作品タイトル不明
第三十三話「夏祭りの夜、未来の話はできない」
夏祭りの日、母さんはいつもより少しだけ機嫌がよかった。
夕飯前の台所で、麦茶をコップに注ぎながら、ちらちらとこちらを見る。
その視線がやけに分かりやすい。
分かりやすすぎて、逆に聞かれる前から疲れる。
「何」
俺が言うと、母さんは待ってましたとばかりに笑った。
「今日はお祭りでしょう?」
「そうだけど」
「田端くんたちと行くのよね」
「うん」
「白石さんも?」
来ると思った。
「来る。小野と杉浦も」
「ふうん」
「その顔やめて」
「どの顔?」
「今の顔」
母さんは誤魔化す気のない笑い方をした。
親というものは、子供のこういう話になると急に楽しそうになる。
前の人生では、あまり実感する機会がなかったが、今は実感しすぎてやや面倒くさい。
父さんはリビングで新聞を畳みながら言った。
「あまり遅くなるなよ」
「分かってる」
「帰りは暗い。誰か一人で帰らせるな」
「うん」
「パソコンは今日は使わなくていい。帰ってから触るな」
「そこも管理対象なのか」
「夜遅く触るなと言っただろう」
「はい」
パソコンを買ってもらってから、父さんの管理項目が増えた気がする。
まあ、増やしたのは俺だ。
文句を言う筋合いはあまりない。
俺は財布とガラケーを確認した。
小遣いの残りは多くない。
パソコン代で一万円が消えたせいで、焼きそば一つにも慎重になる。
夏祭りで原価を考え始めたら終わりだと思うが、財布の現実は強い。
「悠真」
出かける直前、母さんが玄関まで来た。
「何」
「楽しんでおいで」
「普通に楽しむよ」
「普通に、ね」
だからその顔をやめてほしい。
俺はサンダルを履き、外へ出た。
夕方の空はまだ明るさが残っていて、遠くから太鼓の音が聞こえていた。
二〇一〇年の夏。
何度も見たはずなのに、もう一度見ると、やけに色が濃い。
◇ ◇ ◇
神社の近くのコンビニ前に着くと、田端がすでにいた。
手にはペットボトルの炭酸。
祭りに着く前から買うな。
「お、佐伯。遅い」
「集合五分前だろ」
「俺の中では遅い」
「知らん」
杉浦は少し遅れて来た。
髪をいつもより整えている。
本人は何も言わないが、妙にそわそわしていた。
「杉浦、気合い入ってんな」
田端が即座に突っ込む。
「別に」
「絶対別にじゃないやつだろ」
「うるさい」
いつものやり取りだ。
少し安心する。
小野と白石と一緒に来た。
二人で並んで歩いてくる姿が見えて、俺は一瞬だけ言葉を失った。
白石は浴衣だった。
紺色の生地に、小さな白い花の柄が入っている。
かなり控えめな色なのに、いつもの制服や私服と違って、目が勝手に止まる。
小野も浴衣で、こちらは明るい色だった。
たぶん、小野が誘ったのだろう。
白石は少し照れたように、巾着の紐を指で触っていた。
「お待たせ」
小野が笑って手を振る。
「全然。田端が早すぎただけ」
「俺は祭りに本気だからな」
「本気の方向がおかしい」
田端は白石を見て、少しだけ声を落とした。
「白石、浴衣じゃん」
杉浦が田端の脇腹を軽く小突いた。
田端は「あ、悪い」と小声で言う。
こういうところ、田端は雑だが、最近は引く時も覚えてきた。
白石は少しだけ首を振った。
「ううん。小野さんに、せっかくだからって言われて」
「似合ってる」
小野が即座に言った。
「ね、佐伯くん」
急に振るな。
俺は一瞬だけ固まり、白石と目が合った。
白石は少し不安そうにこちらを見ている。
ここで変に黙るのは、たぶん一番まずい。
「似合ってると思う」
俺は何とか言った。
「その、色も落ち着いてるし」
余計な補足が事務員みたいになった。
落ち着いてるし、とは何だ。
もっと言い方があるだろ、俺。
白石は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
声は小さかったが、ちゃんと聞こえた。
小野がにやにやしている。
やめろ。
田端も何か言いかけて、杉浦に肩を掴まれて黙った。
杉浦、今日だけは頼りになる。
神社へ向かう道には、すでに人が多かった。
提灯が並び、屋台の匂いが混ざっている。
焼きそば、たこ焼き、綿あめ、少し焦げたソース。
どれも大人になってから見ればただの祭りの匂いなのに、中学生の身体で歩くと妙に腹に来る。これが育ち盛りというやつか。
「まず何食う?」
田端が言った。
「来てすぐ食うのか」
「祭りは食い物だろ」
「間違ってはいない」
杉浦は射的の屋台を見つけて、目を細めた。
「あれ、やりたい」
「お、勝負するか」
田端がすぐ食いつく。
小野は呆れた顔をした。
「二人とも、先にお参りしないの?」
