作品タイトル不明
第108話 君に会えて、よかった
山脈を越え、幾重にも連なる暗黒の森を抜け、氷雪の渓谷を風が切り裂く。
月明かりの下、夜空を駆ける影がひとつ。
いや、五つ。
風の魔力を纏い、ユフィたちは夜空を一直線に翔けていた。
上空には鈍く光る雲が流れ、下界は深い闇と魔物の咆哮が交錯する。
重力を忘れたように浮遊する感覚と、容赦なく吹き抜ける冷気。
命綱など存在しない。魔力ひとつに身を預けた、命がけの飛行だった。
それでも、月だけはやけに綺麗だった。
そんな騒々しい一行は、ほどなくして魔王城のある大地に降り立った。
「案外すぐに着きましたね」
「「「「死ぬかと思った」」」」
明るいユフィの言葉に、後方からほぼ同時に四人の呻き声が重なる。
ライル、エリーナ、ジャック、エドワードは目をぐるぐる回しながらうなだれていた。
「これが、魔王城……」
ユフィは改めて、魔王城を視界に収めた。
まず目に入るのは、マグマの湖。
大地そのものが呻いているかのように、灼熱のマグマがぐつぐつと音を立てる。
その向こうには、まるで世界の果てに突き刺さったような絶壁。
崖の頂に、黒々と、異形のシルエットが聳え立っていた。
魔王城。
鋼鉄と黒曜石で構成されたような冷たい輪郭。
城全体から立ち上る魔力の瘴気は、見る者の肺を圧迫するほどに濃密だ。
周囲には異形の影が蠢き、空には大型のドラゴンが、群れを成して旋回していた。
「魔王城に辿り着くためには、周囲を取り巻くダンジョンを攻略していかなければならない」
エドワードが重い口を開いた。
「地形そのものが魔力によって変容していて、進むたびに構造が変わる。何百という分岐、致死性の罠、幾万の魔物……踏破は容易ではない」
さらに、彼は空を指差す。
「加えて……見ての通りだ。あのマグマ湖からは常に熱風が吹き上がっている。風魔法で上空を飛ぶのは……熱気で気流が乱れ、制御不能になるだろう」
首を振りながら、エドワードは続ける。
「そして、あのドラゴンたちが上空を守っている。下手に近づけば、即座に焼き尽くされる」
全員が険しい表情で魔王城を見つめる。
「こんな絶望的な地理条件で、どうやって魔王城に辿り着くんだ……?」
素朴の疑問をジャックが口にしたその時。
「魔王城ごと吹っ飛ばせばよくないですか?」
ユフィが、ぽつりと呟いた。
「……は?」
エドワードが、目を瞬かせる。
ジャックが肩越しに二度見する。
ライルは口を開けたまま固まり、エリーナが「やっぱりそうなるよねえ……」と小声で呟いた。
ユフィは魔王城の方に歩を進めながら、両手を胸元に組んだ。
まるでお祈りでもするかのように。
そして、突如として眩い光が吹き出す。
「│ 神焔断律(シンエンドリス) !」
詠唱の言葉と同時に、風と炎が螺旋を描きながら天へと昇り、やがて一対の炎の鳳が形を成す。
全員の背中に、ぞわりと戦慄が走る。その魔力の密度、規模、そして威圧感。
もはや攻撃魔法ではない、ひとつの災厄が、今ここに顕現しようとしていた。
そしてその照準が、真正面、魔王城に向けられて。
「いっけええええええええええええええええ!!」
ユフィの声が、魔王城にこだました。
◇◇◇
魔王城の最奥、漆黒の玉座にて。
跪く魔人ザックスの顔は、険しくこわばっていた。
「──それで? 今度は、どのような言い訳を用意してきた?」
空間そのものを軋ませるような低音が、闇の中から響く。
玉座に鎮座する巨大なシルエット、魔王ヴェルザークの声だ。
声が放たれただけで、足元の床が軋み、壁に刻まれた古代魔導の紋様が淡く赤黒く脈打つ。
ザックスは、地に額をつけるように深く頭を垂れた。
「……申し訳ございません、魔王様。今度こそ、我が命に代えても、ユフィ・アビシャスを抹殺してみせます」
「命など要らぬ」
ずしり、と何か巨大な存在が動いた気配がした。
ザックスの背筋を冷たい汗が伝う。
「貴様の命では、あの少女には一片も届かぬということを……我は、理解し始めている」
闇の中で、赤い双眸がゆっくりと開かれた。
「ユフィ・アビシャス……奴は、本当に人間か?」
その名を口にした瞬間、ヴェルザークの周囲の空気がざわめき、重力そのものが歪んだかのような圧力が広間を包んだ。
「魔の頂点たる我が、たかが人間の少女一人に……興味を抱くとはな」
怒気と好奇の混じった低い呻き。
だがその声音には、明確な苛立ちが混ざっていた。
「ならば、再度命ずる。ザックス。次は失敗するな。他の魔人も連れて行け。それでも足りぬというのなら……我が自ら動かねばならぬのかもしれん」
その言葉にザックスは一瞬だけ顔を上げ、狼狽の色を浮かべかけた。
だがすぐにそれを押し殺し、拳を床に叩きつけるようにして応じる。
「……御意。今度こそ、必ずや」
「ふん……」
魔王が軽く鼻を鳴らした、その瞬間だった。
――カッ。
眩い閃光が、唐突に玉座の間を包んだ。
それは、夜を裂く稲妻のように白く、鋭く、そして理不尽なほどに美しかった。
ザックスが咄嗟に顔を庇う間もなく、次の瞬間――ドォォォォォォン!!!
