軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第107話 レッツゴー!

気がつくと、再び空を黒い雲が覆っていた。

しとしとと降る霧雨が、夜の空気をひたひたと濡らしている。

ぬかるんだ土道を踏みしめながら、ユフィは黙って歩かされていた。

雨脚は細いが、冷たく肌を打ち、歩を進めるごとに衣服の裾が重くなる。

そんな中、ユフィの足取りがふと止まった。

「ここは……」

ミリル村だった。

ユフィが生まれ、育った村だ。

懐かしい家々の、かつて駆け抜けた細い路地、野花が咲いていたはずの石垣。

しかしそれらは今、まるで別の村のようだった。

どこかよそよそしく、見慣れた景色に寒々しい違和感があった。

胸の奥がきゅっと強く締めつけられる。

時間も時間だからか、見慣れたはずの家々には灯りはまばらで、通りに人影もない。

ただ雨音と、自分の足音だけが耳に残っていた。

そんな沈黙の中、ユフィを先導するザインの背が、古びた一軒家の前で止まった。

軒先の板は一部が朽ち、雨水を受けた土壁には深い亀裂が走っている。

(……確か、ここは……もう何年も前から空き家だったはず)

「入れ」

ザインに言われて、家の扉を、ぎい、と鈍い音を立てて開くと。

「……っ!」

ユフィは思わず目を見張った。

かび臭い空気が鼻を突く室内。

そこでユフィが見たのは、椅子に座らされ、縄で縛られたキャサリンの姿だった。

「キャサリンさんっ……!」

堪えきれず、ユフィは一歩踏み出す。

足元の板が軋む音に反応するように、キャサリンのまぶたがかすかに動いた。

ぐったりと│ 項垂(うなだ) れていた首が、ゆっくりと持ち上がる。

「ん……」

どうやら気を失っていたらしい。

ユフィの声が届いたことで、ようやく意識を取り戻したのだ。

キャサリンは焦点の合わない目であたりを見回し、やがてユフィの姿を認めた。

驚きと安堵がないまぜになった表情で、弱々しく微笑む。

「ユフィ……さん……?」

「一体、どうしてこんなことに……!?」

ユフィの問いかけに、キャサリンは荒い呼吸を整えようとしながら、少しずつ平静を取り戻していく。

そして、縛られた両腕をわずかに動かしながら、力を振り絞って答えた。

「わかりませんわ……村の人たちに許可をいただいて、ゴボウを掘っていたのですのよ。そしたら、突然後ろから頭を殴られて……気づいたら、こうして縛られていて……」

声が震えていた。無理もない。

彼女は明確な暴力に晒されたのだ。その恐怖は想像するに容易い。

ユフィは思わず唇を噛みしめた。拳に力がこもる。

「ザインさん……っ、これは一体……!?」

問いかける声は震え、喉の奥で詰まりそうだった。

ザインは、ユフィの問いにすぐさま答えなかった。

窓の外で、風が古びた木戸を叩く音だけが響く。

その場に漂うのは、重苦しい沈黙。

しばらくの間、じっとユフィを見つめていたザインは、やがて目の奥に諦めとも取れる色を浮かべて口を開いた。

「ユフィ・アビシャス……友人を助けたければ……」

その声には、かつて行動を共にした時の親しみはなかった。

感情を削ぎ落としたような、凍てついた語調で。

「ここで、自害しろ」

空気が止まった。

ユフィは一瞬、何を言われたのか分からず、まばたきすら忘れて彼を見つめた。

「……なに、を……? 言っているんですの?」

代わりに、キャサリンが呻くように声を漏らす。

