作品タイトル不明
第二十七話 公開査問の前夜
公開査問の前夜、冬鈴館は驚くほど静かだった。
大きな事件の前には、かえって日常の音がはっきり聞こえる。
マーサが鍋の火を弱める音。ハンナが廊下の毛布を整える音。ミレーヌが紙を束ねる音。リュシーが布兎に小さな声で話しかける音。
私は査問で使う資料を確認していた。
王立移管令。
王立療養院東棟の温度記録。
標準毛布と防寒靴の契約書。
リリアの宣誓書。
ギルベルトの証言書。
子どもたちの会議記録。
分散型療養室の実証記録。
白い机の部屋の失敗報告。
リュシーの言葉。
紙は多い。
でも、明日語るべきことは一つだ。
子どもの部屋を、本人の名前ごと守ること。
アルノルトが扉を軽く叩いた。
「入っても?」
「どうぞ」
彼は温かい茶を持っていた。
「あなたが眠る札をリュシー様から預かりました」
見ると、小さな寝台の札が茶盆に置かれている。
「娘に監視されていますね」
「家族の監査です」
私は笑い、茶を受け取った。
アルノルトは机の上の資料を見た。
「明日、あなたはエルミーヌ公爵夫人と直接対立することになります」
「避けられません」
「彼女は強い」
「知っています」
「あなたも強い。だから、折れないように支える必要があります」
その言い方に、私は少しだけ首を傾げた。
「折れないように?」
「強い人は、折れるまで立っていることがあります」
返事に困った。
彼は私の隣に座った。
「ノエリア様。明日、あなたは子どもたち全員の母として話す必要はありません」
「でも、代表として」
「代表として話すことと、全員を一人で背負うことは違います」
彼の言葉は、静かに胸へ入ってきた。
私は長い間、守ることを一人で抱えることだと思っていた。侯爵家を出たあの日、リュシーを抱いて馬車に乗った時、私一人でこの子を守るのだと決めた。
それは間違いではなかった。
あの時は、そうしなければ娘は守れなかった。
けれど今、冬鈴館には多くの手がある。
ハンナ、マーサ、ミレーヌ、アルノルト、セドリック、ギルベルト、リリア、保護者たち、子どもたち自身。
守る手は増えた。
「明日、怖いです」
私は初めて口にした。
アルノルトは頷いた。
「はい」
「また、母親が感情的だと言われるかもしれない」
「言われるでしょう」
「リュシーの言葉まで、私が言わせたと言われるかもしれない」
「言われるでしょう」
「腹が立ちます」
「はい」
彼はそこで、少しだけ微笑んだ。
「腹を立てたまま、資料を読みましょう」
私は茶を飲んだ。
温かい。
その後、リュシーの部屋へ行った。
娘はまだ起きていた。布団の中で、目だけがぱっちりしている。
「ねむれない?」
「うん」
「明日のことが怖い?」
「おかあさま、かえってくる?」
「帰ってくる」
「かえってきたら、へやの温度、みる?」
「見るわ」
「アル父さまも?」
「一緒に見る」
リュシーは安心したように息を吐いた。
「おかあさま、あした、これ」
娘は枕元から木札を出した。
冬鈴草の印の下に、たどたどしい字がある。
『へやは、とらない。いらっしゃいは、きく』
私は札を両手で受け取った。
「持っていくわ」
「うん」
「勝手に見せていい?」
「みせていい。リュシー、きめた」
その言葉を聞いて、私は頷いた。
子どもの言葉を使う時こそ、同意が必要だ。
翌朝、王宮へ向かう鞄に、書類と一緒にその木札を入れた。
紙より軽い。
けれど、どの証拠よりも重かった。
眠る前、ハンナが私の髪を梳いてくれた。
嫁いだばかりの頃も、彼女はこうして髪を整えてくれた。あの頃の私は、侯爵夫人として乱れないことばかり考えていた。今は、明日の査問で崩れないためではなく、眠るために髪を梳かれている。
「奥様」
「何?」
「明日、声が震えても構いません」
「それは困るわ」
「困りません。震えた声で正しいことを言う人もいます」
鏡の中で、私はハンナを見た。
彼女はいつもの無表情に近い顔で、けれど目だけは柔らかかった。
「泣いたら?」
「布を出します」
「怒ったら?」
「記録します」
思わず笑ってしまった。
私は一人ではない。
明日の議場に持っていくのは、書類だけではない。この人たちに支えられている時間も、一緒に持っていく。
鞄の中身は、最後にリュシーと一緒に確認した。
「靴」
「入れたわ」
「毛布」
「入れた」
「リュシーの札」
「ここに」
「おやつ」
「それは査問用ではないのだけれど」
リュシーは真剣な顔で小さな包みを差し出した。
「おかあさま、こわいとき、たべる」
中には丸パンが一つ入っていた。
私はそれを鞄の端に入れた。
明日、議場で食べることはないだろう。それでも、娘が私の怖さを少しでも軽くしようとしてくれた印として、持っていく価値があった。
部屋を出る時、リュシーは私に木札を一枚渡した。
『おかあさま、かえってくる』
文字は曲がっていた。けれど、そこに書かれていることは、どの証拠より明確だった。
明日の査問で私が守るのは、制度の勝ち負けではない。娘がこの札を信じて眠れる夜だ。