作品タイトル不明
第十四話 公爵夫人の冷たい笑顔
公開実験の報告書を提出して三日後、エルミーヌ・グランヴェル公爵夫人から招待状が届いた。
場所は、グランヴェル公爵邸。
名目は、冬季療養制度後援会の茶会。
私は最初、断るつもりだった。だが、マリア第一王女から短い添え状が来た。
『彼女が何を守ろうとしているかを見てください』
守ろうとしている。
その言葉が気になった。
グランヴェル公爵邸は、王都の北側にある大きな屋敷だった。白い石壁、黒い鉄柵、完璧に整えられた冬の庭。客間は暖かいが、装飾は少ない。花も、絵も、子どものものも見当たらない。
エルミーヌ公爵夫人は、窓辺に立っていた。
「ようこそ、ノエリア様。冬鈴館の公開実験は評判ですわね。大人を寝かせるとは、なかなか大胆ですこと」
「大人が体験せずに子どもへ押しつけるよりはよいと思いました」
「あなたは、言葉を柔らかく包まない方なのね」
「必要な時だけです」
茶は美味しかった。
けれど、部屋には生活の匂いがない。カップも椅子も完璧に整っているのに、誰かがここでくつろいだ跡がない。
エルミーヌ公爵夫人は、私の視線に気づいた。
「この部屋は、以前は子ども部屋でした」
私はカップを置いた。
「そうでしたか」
「息子が一人おりました。七歳で亡くなりました」
声は乱れなかった。
その静けさが、かえって痛かった。
「冬の熱でした。私は暖かくしようとして、毛布を重ね、暖炉を強くし、窓を閉めきった。医師は到着が遅れました。息子は息苦しさを訴えていたのに、私は寒いのだと思った」
窓の外で、風が枝を揺らした。
「それから、私は母親の感覚を信じなくなりました」
彼女は私を見た。
「あなたを見ると、昔の自分を思い出します。子どもの体を自分だけが分かると思い込む母親。部屋を、毛布を、食事を、手放せなくなる母親」
「私は自分だけが分かるとは思っていません」
「でも、国に手渡さない」
「国が聞かないからです」
エルミーヌ公爵夫人は静かに笑った。
「国も母も、間違える。ならば、個人の感情を排し、標準に従う方が被害は少ない」
「標準も間違えます」
「標準なら修正できます。母の愛は、誰にも止められない」
その言葉は、ただの冷たい理屈ではなかった。
彼女の中には、息子を失った部屋が今も残っている。暖かくしようとして、息苦しくしてしまった部屋。自分の判断を二度と信じないと決めた母親の部屋。
だからといって、彼女のやり方を受け入れることはできない。
「公爵夫人」
「何かしら」
「あなたが自分を疑ったことは、分かります。けれど、あなたがすべての母親を疑う理由にはなりません」
彼女の指がカップの縁で止まった。
「あなたは、ずいぶん残酷なことを言うのね」
「はい」
私は認めた。
「でも、あなたも私の娘を母から離すよう求めました」
しばらく沈黙があった。
エルミーヌ公爵夫人は窓の外を見た。
「リュシー様を傷つけたいわけではありません」
「知っています」
「あなたの冬鈴館を壊したいわけでもない」
「それでも、壊れます」
「私の案が通れば、もっと多くの子どもを救える」
「名前を消してですか」
「名前があっても死ぬ子はいます」
「番号でも死にます」
彼女は私を見た。
冷たい笑顔が、少しだけ消えていた。
「では、あなたはどうするのです。すべての母親を信じる? すべての子どもの嫌を聞く? それで冬が越せると思う?」
「いいえ」
私は答えた。
「だから記録します。母親だけに任せず、専門職だけにも任せず、子どもの言葉も、体の数値も、部屋の温度も、全部一緒に見る仕組みを作ります」
「理想論ね」
「初めはそうかもしれません。でも、あなたの標準化も、最初は誰かの理想だったはずです」
茶会は短く終わった。
帰り際、エルミーヌ公爵夫人は私に一枚の古いカードを見せた。
そこには幼い文字で、名前が書かれていた。
ルシアン。
「息子の木札です」
彼女はすぐにカードをしまった。
「私は、これを壁に戻せませんでした」
私は何も言えなかった。
馬車に戻ると、胸が重かった。
敵にも部屋がある。
失われた部屋。
冷えきった部屋。
だからこそ、戦いは簡単ではない。
けれど、彼女の悲しみを理由に、リュシーの部屋を明け渡すことはできない。
家に戻ると、リュシーが玄関で待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「さむかった?」
「少し」
リュシーは私の手を握った。
「じゃあ、スープ」
台所から、マーサのスープの匂いがする。
私はその匂いを吸い込み、ようやく息が戻るのを感じた。
守るべき部屋に帰ってきた。
だからまた、明日戦える。
夕食の後、私はリュシーの髪を梳きながら、公爵夫人の話を少しだけした。
「昔、子どもを亡くした人がいるの」
「なくした?」
「ええ。だから、子どもを守る方法をとても怖がっている」
リュシーは鏡の中で私を見た。
「こわいと、へや、とる?」
「怖いから、そうしてしまう人もいる。でも、してはいけない」
「こわいって、いう?」
「言えたら、部屋を取らずに済むかもしれないわね」
娘はしばらく考えた。
「じゃあ、おとなも、こわい、いっていい」
「そうね」
「でも、リュシーのへや、とらない」
「ええ。それは別」
子どもの言葉は、時々、長い議論より正確だ。
怖いと言っていい。
だからといって、誰かの部屋を奪っていいわけではない。
明日の台帳に、その一文を書こうと思った。