作品タイトル不明
第三十二話「検索欄に、未来を打ち込む」
パソコンが家に来てから、数日が経った。
俺はその間、驚くほど大人しく使っていた。
いや、自分で言うのも何だが、本当に大人しかった。
検索履歴を見られても困らないように、自由研究のテーマ、読書感想文の書き方、表計算の使い方、英単語の覚え方。
並べてみると、模範的な中学生すぎて少し気持ち悪い。
ただ、父さんの前で変なことをするわけにはいかない。
パソコンを手に入れてすぐに調子に乗って没収されたら、笑い話にもならない。
一万円と風呂掃除を支払って、数日で退場。
そんな社内処分みたいな未来は嫌すぎる。
だから俺は、まず勉強用として使った。
表計算ソフトを開いて、夏休みの宿題一覧を作る。
国語の読書感想文、数学の問題集、英語の単語練習、理科の自由研究、社会の調べ学習に、提出日や必要な時間、進み具合を入れていく。
項目が増えるほど、ただの宿題が急に仕事っぽく見えてきた。
「やめろ、夏休みを業務化するな」
自分で作っておいて、自分で突っ込む。
でも、効果はあった。
何が残っているかが見えると、妙な焦りは減る。
会社員時代、タスク管理表を作らされるたびに「作ってる時間で仕事させろ」と思っていたが、あれはあれで意味があったらしい。
認めたくはないが、便利だった。
ついでに、小遣いの支出表も作った。
今月のお小遣いから、参考書の付箋代、図書館へ行く時の飲み物代、パソコン代として消えた一万円まで、思いつくものを入れていく。
風呂掃除は金こそ減らないが、心の支出としてはかなり大きい。
そこまで打って、俺はセルを一つ空けた。
心の支出、と入れかけて手を止める。
表計算ソフトに入れる項目じゃない。
さすがに消した。
パソコンは古い。
起動は遅いし、ファンはよく鳴るし、しばらく使うと右手のあたりがほんのり温かくなる。
それでも、打った文字が保存される。
表を作って、あとから直せる。
線を引き間違えてノートをぐしゃぐしゃにすることもない。
手書きのメモで父さんに説明していた時より、ずっと楽だった。
あの時、パソコンがあれば資料作りも楽になると考えたのは、別に言い訳だけではなかったらしい。
まあ、言い訳でもあったけど。
夕飯のあと、父さんがリビングで言った。
「悠真、少し見せろ」
来た。
履歴確認だ。
「いいよ」
俺はパソコンをリビングのテーブルに置き、電源を入れた。
起動を待つ間、母さんが麦茶を置いてくれる。
父さんは腕を組んで画面を見ていた。
「やっぱり遅いな」
「そこはもう、そういうものだと思ってる」
「諦めが早いな」
「新品じゃないし」
ようやく画面が出たところで、俺はブラウザを開いた。
履歴を表示する。
父さんが横から覗き込んだ。
「自由研究、読書感想文、表計算……」
「うん」
「ゲームは」
「入れてない」
「動画は」
「少し見た。表計算の使い方」
「変なものは」
「見てない」
取り調べみたいだ。
だが、ここで不機嫌になったら負けである。
父さんが確認するという条件で買ってもらった。
確認された時に嫌な顔をしたら、「やっぱり怪しい」となる。
面倒だが、これは契約の範囲内だ。
父さんはしばらく履歴を眺めてから、俺が作った宿題進捗表を開いた。
画面に、俺の作った表が表示される。
色はつけていない。
罫線も最低限。
かなり地味だ。
父さん向けには、この地味さがいい。
「これ、自分で作ったのか」
「うん」
「宿題の進み具合か」
「あとで焦るの嫌だから」
「それはいいな」
父さんが、珍しく素直に褒めた。
俺は少しだけ背筋を伸ばす。
「ただ、予定だけ立てて満足するなよ」
「分かってる」
「今日の分は終わったのか」
「数学は終わった。英語は半分」
「なら残りをやれ」
「はい」
褒めてから落とす。
上司にもよくいた。
懐かしくはない。
母さんは画面を見て、少し感心したように言った。
「こういうの作れるのね」
「簡単な表だけ」
「お小遣いの表もあるの?」
「あるけど、見たい?」
「見たい」
しまった。
聞かなければよかった。
俺は小遣いの支出表を開いた。
母さんはそれを見て、ふふ、と笑った。
「飲み物代、けっこう使ってるわね」
「夏だから」
「家から水筒を持っていけば?」
「……はい」
余計な節約指導が入った。
表を作ったせいで、自分の無駄遣いが可視化された。
便利というのは、たまに自分を殴ってくる。
