軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十一話 侯爵夫人ではないノエリア

冬鈴館の準備が進むにつれ、私は何度も自分の名前を書くことになった。

寄付契約書。

医師会との協定書。

薬草商への発注書。

保温布の試験使用許可。

そのたびに、ペン先が少し迷った。

ノエリア・レーヴェルト。

ノエリア・ヴァイス。

どちらの名を書けばいいのか、法律上の判断は書類によって違う。婚姻関係がまだ残るものはレーヴェルト姓で、実家の財産に関わるものはヴァイス姓で。ミレーヌ書記官が丁寧に教えてくれた。

けれど、心の中ではもっと単純だった。

私はもう、侯爵夫人として生きていない。

朝起きて最初に気にするのは、侯爵家の晩餐の席順ではなく、リュシーの体温だ。夫の機嫌ではなく、暖炉の灰。リリアの薬ではなく、冬鈴館に来る子どもたちの寝台。

ある日、王都の銀行で持参金特別口座の手続きをした時、若い窓口係が書類を見て言った。

「レーヴェルト侯爵夫人、ご確認を」

私は返事をしようとして、少しだけ言葉が遅れた。

それに気づいた兄セドリックが、隣で淡々と言った。

「ヴァイス伯爵家のノエリアだ。現在、離婚調停中である。呼称はノエリア様でよい」

窓口係は慌てて頭を下げた。

「失礼いたしました、ノエリア様」

その呼び方を聞いた瞬間、肩から何かが落ちたような気がした。

私はただのノエリアでいい。

誰かの妻である前に、自分の魔法で仕事をする一人の人間でいたい。

帰りの馬車で、兄が言った。

「ようやく顔色が戻ってきたな」

「そう?」

「ああ。侯爵家にいた頃のお前は、いつも薄い硝子の一枚向こうにいるようだった」

「そんな風に見えていたの」

「見えていた。だが、父が亡くなった後、私は踏み込めなかった。政略結婚に出した家の責任を、私も軽く見ていた」

兄は珍しく、自分の非を口にした。

「すまなかった」

私は窓の外を見た。

王都の通りには、雪解けの水が光っている。

「兄様が馬車を出してくれたから、今こうしています」

「それだけで帳消しにはならない」

「では、これから働いてください。冬鈴館の保証人として、たくさん署名が必要です」

兄は少しだけ笑った。

「人使いが荒くなったな」

「練習中です」

温室館に戻ると、リュシーが玄関まで走ってきた。

「おかえりなさい、ノエリアさま!」

私は目を丸くした。

後ろでマーサが口元を押さえている。どうやら、私が名前で呼ばれる練習をしていたのを聞いていたらしい。

「リュシーには、お母さまと呼んで欲しいわ」

「おかあさま、ノエリアさま?」

「そう。お母さまの名前がノエリアなの」

「リュシーは?」

「あなたはリュシー」

「リュシー・なに?」

その問いに、私は少しだけ息を止めた。

今の法律上、娘はまだリュシー・レーヴェルトだ。だが、離縁と親権が決まれば、ヴァイス姓を名乗ることもできる。

「あなたが大きくなったら、自分で選べるようにしましょう」

「えらべる?」

「ええ。大事な名前だから」

リュシーは難しい顔で考えた。

「じゃあ、いまは、リュシー」

「ええ。今はリュシー」

娘は満足そうに笑った。

名前は、誰かに縛られるためだけのものではない。

自分で立つためのものでもある。