作品タイトル不明
第四話 ギルベルトの古い鍵
王立療養院の視察から戻ると、冬鈴館の門前に見慣れた馬車が停まっていた。
レーヴェルト侯爵家の紋章。
以前なら、その紋章を見るだけでリュシーの指が冷たくなった。今は少し違う。娘は月に一度、父親と会う。短い面会だが、ギルベルトは遅刻しなくなった。話す前にリュシーの体調を聞くようになった。帰る時には、次に来る日を書いた小さなカードを渡す。
それでも、紋章には過去の冷えが残っている。
私は玄関で外套を脱ぎ、応接室へ向かった。
ギルベルトは立って待っていた。以前より少し痩せたように見える。美しい顔立ちは変わらないが、最近の彼は、整っていることに頼らなくなった。
「急に来てすまない」
「リュシーの面会日は明後日です」
「今日は君に用がある。冬鈴館の件を聞いた」
「噂が早いですね」
「私も社交界にいる」
そう言って、彼は小さな鍵束を机に置いた。
「これは?」
「レーヴェルト家の古い文書庫の鍵だ」
私は眉をひそめた。
「なぜそれを私に?」
「王立医務局長補佐のカミーユ・ロシュは、昔、我が家の医療契約に関わっていた。リリアが療養していた頃の医師紹介、保温石の購入、療養室改修の一部承認。すべて彼の部署を通っている」
私の胸の奥が沈んだ。
あの南翼療養室。
私の持参金で整えた、リュシーの部屋。
それをリリアに明け渡せと言われた時、私は夫だけを見ていた。けれど、部屋を改修するための契約や医師の診断書には、もっと多くの人間が関わっていた。
「つまり、今の移管案と過去の療養室契約に同じ人物がいると」
「そうだ。さらに、王立冬季療養院で使われている標準保温毛布の納入業者は、ロシュ補佐の義弟が経営している商会だ」
ミレーヌが隣でペンを止めた。
「証拠はありますか」
ギルベルトは封筒を出した。
「商会登記の写し、納入契約の控え、我が家に残っていた紹介状。まだ断片だが、つながる可能性はある」
「なぜ、これを持ってきたのですか」
私が尋ねると、彼は視線を落とした。
「二年前の私は、書類を読まなかった」
その声は低かった。
「リュシーの薬帳も、療養室の領収書も、君が何を記録していたのかも読まなかった。リリアの診断書だけを都合よく信じ、君と娘に負担を押しつけた」
彼は鍵束に触れた。
「今回は、読んだ」
応接室の暖炉で薪がはぜた。
ギルベルトの謝罪は、もう何度か聞いている。最初の頃は、聞くたびに腹が立った。謝れば済むと思っているのか、と。今も、完全に許したわけではない。
けれど、今日の彼は謝罪ではなく、行動を持ってきた。
「リュシーには、この件を話しましたか」
「話していない。あの子に不安を与える前に、君へ渡すべきだと思った」
「それは正しい判断です」
ギルベルトは小さく息を吐いた。
以前の彼なら、私に正しいと言われることを嫌がったかもしれない。今は、その言葉を慎重に受け取っている。
「ただし、あなたが冬鈴館の運営へ口を出す権利はありません」
「分かっている」
「寄付や証言を、面会条件と結びつけることもできません」
「分かっている」
「この文書を使うかどうかは、私と冬鈴館の判断です」
「それでいい」
私は鍵束を見つめた。
古い鍵は重そうだった。侯爵家の倉庫に眠っていた紙の束が、今さら子どもの部屋を守る役に立つかもしれない。
「ギルベルト様」
「何だ」
「文書庫を開ける時は、第三者に立ち会ってもらいます。改ざんや持ち出しを疑われないように」
「手配する」
「あなた自身も疑われる可能性があります」
「構わない」
彼は少し間を置いた。
「疑われるべきことをした」
その言葉に、私は返事をしなかった。
過去は消えない。
でも、過去を見ないままでは、同じ冷えがまた別の部屋に入ってくる。
夕方、リュシーが庭から戻ってきた。ギルベルトを見つけると、少し驚いた顔をした。
「おとうさま、きょう?」
「面会日は明後日だ。今日はお母様に用があった」
「リュシー、あしたじゃない、しってる」
「そうだな。覚えていてくれてありがとう」
ギルベルトは膝をついた。
「今日は、これを渡しに来た」
彼は小さな鳥の木彫りを出した。
形は、以前より少し鳥に近づいていた。羽の線が不器用だが、丸い目だけは丁寧に彫られている。
リュシーは受け取って、じっと見た。
「とり、すこし、じょうず」
「練習した」
「うん。すこし」
「ありがとう」
父娘の会話は、まだ慎重だ。
けれど、リュシーは鳥をポケットに入れた。
ギルベルトが帰った後、ミレーヌが鍵束を布に包んだ。
「これで医務局側の動機が少し見えます」
「ええ。でも、利益だけならまだ分かりやすい」
「別のものがあると?」
私は王立療養院の冷たい毛布を思い出した。
「子どもを番号にすることを、正しいと信じている人がいる」
利益を追う人間より、正しさを信じる人間の方が、時に深く部屋を冷やす。
その夜、私は古い鍵束を見ながら、次の台帳を開いた。
証拠台帳。
最初の項目に、ギルベルトが持ってきた鍵と文書の名を書いた。
昔、夫だった人が読まなかった書類。
今度は、誰にも読まれないまま終わらせない。