大気が悲鳴を上げた。
轟音と共に魔王城の壁が弾け飛び、魔王の間の一角がまるで紙細工のように押し潰され、吹き飛ぶ。
衝撃波が渦を巻き、黒曜石の床が波のようにめくれ上がる。
炎と破片、魔力の奔流が玉座にまで押し寄せ、空間そのものが悲鳴を上げるかのように歪んだ。
瓦礫と土煙の中、魔王が咳き込みながら叫んだ。
「な、何事だ……!? 敵襲か……ッ!?」
その声が掻き消されるように、さらにもう一度、爆発が起きた。
魔王の間に、誰かが攻撃を仕掛けたことは疑いようのない事実だった。
◇◇◇
漆黒の塔が、燃えていた。
爆炎は幾重にも重なり合い、空をも焦がす業火と化して魔王城を呑み込んでいく。
魔力を帯びた瓦礫が吹き飛び、空中を舞い、軋んだ悲鳴をあげながら崩れ落ちる塔の残骸が、断末魔のように地に突き刺さった。
ユフィは風に揺れる髪を掻き上げながら、淡々とその光景を眺めていた。
魔王城の中心部に巨大な穴が穿たれ、今まさに崩れ落ちんとする光景を前に、ぽつりと一言。
「……あれ、案外脆いんですね」
気の抜けた声で、ユフィは崩れゆく魔王城を眺めながら、ぽつりと呟いた。
魔力の余韻を残したまま、足元には微かに燻る光の残滓。
風が巻き起こし、髪を揺らしていた。
その異様な光景に、誰よりも先に声を上げたのはライルだった。
「ま、魔王城が……っ!?」
その声は震えていた。
緊張でも恐怖でもない。
単純な驚愕だった。
魔王城。
過去、いくつもの国の軍が総力をあげて攻め入り、いずれも敗北した忌まわしき魔の要塞。
その漆黒の塔が、今、煙と共に崩れ落ちている。
エドワードも唖然としたまま、絶句した。
「馬鹿な……あの、王国最強の魔導軍が束になっても崩せなかった要塞を……たった一撃で……」
エドワードの視線の先にいるユフィは、相変わらずその辺にいそうな少女そのもので、先ほど難攻不落の魔王城に一撃を喰らわせた人間とは思えない。
ユフィは少し困ったように唇を尖らせ、あたりを見回して言った。
「えっと……もしかしてこれで、魔王討伐完了……? とかだったりします?」
その瞬間だった。崩れ落ちる塔の残骸の中心、巨大な空洞のあたりが、突如として煌々と輝いた。
それは流星のような光だった。
目を焼くような眩い閃光が、まっすぐにユフィたちの立つ崖の上へ向かって飛来してくる。
その光は誰にも当たることなく、ユフィたちの手前でふわりと宙に留まり、形を変えていった。
「貴様かああああああああああああああ!?」
咆哮。
気がつくと、ユフィたちの前に巨大な存在が姿を現した。
巨大な双角、爛々と光る眼、全身を覆う鱗のような黒鋼の装甲。
それは、誰が見てもわかる災厄そのものだった。
「長きにわたって築き上げてきた我が魔王城を……この愚か者どもがああああああああああああああ!!」
怒り狂うその声は、雷鳴すらもかき消すほどの凄まじさだった。
魔力の奔流が噴水のように地面から吹き上がり、地形すら変えていく。
ユフィは目を見開いたまま、呆然とその姿を見上げた。
「ライルさん……これが……?」
「ああ……魔王ヴェルザーク。この世界において、最も強大な存在だ」
ライルの声も、かすかに震えていた。
理性の鎧を着たその声色の裏に、確かな恐怖と警戒が滲んでいる。
エリーナもまた顔をしかめ胸を抑えた。
「くっ……途轍もない瘴気……下手に動けば命ごと持っていかれそうね……」
目の前の”それ”は、まさしく絶対的な力を持つ魔そのものだった。
魔王ヴェルザークは、ずしん、と地を揺るがすほどの重圧を放ちながら、ユフィを見据える。
その眼光はぎらついており、ただの視線ひとつで空気が軋み、周囲の魔力をねじ伏せるような力を孕んでいる。
だが、ユフィは一歩も退かない。