「あとでいいだろ」
「あとで忘れるやつ」
小野の言葉に、白石が小さく笑った。
それを見て、田端が少しだけ得意そうな顔をする。
自分が笑わせたわけでもないのに、なぜ得意げなのか。
結局、先に参道を進むことになった。
人の流れに乗って歩く。
田端と杉浦が前、小野と白石が真ん中、俺が少し後ろ。
最初はそんな並びだった。
人が増えるにつれて、白石の歩幅が少し小さくなった。
浴衣のせいもあるだろう。
下駄ではなく履き慣れたサンダルらしいが、それでも普段とは違う。
それに、人混みだ。
今の白石にとって、人の多い場所はまだ楽なものじゃない。
俺は少し歩く位置を変えた。
白石の斜め後ろから、隣に近い場所へ。
「大丈夫か」
小声で聞くと、白石は少し驚いてから頷いた。
「うん。大丈夫」
「無理なら端に寄るか?」
「……うん」
大丈夫と言ったわりに、返事は少し遅かった。
俺は人の流れを見て、屋台の列が途切れている脇へ少しずれた。
白石もそれに合わせてくる。
前を歩く田端たちは、射的の屋台の前で止まっていた。
「佐伯! これ勝負しようぜ!」
田端が振り返って叫ぶ。
「お前らでやってろ」
「逃げたな」
「財布を守っただけだ」
俺が返すと、杉浦が笑った。
小野は白石を見る。
「澪、大丈夫?」
「うん。少し端にいるね」
「じゃあ、私、射的見てる。終わったらあそこの鳥居の横で」
「うん」
小野は自然にそう言った。
いつの間にか名前呼びになっていた。女子の仲良くなる速さは、男とは全然違うと感心してしまう。
田端と杉浦はもう景品の前で騒いでいる。
人の流れと屋台の配置と、田端の落ち着きのなさ。
全部が合わさって、俺と白石だけが参道の端に残った。
狙ったわけじゃない、と思う。
少なくとも俺は狙っていないし、田端は何も考えていない。
小野は、少しは考えたかもしれない。
そこは深く追及しない方がいい。
俺と白石は、屋台の明かりから少し外れた場所に立った。
石垣の脇で、風が少しだけ通る。
遠くで太鼓の音が鳴り、近くで子供がかき氷をこぼして親に叱られていた。
「ごめんね」
白石が小さく言った。
「何が」
「せっかく来たのに、端に寄っちゃって」
「人混みで無理する方が大変だろ」
「大変?」
「倒れたり気分悪くなったりしたら、そっちの方が大ごとになる」
言ってから、少し雑だったかと思った。
でも白石は、ふっと息をこぼすように笑った。
「佐伯くんらしい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか」
白石は石垣の上に並ぶ提灯を見上げた。
横顔に薄い明かりが乗る。
浴衣の襟元を少し直す仕草が、妙にゆっくり見えた。
俺は視線を屋台の方へ逃がす。
視線の置き場に困る。
中学生の身体はこういう時、本当に扱いづらい。
三十二歳の理性が「落ち着け」と言っている横で、十四歳の目が勝手に働こうとする。
働くな。
今日の業務は停止だ。
「佐伯くん」
白石に呼ばれて、俺は顔を戻した。
「最近、少し考え込んでること、多いよね」
胸の奥が、少しだけ重くなった。
「そう見える?」
「うん。図書館でも、パソコンの話をしてる時も。何か、急いでるみたいだった」
前にも似たようなことを言われた。
白石は、やはりよく見ている。
普段は控えめで、自分から前に出るタイプじゃないのに、人の小さな変化は拾う。
こういうところがあるから、俺は油断できない。
「まあ、考えることはある」
「パソコンのこと?」
「それもある」
「将来のこと?」
俺は返事に迷った。
将来という言葉は便利だ。
嘘にはならない。
だが、俺の言う将来は、普通の中学生が考える高校受験や部活や進路の話とは少し違う。
「説明するのが難しいことを考えてる」
結局、そう言った。
白石はすぐには聞き返さなかった。
屋台の明かりを見ながら、少しだけ考えている。
「私に聞いても、分からないこと?」
「たぶん、俺にもまだ分かってない」
「そっか」
白石はそれだけ言って、巾着の紐を指でなぞった。
無理に踏み込んでこない。
その優しさが、ありがたくて、少しきつい。
「話せる形になったら、聞かせてね」
白石は言った。
「今じゃなくていいから」
俺は、すぐに返事ができなかった。
未来のことも、株のことも、ビットコインのこともある。
何か大きなことを忘れているような引っかかりまで、頭の隅に残っていた。
そのどれも、今の白石に言える言葉じゃない。
でも、聞かないでいてくれる相手がいるというのは、思ったより助かる。
追い詰められないだけで、人はけっこう息ができる。
「助かるよ」
俺はようやく言った。
