作品タイトル不明
第十二章「あなたの声が必要です」
実況が戻ってから、何かが変わった。
変わったのは実況ではなく——私自身だった。
三日間の沈黙を経て、頭の上の声を聞く耳が変わっていた。
うるさい、と思う気持ちが、薄れていた。
恥ずかしい、と思う気持ちも、以前ほどではなくなっていた。
なくなったわけではない。
ただ、受け入れ方が変わっていた。
これは私の一部だ、とクロード卿が言った。
なければあなたではない、と。
その言葉が、三日間の間、ずっと頭の中にあった。
◆
実況が戻った翌日、フィン博士が経過を確認しに来た。
測定を終えた博士は、眼鏡をかけ直しながら言った。
「能力が安定しています。むしろ、一時停止の前より出力が上がっているかもしれない」
「上がっているとは」
「精度と範囲が広がった可能性があります。感情的に何かが整理されると、能力の制御に使われていたエネルギーが解放されることがある」
「整理、とは」
博士は眼鏡越しに私を見た。
「あなたが自分の能力を受け入れ始めた、ということです」
私は少し黙った。
「……そうかもしれません」
「結構。ではもう一つ聞きますが、制御系の一時停止の原因となった感情の負荷——それは解決しましたか」
「解決、とは」
「感情の問題は、整理されないとまた同じことが起きます。もちろん、今すぐでなくて構いませんが」
博士は淡々と言って、荷物をまとめ始めた。
立ち去り際に、廊下にいたクロード卿を一瞥して、それから私を見て、小さく「ふむ」と言った。
何かを察している顔だった。
学者というのは、余計なところで鋭い。
◆
ラーゼン結社への対応が進む中、日常は続いた。
クロード卿との護衛の時間も、続いた。
ただ、実況が戻ってからの数日、クロード卿は少し違った。
違った、というのは——何かを言おうとして、言わない、という素振りが増えた。
言いかけて止まる。
こちらを見て、視線をそらす。
無表情なのに、何か考えていることが、なんとなく伝わってくる。
私の実況は、その点について、毎日何か言おうとしていた。
だが私は、実況が口を開くより先に、心の中で「今は待って」と念じた。
念じても実況は止まらないはずだった。
なのに、なぜか——実況は黙っていた。
能力が安定した、とフィン博士は言った。
精度と範囲が上がったと。
もしかして、今は私の気持ちが実況にも伝わっているのだろうか。
◆
事態が動いたのは、週末の午後だった。
クロード卿が報告書を届けに屋敷に来て、父と話し終えた後、廊下で私と鉢合わせた。
父は書斎に戻っていた。
廊下には、二人だけだった。
「ローゼン嬢、少し時間がありますか」
珍しい始まり方だった。
いつもは業務の話から入る。
「はい、あります」
「庭でいいですか」
「構いません」
二人で庭に出た。
午後の光が、石畳に長い影を伸ばしていた。
東屋のそばの薔薇が、白い花を咲かせていた。
クロード卿は少し歩いてから、立ち止まった。
庭師はいなかった。
屋敷の窓は遠かった。
彼は前を向いたまま、少しの間黙っていた。
『おっと騎士団長、珍しく緊張しています! 普段は鉄壁の落ち着きを誇る人物が、今、深呼吸しました! これは何かが起きる前触れです!』
クロード卿が、深呼吸した。
「……聞こえていますか、実況」
「聞こえています」
「わかりました」
それだけ言って、彼はまた少し黙った。
緊張している、という実況の言葉が本当なのだと、その横顔から伝わってきた。
私も黙っていた。
何かを言う気になれなかった。
ただ、胸の中が、じわじわと騒がしかった。
しばらくして、クロード卿が口を開いた。
「任務を受けた当初、正直に言えば——あなたの能力を危険視していました」
「知っています」
「制御できない力は、扱いが難しい。そう思っていました」
「今も、そう思っていますか」
「今は、違います」
彼は静かに続けた。
「あなたの実況は、止まらない。何でも暴く。時に困らせる。胃が痛くなることも、一度や二度ではありませんでした」
「……重ねて申し訳ありません」
「謝らないでください。言いたいのはそこではないので」
彼が私を見た。
真っ直ぐに。
いつも真っ直ぐ見る人だが、今日の目は少し違った。
「あなたが笑いながら実況している時が、一番安心します」
静かな声だった。
庭に、風が吹いた。
薔薇の白い花びらが一枚、ふわりと落ちた。
私は返事ができなかった。
「最初は任務でした。今も任務です。でも——任務でここにいるだけではなくなっている、と以前も言いました。今日は、もう少し正確に言おうと思います」
クロード卿が、私の方へ向き直った。
「ミレイユ・ローゼン嬢。あなたの声が、必要です。実況も、あなた自身の声も。騎士として、ではなく——」
一瞬、間があった。
「一人の人間として」
庭が静まり返った。
鳥の声も、風の音も、遠くなった気がした。
私は薔薇を見ていた。
白い花びらが石畳の上にあった。
その先に、クロード卿の靴先があった。
胸の中が、ぎゅっとなった。
「……ヴァルナー卿」
「はい」
「わたくしの実況は、止まりません。これからも、何でも暴きます。きっとご迷惑をおかけします」
「わかっています」
「それでも、ですか」
「それでも、です」
迷いがなかった。
一秒も、迷わなかった。
私は顔を上げた。
クロード卿が私を見ていた。
その目が、いつも通り真っ直ぐで、でも今日だけはどこか、柔らかかった。
「……わたくしも」
声が少し震えた。
「あなたがそばにいてくださることが、怖くない理由は——任務だからだけではありませんでした。ずっと前から」
言い終わって、頬が燃えるように熱くなった。
クロード卿が、ゆっくりと息を吐いた。
それから——本当に久しぶりに、はっきりと笑った。
小さく、でも確かに、笑った。
その瞬間。
『おっとここで騎士団長、特大告白成功ーーー!! 相思相愛が正式に確認されました! 長かった! 実に長かった! 実況令嬢も騎士団長も不器用すぎましたが、ついにこの日がきましたー!!』
庭に、実況の声が響き渡った。
クロード卿の耳が、みるみるうちに赤くなった。
私の顔も、熱くなった。
「……声が大きいですわ」
「同意します」
「でも、止まりません」
「……わかっています」
二人で少し黙った。
それから、また二人で、小さく笑った。
『なお屋敷の二階の窓から、侍女のリナが観覧していたことをお伝えします! 泣いています!』
「リナーーー!」
二階の窓が、素早く閉まった。
庭に、昼下がりの光が満ちていた。
薔薇が風に揺れていた。
クロード卿がそっと、私の隣に並んだ。
肩が触れるか触れないかの距離だった。
それだけで、十分だった。
『本日の実況、最高の場面をお届けしました。以上です』
「以上じゃありませんわ、まだ続きがあります」
「……どんな続きですか」
クロード卿が、また耳を赤くしながら聞いた。
私は薔薇を見ながら、少し笑って答えた。
「これからの話ですわ」
庭に、静かな午後が続いていた。