いや、退くという選択肢すら、頭の片隅に存在しなかった。
少女はあくまで呑気に、のほほんとした調子で、その世界最強の魔を見返していた。
そのあまりに肩の力が抜けた姿に、言葉を失う。
魔王という、圧倒的存在を前にしてもなお崩れぬその態度。
ただの人間の女。
だというのに、恐怖も畏れも見せないどころか、まるで近所に買い物にでも来たような顔。
――こいつが、我が居城を一撃で崩壊させたというのか……。
だが、その滑稽さすら突き抜けた態度の奥に、一点の濁りもない魔力の核があることを、ヴェルザークはすぐに見抜いた。
この女は、ただの人間ではない。 この女こそが――。
「そうか、お前が──ユフィ・アビシャスか」
低く、唸るように告げられた名。
「あ、はいどうもユフィです、こんにちは」
ユフィは、ぺこりと頭を下げた。
どこか観光地の受付嬢めいた、実に礼儀正しい挨拶だった。
その瞬間、ヴェルザークの口元にひくりと笑みが走った。
「くくく……面白い。実に、面白いぞ。人間よ」
漆黒のマントを翻す。
ヴェルザークは天を仰いだかと思えば、両腕を大きく広げ咆哮する。
「我が名は、魔王ヴェルザーク!! お前が何者であろうと関係ない!! この手で、貴様を塵一つ残さず、粉砕してくれよう……」
天地を揺るがす怒号。
だが、その宣言が最後まで告げられることはなかった。
「……あの、ごめんなさい」
ユフィの声が、風を裂いて割り込んだ。
次の瞬間、ユフィの足元から魔法陣が閃く。
赤と金の光を編み込んだ、複雑かつ美麗な紋章が瞬時に展開される。
その中心に立つ彼女の瞳が、ふっと真っ直ぐに光を帯びる。
「私たち、遠足中なので」
ユフィの声は穏やかだった。
微笑の気配すら浮かべたその表情には、魔王を前にしても一切の怯えがなかった。
「さっさと終わらせますね」
右手を静かに上げる。瞬間、視界が白熱する。
「│ 煉獄葬炎(ヘル・フレイム・レクイエム) 」
その言葉と同時に天を裂いて迸ったのは、灼熱の斬撃だった。
紅蓮の軌跡が空間を断ち、直線上のすべてを蒸発させる勢いでヴェルザークへと襲いかかる。
ヴェルザークの紅い瞳が微かに見開かれる。
「……っ!」
咄嗟に身を翻すも、全身を包む漆黒のマントが熱と衝撃に焼き裂かれ、脇腹を抉るようにして炎の刃が穿つ。
「ぐあっ……!?」
大地が爆ぜた。
爆風が周囲を吹き飛ばし、その辺にあった岩が砕け散った。
炎の奔流が収まったとき、ヴェルザークの身体は確かに傷を負っていた。
漆黒の鎧が焦げ、皮膚には深い裂傷。
紫黒い血が地面にぽたりと滴る。
「くっ、容赦がないな……」
「さっさとって言ったじゃないですか」
再び魔力が脈動する。ユフィの周囲の空気が冷気を帯び、白く霞み始める。
「│氷壁障……《アイス・ウォール……》」
冷気が満ちる。
霧のような白が空間を覆い始めた瞬間、ヴェルザークの口元が歪む。
「今度はこちらの番だ」
詠唱はない。
宣言すらない。
ただ意志のみで、黒き魔力が一気に膨れ上がった。
空間が歪む。
闇色の奔流が形を成し、無数の魔力塊となってユフィへと殺到する。
ひとつひとつが街ひとつを吹き飛ばしかねない威力。その数十、いや百。
「│ 岩光盾(ストーン・バリア) !!」
ユフィが指先を弾いた瞬間、足元の大地が震えた。
地面の岩盤が隆起し、まるで巨人の拳が地中から突き上がったかのように、粗削りの岩壁が高速で次々と形成されていく。
同時に、その岩壁の表層が光り始めた。
黄金の紋が石肌の上を走り、まるで岩そのものが光の鎧を纏ったようだった。
岩の質量と、魔力光の防護。
闇弾が叩きつけられる。
轟音。
爆炎が壁にぶつかり、岩肌がひび割れ、破片が弾け飛ぶ。
