作品タイトル不明
第十話 娘の手を見なかった父
ギルベルトとの最初の面会は、温室館の小さな客間で行われた。
同席者は、法院監察官としてのアルノルト、担当医師、書記官ミレーヌ、侍女のハンナ。リュシーの体調を理由に、時間は十五分だけと決められていた。
私はリュシーに無理をさせたくなかった。
けれど、父親に会うかどうかを完全に私が決めてしまえば、後であの子が自分を責めるかもしれない。だから前夜、私は膝をついて聞いた。
「お父様が会いに来るそうよ。会ってみる?」
リュシーは布兎を抱いたまま考えた。
「おかあさま、いる?」
「いるわ」
「アルさまも?」
「いるわ」
「さむいおへや、いかない?」
「行かない」
「じゃあ、ちょっと」
ちょっと。
それが娘の答えだった。
面会当日、ギルベルトは時間通りに来た。銀灰色の髪を整え、深紺の上着を着ている。外から見れば、立派な侯爵だ。背筋は伸び、顔立ちは美しく、声も落ち着いている。
けれど、客間に入った瞬間、彼の視線は私ではなく、私の隣に立つリュシーへ向いた。
娘は私のスカートを握っていた。
「リュシー」
ギルベルトは名前を呼んだ。
少しぎこちなかった。
リュシーは顔を上げた。
「おとうさま」
「ああ」
その後、二人の間に沈黙が落ちた。
ギルベルトは、何を話せばいいのか分からないようだった。仕事の交渉なら、彼はいくらでも言葉を持っている。貴族同士の会話も、王宮での答弁も、難なくこなす。
だが、三歳の娘にかける言葉を持っていなかった。
「体調はどうだ」
「たいちょう?」
「寒くないか、ということだ」
「さむくない」
「そうか」
また沈黙。
リュシーは布兎の耳を握った。私は口を挟まなかった。助け舟を出したくなるが、ここで私が会話を作ってしまえば、ギルベルトはいつまでも娘と向き合わない。
やがて、リュシーが小さな声で言った。
「おとうさま」
「何だ」
「リュシーのおへや、リリアさまに、あげる?」
ギルベルトの顔が強張った。
部屋にいる全員が、息を潜めた。
「それは……」
彼は言葉を探した。
私は何も言わない。
「お前の部屋を、すぐに譲らせるつもりはない」
すぐに。
リュシーはその言葉の細かな意味までは理解しなかったかもしれない。けれど、不安は伝わったのだろう。小さな手が私のスカートを強く掴んだ。
「いや」
はっきりした声だった。
ギルベルトが目を見開く。
「リュシー、さむいの、いや。おかあさまと、あったかいおへや、いる」
私は娘の肩に手を置いた。
ギルベルトは視線を私へ移した。
「ノエリア。君が教えたのか」
「何をですか」
「私を拒むように」
その瞬間、アルノルトが静かに口を開いた。
「侯爵。面会中の発言は記録されています。幼児本人の意思表示を、母親の誘導と断定する場合、根拠を示してください」
ギルベルトは唇を引き結んだ。
ミレーヌ書記官のペンが紙を走る音がした。
リュシーはその音に気づき、不思議そうに見た。
「いんく、つける?」
ミレーヌ書記官が一瞬だけ目を丸くし、それから微笑んだ。
「ええ。インクをつけて書いています」
「リュシーも、かく」
「今度、小さな羽ペンをお貸ししましょうね」
部屋の空気が少し和らいだ。
ギルベルトだけが、和らげなかった。
面会終了の時刻が近づく。医師が合図をし、アルノルトが告げた。
「本日の面会はここまでです」
ギルベルトは立ち上がった。
リュシーは少しだけ彼を見上げた。前回の朝と同じように、手を動かしかける。
ギルベルトは今度、その手を見た。
見たが、触れ方を知らないようだった。
彼は迷い、結局、手を伸ばさなかった。
「……また来る」
そう言って、部屋を出ていった。
扉が閉まると、リュシーは私に抱きついた。
「いやって、いえた」
「ええ」
私は娘を抱きしめた。
「とても上手に言えたわ」
その日は、リュシーが疲れて昼寝をした後、アルノルトが応接室で私に言った。
「侯爵は、まだ事態を理解していません」
「娘が父親を恐れていることを?」
「それもありますが、それ以前に、子どもにも意思があることを」
私は窓の外を見た。温室の硝子に、薄い雪が溶けて筋を作っている。
「私も、もっと早く気づくべきでした」
「あなたは気づいたから出た」
アルノルトは短く言った。
「遅すぎたと責めるより、間に合ったと考えるべきです」
私は返事をしなかった。
けれど、その言葉は胸の奥に静かに残った。
間に合った。
少なくとも、リュシーは今日、自分で嫌だと言えた。