縛られた体をぎこちなく揺らしながら、まるで悪い冗談を否定するように首を振った。

ユフィはその言葉を脳内で何度も反芻した。

自害。

つまり、自ら命を断てということ。

あまりにも現実離れした命令を認識するや否や、ユフィは叫んでいた。

「冗談じゃありません、ザインさん! どうしてそんな……」

「命令なんだ」

呻くようにザインの口から出たその言葉は、ユフィの反論を封じた。

「バレンシア教会からの、命令だ。ユフィ・アビシャスを滅殺しろと、そう命じられた」

ユフィの喉が、ごくりと鳴った。背筋に冷たいものが走る。

「どうしてですか……!? 先日のグラン・ヴェルムの討伐で、私は経過観察になったんじゃないですか!? それに、王様だって……」

「これは、教会の独断……いや、暴走と言った方が正しいか」

ユフィの言葉を遮って、ザインが言う。

ザインの瞳に宿るのは、怒りでも憎悪でもなかった。ただ、深く、静かに沈んだ影。

「攻撃魔法を使う女。それは、枢機卿たち原理派にとっては、存在自体が神への冒涜だ」

ユフィの眉がわずかに動いた。

「枢機卿が、原理派……?」

王城での会合の際、最後まで王に反論していたヘルベルト枢機卿。

「やつは、教義を都合よくねじ曲げる。女が攻撃魔法を使うなど“神の理”に反すると信じて疑わない。お前がどれだけの功績を上げようが、あの男にとっては関係ないんだ」

ユフィはぎゅっと拳を握りしめた。

「そんな、滅茶苦茶な……!!」

「分かってる。俺だって、あの命令には納得してない」

ザインは唇を噛み、目を伏せる。

「本来、バレンシア教はそんな排他的な組織じゃなかった。命を尊び、苦しむ者を癒すことこそが……神の御心に適うはずだったんだ。だが今の上層部は、違う。奴らは異端と見なした者を、どんどん切り捨てている」

その言葉の重みが、ユフィの胸に沈んでいく。

「ユフィ・アビシャス。……お前の存在は、教会にとって異端の象徴だ」

ユフィは、言葉を失った。

一方、キャサリンが縛られたまま、苦しげに呻いた。

「ユフィさん……こんな理不尽、許しちゃ……ダメですの……」

キャサリンの声に、ユフィの心に怒りが芽生えた。

それは理不尽に対する怒り。 自分の存在否定されたことへの怒り。

そして何より、友達を傷つけられた怒りだった。ゆっくりとユフィは顔を上げ、ザインに尋ねる。

「……なぜ、キャサリンさんを巻き込んだんですか?」

「人質として妥当だったってだけだ」

静かに告げられたその言葉は、あまりにも冷酷だった。

「君をその場で排除するのは、現実的じゃない。なにせ、攻撃魔法の威力が常軌を逸しているからな。だから、君自身に手を出さずとも、君が守りたいと思う相手を狙う。それが、最も確実な方法だった」

淡々と語る声音に、ぞくりと背筋が凍る。

「それにここは、お前の生まれ故郷だ。お前の実家も、すでに調べはついている。……いいか、もしお前が『自害』を拒めば、両親の命もないと思え」

「……ッ!」

脳天を殴られたような衝撃に、ユフィは息を呑んだ。目の奥が、ぐらりと揺れる。

(パパとママが……!?)

血の気が引いていくのが自分でもわかった。

思考が真っ白になりそうになるのを、必死に噛みしめて耐える。

しかし胸の奥底から湧いてきた感情は焦りでも焦燥でもなく──業火のような怒りだった。

(キャサリンさんを傷つけて、両親まで脅して。私が死ぬのをよしとして、それで全て解決するつもり……?)