しかし、光を帯びたその岩壁はびくともしない。
次の瞬間にはひびを光が走り、瞬時に修復されていく。
影と光、岩と魔。相反する力が激突し、大地全体が震えた。
――そんな戦いのすべてを、遠目でぽかんと見上げる者たちがいた。
「……あれ、俺たち、必要?」
「いや、入ったら消し飛ぶだろ」
「もはや……災害よね……あれ……」
ライルたちが岩陰から、目の前で展開される神話のような戦いを眺めていた。
その激戦は、もはや戦闘の領域を逸脱していた。
雷鳴のように鳴り響く轟音と、空全体を覆い尽くす魔力の波動。
それは、ひとりの少女とヴェルザークによる、世界の均衡を揺るがす決戦だった。
次の瞬間には、ユフィが動いていた。
空間に火花が散る。ユフィがその場から一歩踏み込むと同時に、空が裂けた。
「 轟雷連鎖(サンダー・チェイン・テンペスト) 」
咆哮するかのような雷鳴。
天から幾千もの雷鎖が奔り落ち、紫電の蛇となってヴェルザークを包囲した。
「ぐっ……!」
ヴェルザークは即座に対応する。全身を覆う漆黒の球体が、雷撃を受け止める。
衝突音と共に火花が迸り、地面に稲妻が走る。守りきった、そう思わせるほどの堅牢な防壁。
だが、その直後だった。
「これで終わり、だと思いましたか?」
ユフィが囁くように言った。ヴェルザークが目を見開く。
次の瞬間、雷鎖の中心部に新たな魔力が渦巻く。
先ほどとは比べ物にならない、紅き神性を帯びた閃光。
「│ 神焔断律(カグツチ・オーバーライド) 」
刹那。
輝きが爆ぜた。ヴェルザークの盾が砕け散る。
断ち切られるように球体が裂け、内部のヴェルザークに直撃する紅蓮の光線が貫いた。
「ぐあああああああっっ!!」
怒号と共に吹き飛ぶ巨躯。
防御の一瞬を見抜かれた直撃。
全身が焼かれ、黒煙を上げながらヴェルザークは後方へと倒れ込んだ。
大地に深く刻まれた焦土の中心、ユフィは息一つ乱さず立っていた。
足元の草花すら、一輪として揺れていない。
「さっきも言いましたよね。遠足中なんです。だから、手間取ってる暇はないんです」
その声は変わらず、穏やかだった。焦げた風が周囲を撫でる。
焼け焦げた瓦礫と黒煙の残滓の中で、ユフィはひとつ、深呼吸をした。
その顔に、駆け寄ってくる影。
「ユフィちゃん! 大丈夫!?」
真っ先に飛びついてきたのは、エリーナだった。
土煙で薄く汚れた制服の裾を気にすることもなく、彼女はユフィの肩を掴み、心配そうに覗き込む。
「はい、大丈夫です。少し魔力の消費が激しかったですけど……問題ありません。それにしても、さすがは魔王……とても硬いですね」
ユフィは苦笑しながら、自身の袖についた煤を払った。
魔力を大きく振るったあとの虚脱感はあるものの、意識も明瞭で身体の動きにも支障はない。
しかし彼女の視線の先に立つヴェルザークは、なおも威圧を放って立ち上がった。
「なぜだ……なぜ、女である貴様が、これほどの魔力を持つ……?」
ヴェルザークが低く、咆哮のように問うた。
全身は焼け爛れ、片腕は焦げていたが、それでも瞳は鋭く怒気を孕んでいた。
「それがですね……私にも、よくわからないんですよね〜」
ユフィは困ったように眉を下げて答えた。
いつもの調子だ。
だが、ヴェルザークはその答えに納得しなかった。
「馬鹿な。そんな魔力……単独で持てるはずがない。誰かが、外から魔力を供給しているとしか考えられない」
「誰かが……?」
その発想は、今までなかった。
今までずっと、自分の中に魔力が宿っていると思っていた。
しかしそれが全部違って、『自分ではなく第三者から共有されているもの』だとしたら……?
ヴェルザークの一言に、ユフィの目がカッと見開かれる。
(……誰かが、ずっと私に魔力を?)
