軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九話 南翼療養室の所有者

レーヴェルト侯爵家から二通目の手紙が届いたのは、お茶会の前日だった。

差出人はギルベルトではなく、家令ボルクだった。

『南翼療養室は侯爵家所有の建物内にあり、侯爵家の管理下にございます。奥様が持ち出された保温魔法の管理記録および療養設備の鍵を、速やかにご返却ください』

私は手紙を読み、しばらく黙った。

ハンナが隣で険しい顔をする。

「鍵とは、南翼の保温石管理庫の鍵でしょうか」

「おそらくね」

「しかし、あれは奥様の持参金で購入された設備です」

「ええ。契約上もそうなっている」

私は書類箱から婚姻契約の写しを取り出した。

結婚当初、父はまだ生きていた。父は穏やかな人だったが、財産契約には厳しかった。娘を政略結婚に出す以上、持参金の用途と返還条件はきちんと定めるべきだと、何度も確認していた。

その時、ギルベルトは面倒そうに署名した。

今になって、その署名が私を守っている。

「南翼療養室の改修費、保温石、二重硝子、薬棚、寝具、温度計。すべてヴァイス家の持参金特別口座から支出。使用目的は、リュシー・レーヴェルトの療養。目的外使用には、出資者の同意が必要」

私は条項を読み上げた。

ハンナが静かに頷く。

「返答なさいますか」

「もちろん」

私は便箋を用意した。

『南翼療養室の保温設備は、婚姻契約第五条に基づき、ヴァイス家持参金特別口座より支出された療養目的設備です。用途はリュシー・レーヴェルトの療養に限定され、目的外使用には出資者の同意を要します。現在、同意はいたしません』

書き終えたところで、ハンナが少しだけ目を細めた。

「奥様。少し硬すぎませんか」

「硬くていいの。これは感情を伝える手紙ではなく、後で法院に提出する文書だから」

「では、最後に一文だけ」

ハンナは珍しく提案した。

「お嬢様の療養に必要な設備です、と」

私は考え、頷いた。

『なお、当該設備は幼児の生命維持に関わる療養環境の一部であり、軽々に転用されるべきものではありません』

書き加えると、手紙の温度が少し変わった。

ただの契約ではない。

その先に、リュシーが眠っていた部屋がある。

翌日の昼過ぎ、温室館のお茶会には七人の客が訪れた。医師の夫人、母の古い友人であるラジェンダ伯爵夫人、法院書記官ミレーヌ、そして数名の奥方たち。華やかな会ではない。だが、社交界で軽んじられない人々ばかりだった。

私は旧温室を案内した。

南向きの硝子、厚い敷物、暖炉の配置、子どもの寝台、薬草棚、食事記録。リュシーは途中で少し緊張したが、マーサが用意した小さな椅子に座り、冬鈴草の鉢を見せた。

「リュシーが、うえたの」

「まあ、上手にできたのね」

ラジェンダ伯爵夫人が優しく言うと、リュシーは照れたように私の後ろへ隠れた。

その様子を見て、奥方たちの目つきが変わった。

噂の中の子どもではなく、目の前にいる小さな子どもとしてリュシーを見たのだ。

お茶の席で、誰かが慎重に尋ねた。

「ノエリア様。侯爵家では、リュシー様の療養室を別の方へお譲りになるお話があったとか」

部屋が静かになった。

私はカップを置いた。

「譲る、という言葉は正確ではありません。夫から、リュシーの療養室をリリア様に明け渡すよう求められました」

「まあ」

「私は、リュシーの体調上それはできないと説明しました。別室の改修も提案しましたが、受け入れられませんでした」

「それで、こちらへ?」

「はい。娘の療養環境を守るためです」

私はそれ以上、ギルベルトを罵らなかった。リリアを悪くも言わなかった。

ただ事実を並べた。

奥方たちは、事実の方が噂よりも重いことを知っている人々だった。

お茶会が終わる頃、ラジェンダ伯爵夫人が私の手を取った。

「ノエリア様。あなたは冷たい奥方ではありませんね」

「そう見えていたのでしょうか」

「冷たいというより、見えにくかったのでしょう。火の大きさばかり見る人には、灰の下の熾火が分からないものです」

その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。

見えにくくてもいい。

リュシーを温められるなら。

翌日、社交界の噂は少しだけ向きを変えた。

侯爵夫人は嫉妬で出ていったのではない。

娘の療養環境を守るために、出ていったのだ、と。