作品タイトル不明
第十五話 幼馴染の涙は誰のため
リリア・オルセーヌは、自分が泣きやすい女だと知っていた。
幼い頃から体が弱く、少し咳をすれば周囲の大人が慌てた。食が細ければ侍女が甘い菓子を持ってきた。夜会で疲れたと言えば、誰かが椅子を用意した。
泣けば、世界は少し優しくなる。
そう覚えたのは、いつだっただろう。
ギルベルトは昔から不器用な少年だった。感情を言葉にするのが下手で、困っている者を見ると、助けることで自分の存在を確かめる。リリアが咳をすれば上着を貸し、寒いと言えば暖炉の近くへ連れていった。
リリアはそれが好きだった。
自分が特別に守られている気がした。
ギルベルトがノエリアと結婚した時も、頭では理解していた。侯爵家の政略結婚だ。ノエリアはヴァイス伯爵家の令嬢で、持参金も多く、家柄もふさわしい。
だが、心は納得しなかった。
ギルベルトは自分を守る人だったはずなのに。
ノエリアは、いつも静かだった。
嫉妬を見せない。怒鳴らない。泣かない。リリアがギルベルトの隣にいても、淡々と茶を出し、薬草を選び、部屋を整える。
その静けさが、リリアには怖かった。
責められているように感じた。
だから、南翼の療養室の話が出た時、リリアは止めなかった。
本当は、別の客間でもよかった。
少し寒いのは苦手だが、命に関わるほどではない。医師も「疲れをためないように」と言っただけで、南向きの特別な部屋が必要だとは言っていない。
けれど、父が言ったのだ。
「侯爵家で大切にされているところを見せなさい。正妻がいても、お前がギルベルト様の心を握っているのだと分からせるのだ」
リリアはその言葉に従った。
従ったのは父のためではない。
自分が選ばれていると感じたかったからだ。
だが、ノエリアは泣かなかった。
娘を抱き上げ、静かに言った。
「では、離縁しましょう」
あの時、リリアの胸に浮かんだのは勝利ではなかった。
恐怖だった。
部屋を奪うことはできても、あの母親の背筋を折ることはできない。そう思った。
ノエリアが去った後、南翼療養室は寒くなった。
暖炉を焚いても、毛布を重ねても、体の芯が落ち着かない。たぶん、部屋そのものの寒さだけではない。自分がそこにいる理由が、冷たかった。
ギルベルトは優しくしてくれる。
だが、その優しさには疲れが混じり始めていた。
「リリア。診断書は届いたか」
最近、彼は何度もそう聞く。
届くはずがない。
父が用意した診断書は、王都の正規医師のものではなかった。男爵家が出入りしている薬師が、曖昧な言葉で書いた紙だ。
暖かい環境が望ましい。
過労を避けるべき。
それだけ。
南翼療養室がなければ死ぬ、などとはどこにもない。
リリアはその紙を引き出しの奥に隠した。
そして、ベッドの上で膝を抱える。
「わたし、どうしたかったのかしら」
ギルベルトに愛されたかった。
守られたかった。
ノエリアに勝ちたかった。
だが、リュシーの部屋を奪いたかったのかと問われれば、答えられない。
リュシーは小さな子どもだ。
自分が寒いと泣くように、あの子も寒ければ苦しいのだろう。
そんな当たり前のことを、リリアは考えないようにしていた。
涙が出た。
いつもの涙だった。
けれど今度は、誰かに見せるためではなかった。