思い返す。
自分の中にあった、謎の魔力。
初めて攻撃魔法を使った時から、ユフィはありえないほどの魔力量を保有していた。
本来であれば攻撃魔法を使えるはずのない女という性別。
常識では考えられない、異常だ、世の理に反する。
散々言われて来たそれらが、全て『自分ではない者の仕業』だと仮定したら。
思い至った瞬間、脳裏のピースが次々と繋がった。
繋がった瞬間、ユフィは呟いていた。
「……シン、ユー?」
呟いた瞬間、足元の影がふわりと揺れた。
──にゃー。
『って、もう猫のふりをする必要もないのか』
次いで、夜の闇に溶けるように黒猫が姿を現した。
『やれやれ……やけに魔力消費が多いから、心配になって来てみれば……』
黒曜石のような毛並みを持つ猫──シンユーは、じっと魔王を見据えて言った。
『君の仕業かい、ヴェルザーク』
その瞬間、ヴェルザークの顔がビクリと引き攣った。
その名を呼ばれた瞬間、シンユーはゆっくりと瞳を細めた。
漆黒の毛並みが風に揺れ、尾が静かに揺れるたび、まるで空間そのものが│ 撓(たわ) んでいくようだった。
「……貴様、生きていたのか、”シリオン”」
ヴェルザークが歯噛みするように低く唸る。
その声には驚愕と怯えと、しかし何より深い怨嗟が滲んでいた。
『生きていたかだなんて、ひどいなあ。僕の息の根が完全に止まっていないと知っているのは、他でもなく君だろうに』
黒猫――否、シンユーことシリオンが、ライルの言葉を遮ってそう返した。
その言葉の端々には、明らかに意図された棘があった。
「シリオン……? って、まさか……」
ヴェルザークが紡いだ名に、ライルがハッとする。
「知っているんですか?」
「知っているも何も、シリオンは──魔王だよ?」
……時が、止まった。
「えっ……えっ、ちょっと待ってください……どういうことですか? シンユーが、魔王……?」
困惑するユフィに、シリオンがくるりと振り返る。
燐光を帯びた金の瞳が、彼女の瞳と真っ直ぐに交わった。
『正確には、元・魔王だよ。僕はかつてこの大陸を統べた、魔族の王――シリオン。君の中に宿り、力を貸していた“イマジナリーフレンド”の正体さ』
ユフィは、呆けたように瞬きを繰り返した。
「元、魔王……?」
何が何だかわからない。
シンユー。
ユフィの精神状態が不安定になると現れて、ずっと肯定し続けていた存在。
自分の頭の中にしかいない、文字通り空想上の存在のはず……。
「あっ……」
記憶の底から、小さな光がふわりと浮かび上がってくる。
あれは、まだユフィが幼いころ。遠足の日の昼下がり。
ひとりきり、人気のない森の奥にある洞窟の中で。
ユフィは泥だらけになりながら、地面に寝転び涙を流していた。
「……だれか……わたしと友達になってよぉ……!」
声にならない叫び。
世界に取り残されたような寂しさが、幼いユフィの胸を押し潰していたあのとき、声が届いた。
『だったら、僕が友達になってあげようか?』
声の主は、ふわりと人の形を成す。
淡く、優しいまなざしの光の精霊のような存在が、ユフィを見つめていた。
「……あなたは、だれですか?」
ユフィが恐る恐る問いかけると、その存在はふっと微笑んだ。
『君の、友達……いや──』
『”親友”だよ』
「あーーーーーー!!」
思わずユフィは叫んで、シリオンを指差した。
「あの時、洞窟で私に声をかけてきたのは……」
「そうそう、僕だよそれ」
これで、繋がった。
あの洞窟は、シンユーことシリオンと出会った場所。
夜の肝試しの際、ジャックと一緒に逃げ込んだ洞窟。
あの時感じた懐かしい感覚は、シリオンとの出会いがあったからだったのだ。
でも、だとしたらなぜあんな場所に、元とはいえ魔王が……?
そんなユフィの素朴な疑問に応えるようにシリオンは言う。
『あのときの君の魂の叫びが、僕の眠りを破った』
シリオンは静かに語った。
『信頼していた部下、いや、今は裏切り者ヴェルザークに王位を奪われ、すべてを失った僕は……洞窟の奥に潜み、長い眠りについていた。己の価値を見失い、孤独の中で、生きている理由すら忘れていた。ようは引きこもりだね』
あっけらかんと言いながら、シリオンは静かに語る。
『それからは、洞窟の奥で存在を終えることだけを待っていた。誰からも忘れられた、ちっぽけな残骸として』
シリオンが、ユフィを見つめる。
『でもあの日。君は、心から誰かにいてほしいと願った。それが、かつて王だった僕を、再び生きるものへと引き戻してくれたんだ。誰かに必要とされることが、こんなにも温かいものだったとは、あのとき思い出したんだ』