父さんは履歴を閉じて、パソコンを俺の方へ返した。
「今のところは、ちゃんと使ってるな」
「今のところって」
「最初だけ真面目なことはよくある」
「信用が薄い」
「信用は積み上げるものだろう」
父さんに言われると、妙に刺さる。
俺が勝手に使っていた「信用残高」という言葉を、父さんが別の形で言ったような気がした。
「まあ、がんばるよ」
俺はそう言って、パソコンを抱えた。
重い。
中古ノートは、信用まで物理的に重い気がする。
◇ ◇ ◇
次の日、俺は図書館へ行った。
パソコンは持っていけない。
父さんとの約束がある。
だから、作った宿題進捗表をノートに写して持っていった。
それなら最初から手書きでよかったのでは、と思わなくもない。
でも、一度パソコンで並べてから写すと、頭の中が整理される。
手間は増えている気もするが、そこは考えないことにした。
今日は、田端たちは来られないらしい。
田端は親戚の家に行くとかで、小野と杉浦もそれぞれ予定があるとメールが来ていた。
つまり、図書館に来るのは俺と白石だけだ。
それを意識した瞬間、少しだけ鞄の持ち手を握り直した。
閲覧席には、白石が先に来ていた。
机の上には文庫本とノートが置かれている。
髪を耳にかけて、何かを書いている横顔が見えた。
俺が近づくと、白石は顔を上げた。
「佐伯くん」
声が少し明るい。
それを聞いて、朝から来てよかったと思ってしまう。
単純だな、俺。
「早いな」
「うん。家にいると、ちょっと暑くて」
「図書館、涼しいしな」
「うん」
白石はそう言って、小さく笑った。
それから、俺のノートに目を向ける。
「それ、パソコンで作った表?」
「家ではそう。これは写したやつだけど」
「見てもいい?」
「もちろん」
俺はノートを渡した。
白石は両手で受け取って、ゆっくり目を通す。
人に見せる前提で書いたのに、いざ見られると少し落ち着かない。
宿題の表を見られているだけなのに、なぜか中身まで見られている気分になる。
「見やすいと思う」
白石が言った。
「本当か?」
「うん。でも、進み具合のところ、丸だけだと少し分かりにくいかも」
「ああ、そこか」
「途中まで終わったものと、手をつけてないものが同じ空白になってるから……えっと、ここに『途中』って欄を作るとか」
白石は遠慮がちに言いながら、指でノートの端を示した。
その説明が、普通に的確だった。
「なるほど」
「あと、読書感想文は、読む、メモ、下書き、清書で分けた方がいいかも。読むだけ終わっても、書くところで止まることあるから」
「経験者の言葉だ」
「去年、そこで止まったから」
白石が少し恥ずかしそうに笑う。
その顔が、妙にかわいかった。
いや、今は表の話だ。
集中しろ。
「じゃあ、帰ったら直す」
「うん。パソコンだと直しやすい?」
「かなり。手書きだと、線を引き直すところからだから」
「いいな」
白石が小さくつぶやいた。
「白石も使うか?」
つい言ってから、俺は少し焦った。
父さんから持ち出し禁止と言われている。
家に呼ぶわけにもいかない。
何を言っているんだ、俺。
白石も少しだけ目を丸くした。
「えっと、私は……」
「悪い。持ち出し禁止だった。今のは忘れてくれ」
「あ、うん。でも、見てみたいなとは、少し思う」
そう言われると困る。
ものすごく困る。
中古で、遅くて、ファンが鳴るだけのノートパソコンなのに、白石に見せるとなると急に別の意味を持ち始める。
「そのうち、父さんの許可が出たら」
「うん。そのうち」
白石はその言い方を、少し大事そうに受け取った。
たぶん俺の気のせいじゃない。
困る。
最近、困ることが多い。
そのあと、俺たちは普通に宿題を進めた。
読書感想文の構成を白石が確認し、俺は数学の問題集を解く。
途中、白石が俺の英語の単語ノートを見て、発音記号はまだ無理しなくていいと教えてくれた。
俺はおとなしく従った。
昼前に図書館を出る時、白石が言った。
「パソコン、ちゃんと使えてるみたいでよかった」
「まあ、今のところは宿題用だけどな」
「それでも、いいと思う。佐伯くん、急いでる時あるから」
俺は返事に詰まった。
白石は、たぶん何気なく言ったのだと思う。
でも、その言葉は妙に鋭かった。
急いでいる。
確かに、俺は急いでいる。
未来を知っているから、今動かないといけない気がしている。
宝くじは分からない。
ビットコインは触りたい。