どうして。

どうして、こんなにも自分勝手なんだと、怒りしか湧いてこない。

「もし……キャサリンさん、そして私の両親を、本当に傷つけたら……」

声が震える。

けれど、目はしっかりと据わっていた。

握りしめた拳には、確かな力がこもっている。

「──バレンシア教もろとも、吹き飛ばします」

その言葉に、ザインが眉をぴくりと動かした。

「……本気か? 国を敵に回すんだぞ?」

「それがどうしましたか?」

ユフィの声は静かに、そして凍るように冷たかった。

「私の攻撃魔法が、この国ひとつ相手取れることくらい、ザインさんが一番よくわかってるんじゃないですか?」

呻くような沈黙が、場を包んだ。

それは、自分勝手な理由で大切な友達を傷つけ、亡き者にしようとする者たちに対する、怒りそのものだった。

ユフィの瞳は、炎を宿していた。

守るべきもののためなら、すべてを焼き尽くす覚悟を秘めて。

「ユフィさん……」

縛られた椅子の上で、キャサリンがか細く呟いた。

部屋の空気が張り詰め、誰も言葉を発せぬまま、数秒の沈黙が流れる。

緊張は極限にまで高まり、次の瞬間、爆発するかのように──。

「あああああああああああ!! もうっ! やってられっか!!」

呻くような怒声が空間を突き破った。

激情のままにその辺にあった机を蹴ったザインは、乱れた呼吸を抑えることもせず頭をかきむしった。

肩を荒々しく上下させながら、天井を仰いでザインは叫んだ。

「……俺だって、こんなことしたくねぇよ……!」

震える声が、石造りの壁に反響し、いくつもの呻きとして跳ね返る。

「理不尽なのはわかってる。あいつらの命令なんて、正気の沙汰じゃない……けどな……!」

呻き混じりに吐き出される言葉。その奥には、張り裂けんばかりの葛藤が渦巻いていた。

「背いたら……俺だけじゃ済まないんだよ。俺が罰を受けるなら、まだマシだ。でも、そうじゃない。連中は、俺の部下を、家族を……まるでゲームの駒みたいに、見せしめにして処分するんだ」

拳を強く握り締めたその指は白く変色し、爪が手のひらに食い込んでいるのがわかる。

血が滲む寸前だった。

「何の罪もない人間が、ただ俺の関係者ってだけで殺される。それが、今の教会のやり方だ」

歪んだ笑いすら浮かべて、呻くように呟くその姿は、怒りと恐怖と罪悪感の塊だった。

ユフィは言葉を失い、目を見開いた。彼の叫びが、今度はユフィの胸を打った。

「ザインさん……もしかして……ずっと、命令に逆らえずに……苦しんでいたんですか……?」

震える声で問うと、ザインがこくりと、弱々しく頷く。

その瞬間、胸の奥から込み上げる何かが、ユフィの全身を満たした。

睫毛を伏せ、唇を噛みしめ、やがてそっと言葉を紡ぐ。

「辛かったんですね……本当は、こんな命令……従いたくなんてなかったんですよね」

その言葉は、囁くようでいて、芯のある響きを持っていた。

静かに、真っ直ぐにザインの胸を打った。ザインの肩が、ぴくりと揺れる。

まるで、不意に心の奥に触れられたかのように。ユフィは俯いたまま、ぽつりと呟いた。

「……私……私の、攻撃魔法のせいで……」

目に浮かぶ涙を拭いもせず、うつむいた頬が、震えていた。

「私がこんな力を持ってるから……皆が怖がって、敵視して……利用しようとして……キャサリンさんも、ザインさんも……こんな思いをしなくちゃいけなかったなんて……」

その声は、か細く、けれど確かな悲しみに満ちていた。

(自分の力が、人を傷つけている──)

そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

何も望んでいなかった。ただ人を癒やしたかっただけなのに、自分に与えられたのは攻撃魔法。

なんで? どうして?

と自答を重ねるも、その答えは見つからない。そのモヤモヤがさらにユフィの胸を苦しめた。

聖女になりたい。

そう心から願っているのに、どうしてこんなふうに人を苦しめてしまうのだろう。

そう思うと、涙が止まらなくなった。

そんなユフィに向き直り、ザインは静かに、首を横に振った。

「違う」

その一言は、鋭くも優しかった。

否定するでも、怒るでもなく、まるでその罪を抱えるなと諭すような響きだった。

「君のせいじゃない。断じて、違う。……全部、教会の上層部が腐ってるせいだ」

静かに、けれどはっきりと。

ザインはそう言い放ち、唇をきつく結んだ。

「……連中は……魔王共と繋がってる。ずっと、裏で」

「教会が、魔王と……?」

ユフィは息を呑み、呆然としたままザインを見上げた。

信じたくない、けれど否定もできない、そんな表情だった。

ザインは目を逸らさず、ゆっくりと頷いた。

「ああ。癒着してる。……長年かけて、少しずつ深く、巧妙に。表向きは聖なるバレンシア教のまま……だが、裏ではすでに利権と恐怖に取り憑かれた化け物だ」

冷たい怒りが、彼の言葉に滲んでいた。

「魔王と教会。普通なら相容れない存在だ。だが、奴らは手を組んだ。表と裏の両方から、この大陸を支配するために」

ユフィの背筋に、ぞくりと悪寒が走る。

「魔王は、直接攻め込まずとも、人の社会を壊せる。教会は、民の信仰を利用して、好き放題に操れる。そして両者は、互いの存在を敵に見せかけて、陰で取引し合ってる。……人々の命や資源を、利益として」