「……だから、私に攻撃魔法を……?」
『そう。君に力を貸し、共に歩むことが、僕の新たな生きる意味になった。僕は性別的には男に分類されるから、君の目指す聖女には程遠い力だけれど……君が望んだ時、僕はいつでも君の剣になった』
「……なるほど、だからユフィは、女でありながら攻撃魔法を支えたんだね……」
全てが納得いったようにライルは頷く。
ユフィに宿っていたのが、全ての属性の魔法を使える魔王だと言うなら。
女でありながら常識はずれの攻撃魔法を放つその特性も十分に頷ける。
一方のユフィは、思わず息を呑んだ。
通常なら理解が追いつかない真相。
しかし不思議と、その真実はユフィの胸にスッと入ってきた。
ああ、そうだったんだと思うくらい。
シンユーの存在はユフィにとって、一番身近な存在だったからか、驚きはほとんどなかった。
優しく、いつも自分のそばにいたシンユーが、実は過去にすべてを失った魔王で――。
そして、自分と同じように孤独に苦しみ、ともだちを欲していた存在だった。
「シンユーも、私と同じだったんだね」
ユフィは呟く。
シンユーを見ていると、まるで鏡を見ているようだった。
シリオンは一拍置き、笑う。
『うん。だから、君のことが放っておけなかったのかもしれないね』
互いの孤独を埋め合うように、ユフィとシリオン──いや、シンユーは、目を細めて微笑み合った。長い時を経て、ようやく心が通じ合った瞬間。
そこにあったのは、かつて想像もしなかったほどの静かで温かな幸福だった。
孤独に取り残された少女と、全てを失った元・魔王。種族も、立場も、力も違えど、その魂はどこまでも似ていた。
「ありがとう、シンユー……ずっと、そばにいてくれて」
『こちらこそだよ、ユフィ。君が僕をもう一度生かしてくれたんだから』
ささやかに交わされたその言葉は、確かに、ふたりの絆を結ぶ誓いだった。
『今までよく頑張ったね、ユフィ』
シンユーの声が優しく響く。
『僕はずっと、君の中で見ていたよ。君は本当に、努力家だ。七年間、毎日のように攻撃魔法の鍛錬を続け、メキメキと腕を上げていった。時には僕の魔力の膨大さ故にちょっぴり失敗したこともあったけど、それでもめげずに魔力の制御に勤しんだ』
シンユーの言葉に、ユフィの視界がにじんだ。張りつめていたものが、そっと緩む。
努力は自分のため。誰にもわかってもらえなくていい、と思っていた。
でも、ずっと見ていたと言われた瞬間、心の奥の何かがそっと崩れた。
「ありがとう……シンユー」
その言葉は、震えながらも確かに響いた。
まるで世界が祝福するかのように、風が優しく頬を撫でる。
だが、その空気を断ち切るように。
──ドンッ!
乾いた音が地を揺らす。次いで、重たく濁った怒気が辺りを覆った。
「ふざけるなァッ!!」
地面を抉るように踏み込むヴェルザーク。
怒りに染まった双眸は血走り、凶獣のような咆哮がその喉奥から漏れ出ていた。
「なんだその茶番は! 何が心の絆だ!」
声が反響し、あたりの空気を震わせる。
ヴェルザークの怒りは、憎悪と屈辱に満ちていた。
「俺は、お前を追放した!」
「君一人の力じゃないでしょ。取り巻きの魔人に僕の有る事無い事吹き込んで、皆で結託して。あれは酷かったなー」
「黙れ!」
シンユーを睨みつけ、ヴェルザークは吼える。
「こんな小娘を通じて、好き勝手に我らの領域を蹂躙し、多くの魔獣を│ 屠(ほふ) り、何人もの魔人を殺した……!! そして挙句には、我らの誇りである魔王城まで破壊した!!」
拳に集う魔力が、灼熱と氷嵐の双極を呼び起こす。
「こんな茶番……こんな屈辱を、黙って見過ごせるわけがない!」
叫びは、かつての忠誠の名残など微塵もない、純然たる怒りだった。
「そんな歪んだ因縁ごと──この世界もろとも砕いてやる!!」
ヴェルザークが両手を掲げた。その瞬間、大気が裂け、空が呻いた。
──音が、消えた。
重力が狂い、空間が歪む。
光がねじ曲がり、蒼穹に黒い亀裂が走った。
「空が……割れてる……?」
誰かの呟きが、恐怖に染まる。
それは、比喩ではなかった。
本当に、空が割れていたのだ。
天が、まるで薄氷のように引き裂かれ、亀裂から赤黒い閃光が溢れ出す。
「この世界など……貴様らごと、消し飛べばいいッ!!」
そして──その絶望の宣告と共に、魔王は吼えた。
「《星落とし》!!」
両の腕を広げた魔王の頭上に、禍々しき魔法陣が浮かび上がる。
それは、空の全てを覆うほどの巨大さだった。