株も調べたい。
その先には、まだ思い出しきれていない出来事がいくつもある。
けれど、急ぎすぎて父さんに怪しまれたら終わりだ。
白石との時間を雑に扱っても、たぶん何かを間違える。
「まあ、急いでも転ぶしな」
俺は頭をかきながら言った。
「うん。転んだら、痛いと思う」
「そこは励ましてくれ」
「えっと……転ばないように、気をつけて」
「それは正しい」
白石は少し笑った。
俺もつられて笑った。
夏の昼前の図書館の入口は、外の熱気が少しずつ入り込んでいた。
白石は鞄の持ち手を握り直し、俺のノートを指差す。
「帰ったら、表、直してみてね」
「了解。先生」
「先生じゃないよ」
「じゃあ、白石先輩」
「それも違う」
白石は困ったように笑いながら、でも少し嬉しそうだった。
こういうところで調子に乗りすぎるな、と頭のどこかで警報が鳴る。
俺はその警報に従って、軽く手を振るだけにした。
◇ ◇ ◇
家に帰ってから、俺はパソコンを起動した。
白石に言われた通り、宿題進捗表に「途中」の欄を追加する。
読書感想文も、読む、メモ、下書き、清書に分けた。
その少しの修正で、表はだいぶ使いやすくなった。
読む、メモ、下書き、清書。
ここまで分けると、ただの読書感想文の項目が急にWBSみたいに見えてくる。
中学生の夏休みの宿題に、前職のプロジェクト管理を持ち込むなよ。
そう思いながらも、分けた方が進めやすいのだから困る。
「やっぱり、白石はこういうの強いな」
つぶやいてから、少し恥ずかしくなる。
部屋に一人でよかった。
表を保存して、ブラウザを開く。
自由研究の候補を調べるつもりだった。
検索欄にカーソルが点滅している。
何を打つか。
自由研究、気温、節電、家庭の電気代。
どれも安全だ。
父さんに履歴を見られても困らない。
なのに、指は別の言葉を打とうとした。
証券口座、という言葉が頭に浮かんだところで、俺は手を止めた。
続けて、未成年、NISA、ビットコインという言葉も浮かぶ。
さらに奥の方で、何かが引っかかった。
何かあった。
かなり大きなことだった気がする。
でも、今ここで深く掘ると、たぶん止まらなくなる。
しかも履歴が残る。
父さんに「中学生が夜に証券口座を調べていた」と見られるのは、かなりまずい。
まだ夕方だが、問題は時間帯じゃない。
俺はキーボードから手を離し、椅子の背にもたれた。
パソコンのファンが鳴っている。
古いくせに、こちらの焦りだけは妙にあおってくる。
「焦るなって言っただろ」
自分に言った。
パソコンにも言った。
メモ帳を開く。
検索欄ではなく、ただのメモに、あとで調べること、と書いた。
その下に、証券口座、未成年、ニーサ、ビットコイン、とだけ打つ。
最後に少し迷って、何か忘れてる、と打った。
具体的なことは書かない。
まだ、思い出しきれていない。
思い出したくないのかもしれない。
そのあたりは、今の俺にもよく分からない。
ファイル名は、自由研究メモにした。
姑息だ。
姑息だが、完全な嘘でもない。
自由研究の中に、未来の研究が少し混ざっているだけだ。
いや、だいぶ混ざっている。
俺はため息をついて、ブラウザの検索欄に別の言葉を打った。
『自由研究 中学生 節電』
検索結果が表示される。
安全で、退屈で、親に見られても困らない文字列が並ぶ。
今はこれでいい。
そう思おうとしたところで、部屋の外から母さんの声がした。
「悠真、今日の風呂掃除、先にやっちゃいなさい」
「はい」
俺は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
証券口座より先に、風呂場。
ビットコインより先に、スポンジ。
未来は、もう少し待ってもらうしかない。
そう思って椅子から立ち上がろうとしたところで、机の上のガラケーが震えた。
田端からだった。
『明後日の夏祭り、忘れんなよ。白石と小野にも確認しといて』
そういえば、そんな夏っぽいイベントもあったか。
プールの時に田端が雑に言い出して、終業式のあとにも少し話して、そのまま予定表の端に書いたままだった。
完全に忘れていたわけじゃない。
ただ、パソコンと風呂掃除と自由研究に押されて、だいぶ端に追いやられていた。
「次は祭りか」
俺は画面を閉じて、ガラケーを持った。
未来より先に、夏祭り。
まあ、それも悪くない。
「悠真、風呂掃除」
「今行く」
結局、まずは風呂場だった。