まるで悪夢のような構図だった。

聖女として憧れ、仕えたかった教会が、人々の心の拠り所であるはずの信仰が。

実は魔王と手を組み、裏で世界を牛耳っていたなんて。

(そんな……)

思考が凍りついたような感覚の中で、ユフィはゆっくりと顔を上げた。

眉を寄せ、瞳に光を宿す。

「それじゃ……」

再び、自らの足で立ち上がろうとする意志が、その目に灯っていた。

「……魔王がいなくなればいいってことですよね?」

きっぱりとしたその言葉に、部屋の空気がぴたりと止まった。

ザインは、一瞬、目を細めた。

まるでその言葉の意味を測るように、慎重な沈黙ののち、静かに頷いた。

「……確かに、そうなれば、あの連中は後ろ盾を失う。今の教会上層部が好き放題できるのは、魔王から資金と情報を得ているからだ。教会単体じゃ、もう国や軍には勝てない。……魔王を失えば、教会の腐敗は急速に瓦解するはずだ。表沙汰になれば、民の信仰も一気に剥がれる」

それは、破滅のシナリオだ。

偽りの信仰に縋ってきた者たちが、自らの欲望で招く終焉。

だが、それは同時に、唯一の突破口でもあった。

「なる、ほど……」

ユフィは頷いて、一歩、前へと進み出て言った。

「それじゃあ、私が魔王を討伐すれば万事解決ですね!」

……。

…………。

………………。

「は?」

ザインの素っ頓狂な声が、これまで重い空気に沈んでいた部屋に弾けた。

◇◇◇

ミリル村から合宿所への帰路。濡れた土道に、三人の足音が重なる。

雨上がりの夜気は冷たく、濃い霧が足元を這っている。

夜空にはまだ分厚い雲が残り、月明かりも星の瞬きも届かない。

そんな空気を切り裂くような声が響き渡る。

「お前、正気か!? 魔王を倒すだなんて……それも、お前一人でだと……!?」

先頭を歩くユフィに向かって、ザインが噛みつくように言った。

その顔には、呆れと怒り、そして恐怖が滲んでいた。

「本気で言ってるなら、今すぐにでも頭を冷やせ。魔王を倒すなんて、そんな軽々しく口にしていいものじゃない」

それまで少し距離を取って黙っていたキャサリンが、ユフィの隣で小さく肩をすくめておずおずと言う。

「そ、そうですわ……正直、何が起こってるのかよくわかりませんけど、魔王を倒すなんて、無茶苦茶なことを言っているのはわかりますの!」

キャサリンの視線は、ちらりとザインへ向く。

そして、またすぐ逸らされた。

歩きながらも微妙に距離を保っているキャサリンは無意識のうちに、ユフィに隠れるように歩いていた。

無理もない。

つい先ほどまでキャサリンはザインに縛られ、人質にされていたのだから。

一方のザインは、ユフィを説得するように言葉を紡ぐ。

「魔王はな、理屈が通じないんだ。王国の軍が何万と動いても、歯が立たなかった。たった一度の魔法で山脈を崩し、城塞都市を燃やし尽くした。あれはもはや災害だ。自然災害のように、人間の力じゃどうにもならない」