無数の幾何学が幾重にも重なり、まるで宇宙そのものが具現化したかのような異様な光を放つ。
――星が、墜ちてくる。
それは比喩ではなかった。
魔法陣の中心から燃え盛る天体が出現し、ゆっくりと回転しながら、地上へとその質量を預けていく。
空が焦げ、風が爆ぜ、地面が震える。
あらゆる命が、ただその存在に押し潰されるような、絶対的な終末の予兆だった。
《星落とし》
それは、世界の理すら捻じ曲げる終末の魔法。
空に浮かぶ巨大な光球は、今やゆっくりと落下を始めていた。
星辰の如く輝きながら、燃え盛る尾を引いて地上へと迫るそれは、天災の模倣にして、神罰の代行者。
熱と圧と魔力の全てを孕みながら、確実に死をもたらす流星だった。
「凄まじい魔力の塊だ……!!」
ライルが息を呑んだ。
頬に冷や汗が伝うのも構わず、天空から迫る光に目を奪われる。
「あんなのが落ちたら、王国はおろか、近隣の国々まで全部巻き込まれるぞ……!」
ジャックも呆然と叫んだ。
『……これが、魔族の王の最後の抵抗か』
ユフィの傍らで、シンユーがぽつりと呟いた。
だがその声は、どこか他人事のように淡々としている。
「わ、私が、なんとかします!」
ユフィが叫んだ。
振り返らず、空を見据えたまま、両手を天に向けて広げる。
「│ 雷霆轟閃(サンダーストーム・レイジ) !」
今打てる最大限の雷魔法を撃った、つもりだった。
しかし、何も起こらなかった。
虚空を走ったのは、魔力の奔流ではなく静寂だった。
「なんで!?」
詠唱は終わった。
構築も済んでいる。だが、魔法が発動しない。
ユフィは愕然とした。
「まさか……魔力切れ……?」
いや、そんなはずはない。
確かに疲弊はしているが、そこまで追い詰められてはいない。
身体の内側にはまだ、確かな魔力の脈動を感じる。
けれど、それが出力されない。彼女の指先が小刻みに震える。
「│ 雷霆轟閃(サンダーストーム・レイジ) ! │ 轟炎弾(グレイト・フレイム・バレット) ! │ 風砲撃発(ウィンドブラスター) !! 」
他の魔法も何度も試す、叫ぶ。
でも、魔法は沈黙したままだ。
「……まさか……シンユー……?」
思い至った瞬間、ユフィは振り向いた。
彼女の視線の先で、シンユーはどこか寂しげに微笑んでいた。
「ユフィの攻撃魔法は、すべて僕の魔力が由来なんだ。つまり、ユフィが魔法を撃てるかどうかも、僕のさじ加減次第ってこと」
「……どうして……!? なんで今、そんなこと……!」
ユフィの声が震える。
「お願い、シンユー。撃たせて……! このままじゃ、みんなが……!!」
だが、シンユーは首を横に振った。
その眼差しは、まるで別れを告げるような穏やかさを湛えていた。
『ユフィが頑張る必要はないよ』
その言葉に、どこか決意が滲む。
『僕一人で、十分さ』
ユフィの呼吸が止まった。
察してしまったのだ、今からシンユーが何をしようとしているのか。
「まさか……シンユー……」
シンユーは頷く。
光球が迫る空を一瞥しながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「《星落とし》を止めるには、同等の魔王級の魔力量が必要だ。ユフィを媒介した魔力じゃ……少し、足りない。無理に撃てば、ユフィの命が消し飛ぶ可能性が高い」
「そんな……」
『でも、ユフィを介さず僕自身の魔力でぶつかれば……』
そこで言葉を区切り、シンユーは微かに笑う。
「相打ちくらいで済むと思うんだ」
ユフィは首を横に振った。必死に、否定の言葉を紡ぐ。
「相打ちって……それじゃ……それじゃ、シンユーが……死んじゃうじゃない!!」
叫びが空に吸われていく。けれど、シンユーの背中は、静かに光球へと向けられていた。
『大丈夫。君はもう、一人じゃない』
「だめ、だめ、シンユー! あなたがいなきゃ、私は……!」
シンユーは笑っていた。とても、穏やかに。
まるで、全てを赦し、全てを抱きしめるような微笑みだった。
『君に会えて、よかった』
その言葉と共に、彼の身体がふわりと宙へ舞う。
重力など存在しないかのように、黒き猫の身体は、ゆっくりと、だが確かな意志で《星落とし》の核心へと向かっていった。
天を穿つように燃え盛る《星落とし》。
それはもはや魔法とは呼べぬ、天災の具現だった。
世界を焦がし、命を奪い、すべてを灰に変えんとする力。
銀河を孕むような膨大な熱と質量が、そこにはあった。
けれど、シンユーは恐れなかった。
シンユーはただ、まっすぐに飛んだ。
その小さな体から、魔力があふれ出す。
灼熱の星と、シンユーの魔力が激突する――刹那。
