作品タイトル不明
第三十五話 溺愛ではなく約束
アルノルトから正式に求婚ではなく交際の申し込みを受けたのは、初夏の雨の日だった。
場所は冬鈴館の応接室。
机の上には、冬鈴館の収支報告書、保温布の改良案、リュシーの昼寝記録が並んでいた。たしかに、この状態で求婚されても予定表に紛れたかもしれない。
アルノルトは、まず書類を片づけるのを手伝った。
それから、姿勢を正して言った。
「ノエリア様。私はあなたを尊敬しています。リュシー様を守るあなたを、冬鈴館を作るあなたを、そして時々自分の食事を忘れるあなたを、放っておけないと思っています」
「最後は欠点では?」
「はい。ですから、支えたい」
私は少し笑った。
彼は続けた。
「今すぐ結婚を求めるつもりはありません。あなたは離縁したばかりで、リュシー様も生活を整えている途中です。私は、まずあなたとリュシー様の許可を得て、家族に近づく練習をしたい」
「練習」
「はい。私は夫にも父にもなったことがありません。分からないことを、分からないと言いながら学びたい」
その言葉は、派手な愛の告白ではなかった。
けれど、私には十分すぎるほど誠実だった。
「私は、溺愛という言葉が少し怖いのです」
私は正直に言った。
「相手の後悔や欲望で急に強く愛されることが、幸せだとは思えません。私は、毎日確認される約束の方がいい」
「では、約束します」
アルノルトは迷わず言った。
「あなたの嫌だという言葉を聞きます。リュシー様の嫌だという言葉も聞きます。必要な時は支え、不要な時は下がります。分からない時は尋ねます」
私は目を伏せた。
胸の奥が、ゆっくり温まっていく。
「私も約束します」
「何を?」
「一人で全部やろうとしない努力をします。嫌なことは嫌と言います。助けが必要な時は、必要だと言います」
「それは大きな約束ですね」
「ええ。私には難しいので」
アルノルトは微笑んだ。
その日、リュシーにも話した。
「アルさまが、これからもっと一緒にご飯を食べたり、お庭の手入れをしたりしたいと言っているの」
「アルさま、ここ、すき?」
「好きだそうよ」
「リュシーのうさぎ、やさしくする?」
「すると思うわ」
リュシーはしばらく考えた。
「じゃあ、ちょっとずつ」
「ええ。ちょっとずつ」
それが、私たちの始まりだった。
燃えるような恋ではない。
毎日、火が消えていないか確かめるような関係。
私には、それが一番温かかった。