その声音には、心の底から染み付いた恐怖が滲んでいる。

かつて、魔王の爪痕を間近で見た者の声だった。

「あれに立ち向かって、生きて帰った者なんて、俺は聞いたことがない」

霧の中を歩きながら、ザインはぽつりと続けた。

「それでもやると言うのか? ユフィ・アビシャス」

問いかけたところで、合宿所の門扉が見えてきた。

どこで、ユフィがふいに足を止める。

ザインも足を止め、試すようにまっすぐにユフィを見据えていた。

「はい……やります」

ユフィの表情は、迷いを含んでいなかった。

瞳には静かに燃えるような決意と、どこかあどけない純粋さが混じっている。

「……私は、みんなを守りたいんです」

ぽつりと、けれど力強くユフィは言った。

その声音には、重さがあった。

軽々さはない。

並々ならない覚悟を持った者の声だった。

「このままだと、家族にも、学校のみんなに危害が及んでしまう……それも、私のせいで」

ユフィの目が、痛々しげに伏せられる。

「だから……私が戦います。魔王を倒せば教会からの攻撃がなくなると言うのなら、魔王だって倒してみせます」

そこで言葉を切り、にっこりと晴れやかな笑顔を浮かべてユフィは言った。

「それに、大丈夫ですよ」

ぱん、と小さく拳を打ち合わせ、ユフィは胸を張る。

「私、強いですから」

あまりにも堂々としたその宣言。

キャサリンが「ユフィさん……」と声を漏らす。

その言葉には憂慮が浮かび、瞳には感情が溢れそうになっていた。

一方、ザインは口元を引き結び、何かを言いかけた。

しかしその前に、ユフィが一歩踏み出して言った。

「もし、魔王を本当に倒せたら……その……枢機卿さん? のことは、なんとかしてくれるんですよね?」

「あ、ああ……」

ザインは、僅かに目を見開き頷いた。

「約束する。魔王を倒せたら、その時は、俺が責任を持って、ヘルベルトをなんとかする」

「よかった」

ぱあっと笑って、ユフィは頭を下げた。

「お願いしますね。じゃあ、行ってきます!」

「ちょ、ちょっと待て、もう行くのか?」

慌てて声をかけるザインに、ユフィはくるりと背を向けて言う。

「はいっ、善は急げですから! 寮で支度したら、すぐに出ようと思います!」

そう言い残すと、ユフィは石畳を軽やかに駆けていった。

背筋は真っ直ぐで、足取りには一片の迷いもない。

その背を、ザインとキャサリンはしばし黙って見送っていた。

静かな夜風が、木々の葉を揺らし、遠ざかる足音をかき消していく。

そんな中、キャサリンは小さく息を吸った。

両手を握りしめ、まっすぐにユフィの消えた方向を見据える。

その表情にはまだ緊張の色が残っていたが、瞳には何かを決意する炎が灯っていた。

◇◇◇

合宿所の自室。

夜の帳が窓の外に降りる中、ユフィはひとり、荷造りにいそしんでいた。

「マントよし、着替えよし、非常食も忘れずに……」

部屋の隅に広げたリュックの中に、次々と物を詰め込んでいく。

その様子はまるで、明日から遠足に出かける小学生のようだ。

「あと、包帯と、いざというとき用のゴボウは多めに持っていったほうがいいかも。お腹空いたときに食べたら元気出るし」

リュックの中でごそごそと音が鳴る。

持ち物を一つ一つ確認するたび、小さく頷き、必要な物が揃っているか何度もチェックしていた。けれど、その動きがふと止まる。

「……魔王、かあ……」

ぽつりと呟いた言葉が、部屋の静寂に溶けていく。

正直、怖い。

今まで何度も戦ってきた。

魔獣は数えきれないほど消し飛ばしてきたし、魔王の次に最強と呼ばれる魔人も相手にしてきた。でも──。

「……魔王って、魔の中では一番強いんですよね。どれだけの魔力を持ってるんだろう……私の攻撃、通じるのかな……」

ユフィは机の端に腰かけ、リュックを胸に抱いた。

今まで倒してきた魔人たちは、たしかに強敵だった。

だが魔王はきっと、その遥か先にいる。どんな攻撃を仕掛けてくるのかわからない。

どれだけの力を秘めているのかも測れない存在。

「でも……」

ユフィはそっと目を閉じた。

その奥に浮かんでくるのは、仲間たちの笑顔。

ライル、エリーナ、ジャック、エドワード。そしてキャサリンや、ノア……。

「怖いけど、それでも……守りたい……」

ユフィの口元に、小さく微笑が浮かぶ。

たとえ自分の魔法が通じなかったとしても。

たとえ相手が、どれほど恐ろしい存在だったとしても。

──自分が戦わなければ、誰が戦うのか。

その想いが、ユフィを支えていた。

震える足に力を込め、リュックの紐をしっかりと締める。

「よしっ、準備完了!」

ぱん、と手を打ち鳴らし、立ち上がる。

身体は軽い。

けれどその心は、誰よりも重い使命感で満たされていた。

そして、部屋の扉を開け廊下を軽やかに進む。

合宿所のエントランスが近づく。

扉の向こうには、深い夜の静寂。

その向こうに、魔王城という未知が待っている。

「……って、そういえば、魔王城ってどこにあるんだっけ?」

今更すぎることを言って、ユフィが扉の取っ手に手をかけた、その瞬間。

「──どこへ行くつもり?」

聞き覚えのある声が背後から響いた。

ユフィは、はっと振り返る。

そこに立っていたのは──ライル、エリーナ、ジャック、そしてエドワードだった。

四人はまっすぐにユフィを見据えていた。

誰一人、笑ってはいなかった。

「み、みなさん……どうして……?」

驚きと戸惑いが入り混じった声が、思わずユフィの唇から漏れる。

どうしてここに?