時空が凍った。
光と熱が収束し、
爆ぜる。音が消えた。
衝撃も、爆風もない。
ただ、圧倒的な沈黙だけが、世界を支配した。
巨大な《星落とし》の表層が、静かに剥がれていく。
まるで氷の結晶が太陽に晒されたように、眩く、脆く、崩れながら。
中心核へと到達したシンユーの魔力が、星を包み込んでいた。
それは、あらゆる存在を無へと還す断絶だった。
光が満ちた。
優しく、静かで、温かく、どこか懐かしさすら漂わせる、やわらかな終焉の輝き。
燃え盛っていた星は、ゆっくりと、砂粒のように霧散しはじめる。
煌めきが舞う。星屑が、花のように散っていく。
そこには、もう恐怖も怒りもなかった。
ただ、美しさだけが残されていた。
そして、すべてが――消えた。
その瞬間、空が震えた。
「ぐおああああああああああああああああああッ!!!!!!」
ヴェルザークの咆哮が天地を引き裂き、大気を震わせた。
その雄叫びは怒りと恐怖、そして断末魔の絶叫をすべて孕んでいた。
「おのれ……おのれ、貴様ァ……ッ!! 人間如きがあああああああああああああ!!」
魔王の巨体が痙攣し、怒りに震えながらのたうち回る。
その口からは血とも瘴気ともつかぬ漆黒の液体が滴り、空間に瘴霧を撒き散らした。
「我が千年の統べを……我が絶対の力を……こんな、│ 塵芥(ちりあくた) 風情に……!!」
腕が崩れ、羽がちぎれ、角が砕ける。
断末の魔力が暴走し、周囲の空間ごと歪んでいく。
だが、それでも彼は足掻いた。
再構築するかのように、破壊された魔力を掻き集め、醜悪な形で再生しようとする。
その姿はもはや威厳などなく、ただ醜く、執念に満ちた亡者だった。
「まだだ……まだ、我は……滅びぬ……!!」
叫びながら、ヴェルザークは空間そのものに爪を立てた。
だが、それすらも虚しく。
空の奥底に走ったひび割れが、ゆっくりと裂け目となり、ヴェルザークの巨躯を軋ませながら引きずり込んでいく。
まるで世界そのものが、彼の存在を拒絶しているかのように。
「やめろ……やめろおお……!! 我はッ、我こそが——!!!」
その叫びも、やがて引き裂かれる。
亀裂の闇が、魔王という存在そのものを呑み込み、押し潰し、破砕していく。
ついにはその輪郭すら曖昧になり、叫び声も絶え、彼は一陣の風のように消えた。
後には、沈黙だけが残された。
「やった……やったぞ……!」
ジャックが呆然と呟く。
「魔王を倒したんだ!! 俺たちの勝ちだ!!」
エドワードが拳を天に突き上げて叫ぶ。
先ほどまでの圧倒的な恐怖と絶望は、もうどこにもなかった。
ヴェルザークの気配は《星落とし》ごと消えていた。その一方で。
「……シンユー……」
ユフィは、両手をぎゅっと握りしめたまま、動けなかった。
星を砕いたはずの黒猫の姿も、空のどこにもない。
ただ風だけが、やさしく頬を撫でていった。
そこに。
「にゃあ」
小さな声がした。
はっとして振り返ると、そこにいた。
瓦礫の隙間から、ふらりと歩み出てくる一匹の黒猫。
その毛並みは、どこか見覚えのある光沢を帯びていた。
「シンユー……?」
ユフィが声をかける。
黒猫は人の言葉を話すこともなく、ただ「にゃあ」と鳴いた。
次いで、ユフィの足元に近寄り、すりすりとその身体を擦りつける。
「シンユー……なの?」
けれど、返事はない。
ただ、猫のぬくもりと、鼓動だけがそこにあった。
それだけで、ユフィは察した。もう、この黒猫の中にシンユーはいないのだと。
「ユフィちゃん……」
エリーナが、そっとユフィの傍らに跪いた。
目を潤ませながら、彼女の肩に手を置く。
「シンユー……シンユーが……」
ユフィは、涙を堪えきれずに言った。
その涙には、悲しみ、そして感謝が混ざっていた。
ライルが、空を見上げながら言った。
「……シンユーは、ユフィのために、自らの命をかけたんだ。君が悲しむことは、シンユーも望んでないだろう」
その言葉は優しくも力強く、ユフィの胸に静かに沁み込んでいく。
「……うん」
ユフィは、滲む視界のまま小さく頷いた。
「そうだね……泣いてばかりじゃ、シンユーに怒られちゃう」
目元をそっと拭いながら、ユフィは微笑む。
「ありがとう、ライルさん」
その声は震えていたが、確かに前を向いていた。
そこには、もうシンユーの姿はなかった。
けれど、彼の声が確かに残っていた。
彼の想いが、彼のぬくもりが、ユフィの胸に刻まれていた。
「ありがとう、シンユー……」
ユフィはそっと目を閉じ、空を仰ぐ。
その頬には、涙と共に、やわらかな笑みが浮かんでいた。