作品タイトル不明
第十六話 嘘の診断書
リリアの診断書の写しが私の手元に届いたのは、アルノルトが動いてくれたからだった。
もちろん、勝手に盗んだわけではない。侯爵家が法院へ提出した医療根拠の確認として、正式に照会がかかったのである。
その写しを見た時、私はしばらく黙っていた。
「これは、診断書ではありませんね」
「薬師の所見書です」
アルノルトは言った。
「王都医師会に登録された医師の署名ではありません。文面も、療養環境の一般的な助言に過ぎない」
紙には、リリアの体質について曖昧な表現が並んでいた。
冷えを避けること。
過度の疲労を避けること。
暖かく静かな環境が望ましいこと。
病弱な人なら誰にでも当てはまるような内容だった。
少なくとも、幼児の療養室を奪う根拠にはならない。
「侯爵様はご存じだったのでしょうか」
ハンナが静かに尋ねた。
「分かりません。ただ、知らなかったとしても、確認せずに娘の部屋を明け渡せと言った事実は残ります」
私の声は硬かった。
ギルベルトが騙されていたかもしれない。リリアが父親に利用されていたかもしれない。そこには同情の余地がある。
だが、リュシーの部屋を奪おうとした責任は消えない。
前世で働いていた時もそうだった。
悪気はなかった。
知らなかった。
そんな言葉で、子どもの発熱は下がらない。
「この書類は調停で使えますか」
「使えます」
アルノルトは頷いた。
「侯爵家側は、リリア嬢の療養の緊急性を主張していました。その根拠が弱いとなれば、リュシー様の療養環境を侵害する正当性はさらに失われる」
「リリア様はどうなりますか」
「虚偽診断書の提出を主導した者が問われます。彼女本人が積極的に偽造した証拠がなければ、まずはオルセーヌ男爵家と侯爵家の家令が調査対象です」
家令ボルク。
彼は侯爵家の実務を握っている。私を軽んじる使用人たちを放置し、時には煽っていた男だ。
「ボルクは、私の持参金口座にも詳しいです」
「でしょうね」
アルノルトは書類を閉じた。
「南翼療養室の設備を目的外使用にしようとしたのは、部屋そのものより、管理権を移すことが目的だった可能性があります」
「管理権?」
「あなたが出資した設備でも、侯爵家の日常使用に組み込まれれば、後で所有権を曖昧にできます。特にあなたが抗議せず使わせ続ければ」
背中に冷たいものが走った。
リュシーの部屋を奪う話は、単なるリリアへの配慮ではなかったのかもしれない。
私の持参金で整えた設備を、侯爵家のものとして取り込む。
そのために、病弱な幼馴染という理由が使われた。
怒りで指先が震えた。
アルノルトはそれに気づいたのか、少し声を低くした。
「今、あなたがすべきことは一つです」
「事実を書くこと」
「はい」
私は紙を取り出した。
リリアの所見書の日付。署名者。医師会登録の有無。侯爵家が主張した緊急性との食い違い。南翼療養室の契約条項。
一つずつ、確実に。
感情を書けば、文書の信頼性が落ちる。
怒りは別の紙に書く。
提出する紙には、事実を書く。
ミレーヌ書記官の言葉を思い出しながら、私はペンを動かした。
書き終えた時、リュシーが部屋へ入ってきた。
「おかあさま、こわいおかお」
「そう?」
「うん」
娘は私の膝に手を置いた。
「ぎゅってする?」
私は一瞬、言葉を失った。
そして、娘を抱きしめた。
「する」
リュシーは満足そうに私の首にしがみついた。
この温かさを守るためなら、私は何度でも書類を書く。
何度でも、事実を積み上げる。