と思った次の瞬間、その疑問にライルが答えた。

「キャサリンから話を聞いたよ」

優しくも真剣なその瞳がユフィをまっすぐ見つめている。

「君が、何をしようとしているのか。教会のことも、魔王のことも。そして、君が一人で、魔王を倒しに行こうとしているってことも」

ユフィは息を呑んだ。

「キャサリンさんが……」

なぜ、と言いかけた心の声を仕舞い込む。少し考えればわかることだ。

一人で魔王を討伐しにいくというユフィが心配で、ライルたちに助けを求めたのだろう。

「……はい。私は、魔王を倒しに行きます」

観念したようにユフィは言った。

リュックを背負い直し、真っ直ぐに彼らを見つめて言う。

「でも、ご心配には及びません。すぐ帰ってきます。ほんの少し、悪い奴をやっつけてくるだけなので……!」

軽口を交えたつもりだった。

けれど、その声は震えていた。

強がるユフィの姿に、誰もがほんの一瞬、胸を締めつけられた。

そんな中、ライルがふっと歩み出る。

「……なら、俺たちも同行するよ」

「えっ……!?」

ユフィの瞳が大きく見開かれた。

「だ、だめですよ! 何言ってるんですか!?」

慌てて手を振り、全力で否定する。

「そんなの、危険すぎます! 皆さんにまで巻き込むわけには、これは、私が勝手に始めたことであって……」

「足手纏いになると思うがな」

低い声が背後から重なる。ジャックだ。

相変わらずの無愛想な顔つきで、ポケットに手を突っ込んだまま言う。

「だが、雑魚モンスターくらいは倒せる。道中の負担を減らす程度には、役に立つだろ」

「右に同じく」

ライルが言った後、続いたのはエドワード。

「俺は魔王城の場所や構造に詳しい」

眼鏡をクイッと上げながら、冷静な口調で言い添える。

「昔、趣味で古文書の研究で魔王城の資料を調べたことがある。罠や構造、魔物の配置にも予測が立てられるはずだ」

「回復魔法なら任せて」

最後に、エリーナが一歩前に出てきた。

その細い指には、癒しの光がうっすらと灯っている。

「ユフィちゃんを回復させるくらいなら、十分できる。怪我をしても安心よ」

四人はそれぞれの役割を語りながら、ユフィの前に横並びになった。

それでもユフィは、苦しげに俯く。

「……でも、でも……私が一人で行けば、みんなが傷つかずに済むのに……」

「ユフィ」

ライルは一度、仲間たちを振り返る。

すると三人は、当然のように頷いた。

そしてライルはユフィに向き直って、優しげな声で言った。

「俺たち、ユフィの友達だろう?」

ライルの言葉に、ユフィはハッとする。

「友達の危機に黙っているなんて、そんなの出来るわけないじゃないか」

エリーナも、エドワードも、ジャックでさえも、ひと言の否定もなく頷く。

その光景を前にして、ユフィの胸に、なにかがせり上がった。

「みなさん……」

ユフィの声が、かすかに震える。

目の奥にじんわりと熱が滲んだ。

まぶたの裏に溜まっていくものが、涙だと気づいた時には、もう遅かった。

──ユフィちゃん、いつも一人だね。

幼い頃、何気なく投げかけられたその言葉。

悪意はなかった。ただ、事実として突きつけられただけ。

それが、どれほど深く彼女の胸を抉ったか、ユフィしか知らない。

小さな背中に刻まれた孤独の烙印。

だからユフィは、決めたのだ。

聖女様になろう、と。

誰もが振り向く存在になれば。

特別で、ちやほやされて、愛される存在になれたら。

きっと、寂しくなんか、なくなるはずだと。

最初の動機に、多少の下心がなかったわけじゃない。

憧れられたい、認められたい、ちやほやされたいと思った。

けれど、その根底にあったのは、ただひとつの願いだった。

──友達が、欲しかった。

心から笑い合える誰かが、自分の隣にいてくれたなら。

あの一言は、もう聞かなくて済む。ひとりぼっちは、もう嫌だった。

そのために、魔法学園に入った。回復魔法は苦手だった。

何度も何度も、失敗して、落ち込んで。だけど、攻撃魔法だけは、誰にも負けなかった。

だから、使った。

誰かの役に立てるならと、何度も何度も、全力で撃った。

そんな中で出会えて、ライルたち生徒会のメンバーたち。

やっと友達と呼べる存在ができた、そう思えた。

でも。

それでも、どこかでずっと不安だった。

彼らは便利だから自分と一緒にいてくれるんじゃないか?

