作品タイトル不明
第五話 アル父さまは戦場へ戻らない
北境からの使者が来たのは、ギルベルトが帰って一刻ほど後だった。
使者は雪焼けした顔の若い騎士で、外套の裾に白い泥がついていた。王都にはまだ本格的な雪はないが、北境ではすでに山道が凍り始めているという。
アルノルトは執務室で報告を受けた。
私は邪魔をしないつもりだったが、扉の向こうから聞こえた言葉に足を止めた。
「砦の第三暖房庫が崩れました」
使者の声は硬い。
「村から避難している子どもが十二名。うち三名は咳が強く、王都への搬送を希望しています。ですが、山道が閉じれば遅れます」
「死者は」
「今のところありません。ただ、兵の疲労が限界です」
アルノルトは短く指示を出していた。馬の交代地点、薬草の手配、北境医師団への連絡。彼の声は静かだが、速い。
私は廊下でリュシーと鉢合わせた。
娘は水差しを抱えている。温室の花に水をやるつもりだったのだろう。けれど、耳は執務室の方へ向いていた。
「アル父さま、いく?」
小さな声だった。
父と呼ぶようになってから、リュシーはアルノルトの不在に敏くなった。彼が辺境伯であり、いつか北へ戻らなければならないことは知っている。だが、知っていることと怖くないことは別だ。
「まだ分からないわ」
「いったら、かえってくる?」
「帰ってくるように約束してもらいましょう」
「やくそく、まもる?」
私は少しだけ返事に詰まった。
約束は、守るためにある。けれど、大人は時々、守れない約束を子どもに渡してしまう。
扉が開き、アルノルトが出てきた。彼はリュシーを見ると、すぐに膝をついた。
「聞こえましたか」
「うん」
「怖くなりましたか」
リュシーは水差しを抱えたまま頷いた。
「アル父さま、いなくなる?」
「今夜は行きません」
アルノルトは即答した。
リュシーの目が少し開いた。
「今夜?」
「はい。今夜はここにいます。明日以降は、北境の状況を見て決めます。ただし、黙って行きません。行く時は、どこへ、何日くらい、誰と行くかを話します」
「かえってくる?」
「帰る努力をします。守れないかもしれない約束は、簡単には言いません。でも、戻るための準備をします」
リュシーはその言葉を考えているようだった。
「じゃあ、かみ、かく」
「紙?」
「かえってくるための、じゅんび」
アルノルトは一瞬だけ目を瞬かせ、それから真面目に頷いた。
「書きましょう」
その夜、食卓のあと、三人で小さな紙を作った。
アルノルトが北境へ行く時の紙。
一、行き先を書く。
二、帰る目安を書く。
三、手紙を出す日を書く。
四、帰ったらリュシーの部屋の温度を見る。
最後の項目は、リュシーが足した。
「どうして部屋の温度なの?」
「かえってきた、わかる」
アルノルトはその一文を丁寧に書いた。
「分かりました。帰ったら、まずリュシー様の部屋の温度を確認します」
「うん。あったかい、した」
私はそのやり取りを見ながら、胸の奥が少し痛んだ。
子どもは、大人の仕事を止められない。
けれど、大人がいなくなる時の説明を求めることはできる。帰ってくるための準備を知ることはできる。不安を置く紙を持つことはできる。
私自身も、それを学んでいる途中だった。
翌朝、アルノルトは北境へ急行するのではなく、王都に残ることを決めた。
「あなたが行かなくていいのですか」
「行けば一時的に兵は安心します。ですが、今は王都で医務局との交渉を進めなければ、北境の子どもたちも王立療養院へ番号で送られることになる」
「北境への支援は」
「副官に権限を委任しました。物資は冬鈴館の工房から保温布を送れるなら助かります。ただ、無理はさせない」
「無理はします」
「ノエリア様」
「必要な範囲で」
彼は少しだけ眉を下げた。
「その範囲を、あなたは広く見積もりすぎる」
「では、あなたが広く見積もりすぎないように見張ってください」
「承知しました」
夫婦喧嘩ではない。
調整だ。
私たちは、支え合うという言葉を甘い飾りにしたくなかった。誰かが倒れるまで頑張ることを、愛とは呼ばない。必要なことを分け、できないことを言い、できる方法を探す。
午後、リュシーは工房で小さな保温布を一枚選んだ。
「これ、きたのこ」
「北の子に送るの?」
「うん。リュシーのじゃない」
私は布を受け取る前に聞いた。
「本当にいい? これはリュシーが好きな柄でしょう」
「いい。リュシー、えらんだ」
「誰かに取られたのではなく?」
「ちがう。リュシー、あげる」
その違いは大きい。
奪われることと、選んで渡すことは違う。
私は布を包み、リュシーの名前ではなく、彼女が言った言葉を書いた。
『寒い子へ。あったかくしてね』
北境行きの荷箱に入れる時、リュシーはアルノルトを見上げた。
「アル父さま、いまは、いかない?」
「はい。今はここで戦います」
「たたかう?」
「子どもの部屋を、勝手になくさせないために」
リュシーは少し考え、頷いた。
「じゃあ、リュシーも、きろくする」
娘は小さな帳面を開いた。
そこには、たどたどしい字でこう書かれていた。
『へやは、きかないでなくしたらだめ』
六歳の字は、少し曲がっている。
けれど、その一文は、北境から届いた緊急報告よりも、王立医務局の移管案よりも、私たちが守るものをはっきり示していた。