私が言うと、クロード卿が短く答えた。

「静かです」

「実況がないと、こんなに静かでしたのね」

「慣れていました」

「実況に?」

「あなたの声に」

低い声で、静かに言った。

月明かりの中で、彼の横顔は普段より柔らかく見えた。

私は膝の上で手を組んだ。

何か言おうとして、言葉が見つからなかった。

「戻りますか、実況は」

クロード卿が聞いた。

聞き方が、業務連絡とは少し違った。

「フィン博士は、時間の問題だと言っていました」

「そうですか」

「……怖いですか。戻ってきたら、また何でも暴かれてしまうかもしれませんが」

彼はしばらく黙っていた。

「怖くはありません」

「本当に?」

「本当に。あなたの実況は——正直すぎて困ることもありますが、あれはあなたの一部です。なければ、あなたではない」

「……大げさですわ」

「大げさではありません」

きっぱりと言った。

私は月を見たまま、少しだけ笑った。

「ヴァルナー卿」

「はい」

「実況がない間、ずっと気にしていてくれましたか」

「……護衛の立場として、能力の変化は把握する必要があります」

「それだけですか」

また間があった。

「それだけでは、ありません」

月が雲の間から顔を出した。

庭が、やわらかく白く染まった。

私たちはしばらく、並んで月を見ていた。

翌朝、目が覚めた時、実況が戻っていた。

『おはようございます! 実況令嬢、三日ぶりに復活です! 主人公、今少しだけ安堵しています! そしてほんの少しだけ、嬉しいとも感じています!』

「……少し、嬉しいですわ」

誰もいない部屋で、私は一人、小さく笑った。