作品タイトル不明
第二十話 おかあさま、にげる?
移管令公布の翌朝、冬鈴館にはいつもより多くの大人が集まった。
パン屋、洗濯屋、教会の司祭、薬草商、大工、医師会の若い医師、ヴァイス家の管理人、北境出身の馬車職人。みんな不安そうで、けれど帰らなかった。
大広間の壁には、王都の地図が貼られている。
赤い印が冬鈴館。
青い印が、候補となる小部屋。
パン屋の二階は暖かいが、粉塵がある。咳の強い子には不向き。
洗濯屋の奥部屋は湿気が多い。乾燥しすぎる子には良いが、冷え対策が必要。
教会の空き室は広いが、床石が冷たい。
医師会の旧診察室は設備があるが、夜間に人がいない。
どの部屋も完璧ではない。
だからこそ、記録と調整が必要だ。
「七日で全部整えるのは無理です」
若い医師が正直に言った。
「全部ではなく、実証です。三部屋から始めます」
私が答えると、アルノルトが続けた。
「重要なのは、王立移管以外にも公共性を持つ方法があると示すことです」
セドリック兄様は契約書の束を抱えていた。
「貸与契約は簡易形にする。所有権は移さない。運営権も奪わない。部屋ごとに責任者を置き、冬鈴館が療養記録を支援する」
パン屋の妻が手を挙げた。
「うちの二階は使えます。でも、粉の匂いが苦手な子はどうしましょう」
「匂いの確認項目を作ります」
洗濯屋の夫が言った。
「うちは湿気がある。保温布は乾かせるが、寝室には向かないかもしれない」
「昼間の短時間休憩室にしましょう。夜間療養室にしない」
教会の司祭が静かに言った。
「床石には厚い板を敷きます。大工のトマス、手伝っていただけますか」
「やる」
返事は短いが、力がある。
会議が進む中、リュシーは隅の机で木札を作っていた。
ニコとミーナも手伝っている。星、花、人形、靴、パン。新しい部屋に置く札だ。
私は時々、娘の様子を見る。
疲れていないか。手が冷えていないか。咳はないか。
リュシーは真剣な顔で札を描き続けていたが、昼近くになると手が止まった。
「おかあさま」
「どうしたの」
「リュシーのへや、ほかのこも、つかう?」
大広間の会話が少し止まった。
私は娘の前に座った。
「今のところ、リュシーの部屋を他の子の部屋にする予定はないわ」
「でも、へや、たりない?」
「足りない。だから、別の場所に増やしている」
「リュシー、いれてもいいって、いったら?」
その問いは、慎重に扱わなければならない。
娘が自分の部屋を貸したいと言うこと自体は、優しさかもしれない。けれど、大人がそれを当然にしてしまえば、最初のあの朝と同じになる。
「リュシーが誰かを招きたいと思うことはできる。でも、リュシーが眠れなくなる形ではしない」
「いっしょに、ひるね?」
「相手の子も、リュシーも、それで安心できるなら、短い時間ならできるかもしれない」
「よるは?」
「夜は、リュシーの体に大事な時間だから、慎重に決める」
リュシーは少し考えた。
「とられるの、いや。でも、いらっしゃい、は、できる?」
私は頷いた。
「できる。奪われることと、招くことは違う」
リュシーはほっとした顔をした。
「じゃあ、リュシー、いらっしゃいの札、つくる」
その言葉に、会議室の空気が少し柔らかくなった。
大人たちは、また地図へ戻った。
午後、三つの部屋が決まった。
一つ目、教会の板張り部屋。夜間療養可能。
二つ目、パン屋二階。昼間の休息と温かい食事提供。
三つ目、医師会旧診察室。診察と短期観察。
それぞれに名前をつけることになった。
王立番号ではない。
子どもたちが相談して決めた。
教会は「星の部屋」。
パン屋は「丸パンの部屋」。
診察室は「白い机の部屋」。
名前があると、帰る場所になる。
夜、リュシーは疲れて早く布団に入った。
「おかあさま」
「なあに」
「にげない?」
「逃げない。でも、危なくなったら、あなたを連れて逃げる準備はいつでもする」
「それ、いい」
「いいの?」
「うん。にげるの、わるくない。でも、きょうは、ひろげる」
娘の言葉に、私は少し笑った。
「そうね。今日は、広げる」
私は部屋の温度を確かめ、台帳に書いた。
『移管令まで九日。三部屋、開始準備』
逃げるだけではない。
守る場所を、増やす。
深夜、私は一人で地図を見直した。
逃げる道も、同じ地図に書き込んだ。冬鈴館が強制封鎖された場合、リュシーをどの馬車に乗せるか。薬箱は誰が持つか。北門が閉じた時の迂回路はどこか。
広げるための計画と、逃げるための計画。
どちらも同時に置いておくことに、少し後ろめたさがあった。
アルノルトが部屋に入ってきて、地図を見た。
「必要です」
「逃げる準備をしていると、負けを考えているようで」
「違います。子どもを守る選択肢を減らさないだけです」
彼は北門の横にもう一本の線を引いた。
「この道は、雪が少なければ使えます」
私は頷いた。
逃げることは悪ではない。
立つことも悪ではない。
どちらを選ぶかを、大人が冷静に決められるように、準備しておく。それもまた、部屋を守る仕事だった。