作品タイトル不明
第二十三話「父さんに見せる成績表」
成績表を親に見せるという行為は、年齢によって意味が変わる。
中学生の頃の俺にとっては、できれば後回しにしたいイベントだった。
点数が悪ければ怒られるし、良くても「次も頑張れ」で終わる。わざわざ自分から見せに行くものではない、という感覚が強かった。
だが今の俺にとって、成績表はただの紙ではない。
信用残高の明細である。
父さんと母さんに、最近の俺は本当に変わったのだと数字で見せる。
参考書を買ってもらう。
家のパソコンを少し使わせてもらう。
将来的には、自分用のパソコンも欲しい。
そこまで考えると、学年二十六位という数字は、思ったより価値が重くなった。
満点無双ではない。
けれど、前の俺からすれば十分すぎる変化だ。
それが逆にいい。努力した結果として、なんとか説明できる。
夕飯のあと、俺はリビングのテーブルに成績個票を置いた。
「父さん、母さん。期末の結果、見てもらっていい?」
父さんが新聞から顔を上げた。
母さんは食器を片づけかけた手を止める。
「お、もう返ってきたのか」
「うん」
「ずいぶん改まってるわね」
母さんが少し笑った。
その笑い方に、昔の記憶がふっと重なる。
俺が三十二歳だった頃の母さんより、今の母さんは若い。当たり前なのに、時々変なところで胸に来る。
俺は変にしんみりしそうになって、成績個票を父さんの前へ押し出した。
「今回は、けっこう頑張った」
父さんが紙を手に取る。
母さんも横からのぞき込んだ。
一瞬、二人とも黙った。
その沈黙が、思ったより長く感じる。
俺はコップの水に手を伸ばしたが、飲む前に父さんが口を開いた。
「四百二十四点……?」
父さんの声が、少しだけ裏返った。
「学年二十六位。悠真、これ本当か」
「本当。俺が書き換えたわけじゃない」
「……いや、書き換えたらすぐ分かる」
「だよな」
父さんは個票をもう一度見た。
母さんは口元を押さえている。
「すごいじゃない、悠真」
「ありがとう」
「本当に頑張ったのね」
母さんの声は、思ったよりまっすぐだった。
茶化すでもなく、疑うでもなく、ただ喜んでいる。
それが少しこそばゆい。
前の人生で、俺はいつから親に結果を見せなくなったのだろう。
会社の評価も、年収も、疲れていることさえ、ろくに話さなくなっていた。
こうやって紙一枚を見せて褒められるのは、中学生の特権なのかもしれない。
父さんは個票の下のほうまで見てから、腕を組んだ。
「国語と社会がいいな。英語も上がってる。数学は……」
「そこは普通に苦戦した」
「途中式、ちゃんと書いたのか?」
「書いた。書かないと落ちるって分かったから」
父さんは少し笑った。
「そうだな。数学は結果だけじゃなくて、どう考えたかも大事だ」
その言い方は、父親というより、少しだけ先生みたいだった。
父さんは理屈っぽいところがある。前の俺はそれを面倒だと思っていたが、今はむしろ使えると思ってしまう。
最低だな、俺。
ただ、交渉相手の性格を知っているのは大事だ。
父さんは感情で押しても動きにくい。理由と結果がいる。
俺は鞄から数学の答案を出した。
「これ。途中式、前よりは書いた」
父さんは答案を受け取り、赤ペンの跡を見た。
「七十六点か」
「高くはないけど」
「いや、悪くない。途中式で部分点を拾ってるな」
「白石に、表にすると分かりやすいって言われて」
言ってから、少ししまったと思った。
母さんの反応が早かった。
「白石さん?」
ほら来た。
「同じクラスの子。ノートが見やすくて、勉強会で教えてもらったりしてる」
「女の子?」
「……まあ」
母さんの目が、分かりやすく楽しそうになった。
父さんまで少しこちらを見る。
「同じクラスの友達だよ」
「ふうん。友達」
「その言い方やめて」
「何も言ってないじゃない」
「言ってない時のほうが言ってる」
母さんは笑った。
父さんは咳払いをして、答案へ視線を戻す。
助かったような、助かっていないような空気だった。
「その白石さんも、一緒に勉強しているのか」
「うん。田端もいる。最近は小野とか杉浦も少し来る」
「人数が増えてるんだな」
「テスト直しとか提出物を見てるだけだけど」
「それはいいことじゃない」
母さんが言った。
「悠真が誰かと一緒に勉強してるなんて、ちょっと安心した」
「前はそんなに心配だった?」
「そりゃあ、親だもの」
軽い言い方だったが、少しだけ刺さった。
前の俺は、親に心配させている自覚すら薄かった気がする。