「うん」
白石は小さく頷いた。
それから少し迷うようにして、こちらを見る。
「でも、困ってるなら、一人で全部考えなくてもいいと思う」
「……白石に言われると、説得力あるな」
「え?」
「前は、白石も一人で抱えてたから」
言ってから、踏み込みすぎたかと思った。
だが、白石は顔を伏せなかった。
少しだけ目を細めて、提灯の列を見る。
「うん。だから、言ってる」
声は小さかったが、白石は目を逸らさなかった。
白石は変わっている。
俺が助けたから、などときれいにまとめる気はない。
本人が、少しずつ選んでいるのだ。
今日ここへ来て、浴衣を着て、俺に踏み込む言葉を言う。
それを全部、白石自身が選んでいる。
そういう変化を見るたびに、俺は嬉しくなる。
そして、少し怖くなる。
俺が知っている未来から、この子はどんどん離れていく。
それは良いことのはずなのに、足元が柔らかくなるような感覚がある。
射的の屋台の方から、田端の声が聞こえた。
「取れた! 見ろ、杉浦!」
「それ参加賞だろ」
「取れたことに意味があるんだよ!」
白石が笑った。
さっきより自然な笑い方だった。
その声を聞いて、俺の肩の力も少し抜けた。
「戻るか」
「うん」
俺たちは屋台の明かりの方へ戻った。
◇ ◇ ◇
その後は、思ったより普通に祭りを回った。
田端は射的で参加賞の小さな飴を手に入れ、なぜか勝ち誇っていた。
杉浦は輪投げで何も取れず、妙に悔しそうだった。
小野はかき氷を買い、白石に一口いるか聞いていた。
白石は少し迷ってから、スプーンを受け取っていた。
それだけのことなのに、小野が嬉しそうな顔をする。
俺は焼きそばを買った。
五百円。高い。
でも、祭りの焼きそばはそもそも高いものだ。
財布の中身を考えると少し痛いが、ここで買わないのも何か違う。
「佐伯、顔が真剣すぎる」
田端が言った。
「焼きそばの値段について考えてた」
「祭りで金のこと考えるなよ」
「一万円払った人間の気持ちを考えろ」
「急に重いんだよな、お前」
田端が笑う。
白石も横で少し笑っていた。
財布の痛みが、少しだけ報われた気がする。
いや、焼きそばは普通に高い。
神社の奥では、小さな打ち上げ花火が上がるらしかった。
大きな花火大会というほどのものじゃない。
地域の祭りで、最後に少しだけ上がるやつだ。
田端が「見るだろ」と当然のように言い、俺たちは人の流れに合わせて境内の端へ移動した。
その途中で、また人が増えた。
花火を見る場所を探す人たちで、さっきよりも道が狭い。
小野が白石の方を気にしている。
俺も見ていた。
白石は平気そうに歩いていたが、巾着を持つ手に少し力が入っている。
「白石」
俺が声をかけると、白石はすぐにこちらを見た。
「端、行くか?」
「……うん」
小野がそれに気づいて、軽く手を上げた。
「じゃあ、私はあっちで田端くんたち見てるね。花火終わったらまた鳥居のところで」
「うん。ありがとう」
小野の動きは自然だった。
自然すぎて、少しだけ怖い。
あいつ、田端よりずっと空気を読む。
俺と白石は、人の流れから少し外れた石段の横に立った。
境内の端で、木の枝が少し空を隠している。
花火を見るには最高の場所と言いづらいが、人に押されるよりはいい。
白石は息をついた。
「さっきより、ここは楽」
「見えにくいけどな」
「少し見えればいいよ」
「……そうか」
隣に立つ。
距離は近い。
近いが、触れてはいない。
触れない距離を保つことに、俺はやたら神経を使っていた。
中学生の夏祭りで、何をしているんだ俺は。
いや、中身が三十二歳だからこそ、そこは気にしろ。
最初の花火が上がった。
小さな光が夜空に開いて、少し遅れて音が届く。
周りから歓声が上がった。
白石は空を見上げていた。
提灯の明かりよりも薄い花火の光が、横顔に一瞬だけ乗る。
「きれい」
白石が言った。
「うん」
俺は花火を見た。
見たはずだ。
でも、あとで思い出すのは、たぶん花火そのものじゃない。
隣で空を見上げている白石の横顔と、言えないことを抱えたまま立っていた自分の息苦しさだ。
また一つ、花火が上がった。
音が遅れて届く。
未来のことは言えない。
俺は何も言えないまま、白石の隣に立っていた。
今の俺にできるのは、そのくらいだった。
そう思ったところで、白石がこちらを見た。
「佐伯くん」
「ん?」
「今日は、来てよかった」
俺は少しだけ返事に困った。
変に気の利いたことを言おうとすると、たぶん失敗する。
こういう時の俺は、自分を信用しない方がいい。
「俺も」
短く返した。
白石は、ほっとしたように笑った。
花火の音が、また少し遅れて届いた。