攻撃魔法が役立つから、一時的に必要とされているだけなんじゃないか?

そんな猜疑心が、心の隅でくすぶっていた。

以前、ライルはそうじゃないと言ってくれたが、それでもどこか不安だった。

なのに、今。

自分の命を懸けた無謀な行動に、友達だからついて来たいとライルたちは言ってくれた。

自分のために、危険な道を共に行こうとしてくれている。

その事実はユフィにとってあまりにも、嬉しすぎた。

胸の奥から込み上げてくる感情が、喉をぎゅっと締めつける。

「ありがとう、ございます……」

ぽつりと、声がこぼれた。涙が、頬を伝って零れ落ちる。

そのしずくが、地面に落ちるより早く彼女は、頭を下げた。

「皆さん……よろしくお願いします!」

その言葉に、ライルが力強く頷く。

「ああ、一緒に魔王を倒そう!」

エリーナは、両手を広げて満面の笑みを浮かべる。

「任せて!」

仲間たちの声が、まるで祝福のように夜空に響いた。

かつて一人だった少女が、今、確かに誰かと共に歩き出そうとしていたのだ。

◇◇◇

「それじゃあ、魔王城に行くと決まったことだし、いつ行こうか……」

少し緊張をほぐしたように、ライルが肩を回しながら言葉を切り出すと。

「エドワードさん、魔王城の場所はわかりますか?」

遮るように、ユフィが声をあげる。

「ああ。おおよその場所はわかるぞ」

エドワーがド頷いた、次の瞬間。

「じゃあ皆さん、今から魔王城に行きましょうか」

「「「「え?」」」」

声を揃えた驚きが、あまりに見事に重なった。

空間そのものが一瞬静止したかのような空気。

次に動いたのは、誰でもないユフィだった。

「さっさと魔王を倒して、朝までには帰ってきましょう!」

満面の笑み。

決意というより、ちょっとした買い物にでも出かけるかのようなテンションで、ユフィは拳をぐっと握った。

「いや、そんな朝飯前の体操じゃあるまいし……」

ジャックが思わず突っ込む。

──魔王城の攻略。

それは、王国が何年もかけて軍を動かし、犠牲を払い、ようやく近づけるかどうかという、国家的な一大プロジェクトである。

魔獣の群れ、罠まみれの空間、魔王直属の魔人たち。

それらすべてを突破するために、何度も作戦会議が行われ、討伐隊が送り込まれては、そのたびに壊滅してきた。

それを。この少女は。

「朝までに倒して帰ってくる」と、平然と言ってのけたのだ。

まるで、隣町のパン屋に立ち寄るくらいの気軽さで。

狂っている。

だが、それがユフィ・アビシャスという存在だった。

「時間もないので、行きますね! シャロン先生に怒られるのも嫌ですし!」

「ちょっ……待ってユフィ!?」

「│ゲイル・グライド《疾風滑翔》!!」

ライルの言葉を遮るように、ユフィは両手をぱっと広げて言った。

次の瞬間、猛烈な風が地を巻き上げた。

「わっ!?」

「うおおおおおお!!!」

「きゃあああああああ!!!」

「エドワードさん! どっち行けば良いですか!?」

「むむむ向こうの方向だー!! たぶん、あの山脈の先だーー!!」

ユフィが展開した風魔法は、数人を一度に持ち上げてなお余りある暴力的なまでの推進力を持っていた。

身体がふわりと浮き、次の瞬間にはまるで大砲のようなスピードで空へと吹き飛ばされていく。

地面がどんどん遠ざかる。

木々の上空、雲の切れ間。星空の下で、ユフィの声が弾けた。

「さあっ! 魔王城へレッツゴーです!!!」

ユフィの笑顔だけが、なぜか、やたらと眩しかった。