俺は水を一口飲んだ。
ここからが本題だ。
「それで、相談があるんだけど」
父さんの眉が少し動いた。
母さんも、何か来ると思ったのか姿勢を正す。
「参考書を何冊か買いたい。夏休み前に、数学と英語をちゃんと戻したいから」
「それはいいぞ」
父さんはすぐにうなずいた。
思ったより早い。
「必要なら週末に本屋へ行くか」
「ありがとう。あと、もう一つ」
ここで少し間を置く。
欲張っているように見えないか。
いや、実際に少し欲張っている。
ただ、今言わないと後回しになる。
「家のパソコンを使う時間を、少し決めてもらえないかな」
父さんの表情が、さっきより慎重になった。
母さんも「パソコン?」と小さく繰り返す。
「何に使うんだ」
「調べ物。英語の単語とか、数学の解き方とか。あと、タイピングも少し練習したい」
「ゲームじゃなくて?」
「ゲームはしない」
即答したが、少しだけ後ろめたい。
ゲームをまったくしない中学生も、それはそれで不自然ではある。
ただ、ここでゲームと言ったら話が面倒になる。
「学校の宿題で必要なのか?」
「今すぐ必要ってわけじゃない。でも、調べ方には慣れておきたい。夏休みの自由研究とか、読書感想文の本を探す時にも使えると思う」
これは嘘ではない。
全部ではないだけだ。
父さんは腕を組んだ。
リビングの隅に置かれた家族共用のパソコンを見る。
古いデスクトップだ。起動に時間がかかるし、ファンの音も大きい。
それでも、今の俺にとっては未来への入口である。
ビットコイン。
証券口座。
株価。
ニュース。
全部、インターネットから始まる。
だが、それをそのまま言うわけにはいかない。
中学二年生が急に「将来値上がりする銘柄を調べたい」と言い出したら、父さんはたぶん病院を検討する。
「使うなら、リビングでだな」
父さんが言った。
「うん」
「勝手にソフトを入れない」
「分かった」
「知らないサイトに個人情報を入れない」
「入れない」
「時間も決める。平日は長くても三十分。休日は相談」
「それでいい」
思ったより通った。
いや、ここまでの成績表が効いている。
信用残高を使った感覚が、はっきりあった。
母さんはまだ少し心配そうだった。
「目が悪くならないようにね」
「うん」
「あと、ご飯の時間は守ること」
「守る」
「夜遅くはだめよ」
「分かってる」
母さんの条件は生活寄りだった。
これも大事だ。
生活が崩れれば、パソコンの話はすぐ消える。
父さんは成績個票をテーブルに置いた。
「結果を出したから、こちらも少し信用する。ただし、約束を破ったらしばらくなしだ」
「分かった」
「それから、分からないことがあったら聞け。父さんも全部詳しいわけじゃないが」
「うん。ありがとう」
俺は頭を下げた。
大げさかもしれない。
でも、これは大きい。
いきなり自分用のパソコンが手に入ったわけではない。
証券口座が開けたわけでもない。
ビットコインを受け取れるようになったわけでもない。
それでも、リビングのパソコンを使う時間が正式に手に入った。
未来知識を現実に変えるための、最初の小さな足場だ。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、俺は机の引き出しを開けた。
貯金箱。
古い通帳。
お年玉の残りが入った封筒。
中学生の俺の全財産である。
未来を知っている男の資産としては、かなり心許ない。
いや、心許ないどころではない。
財布の中身だけ見れば、普通の中二だ。
貯金箱の小銭を机に出す。
じゃらじゃらと音がして、妙に現実感があった。
百円玉、五十円玉、十円玉。
何枚か数えて、途中で少し嫌になったが、ここで雑にするとあとで困る。
封筒には、お年玉の残りが入っている。
去年の正月にもらった分を、母さんに「全部使わないで残しておきなさい」と言われて渋々入れたものだ。
あの時の俺は、ゲームソフトを一本買うかどうかで悩んでいた気がする。
未来の株価より、目の前のゲームソフト。
中二としてはたぶん正しい。
貯金箱は六千四百八十円。
封筒のお年玉は一万五千円。
財布に入っていた分が千二百三十円。
合計で、二万二千七百十円。
思ったよりは残っていた。
だが、パソコンを買うにはまったく足りない。
駅前の中古ショップで二万円台の古いノートを見た記憶はあるが、まともに動くかは怪しい。新品なら安くても七万、八万円はするはずだ。
今すぐ自分のパソコンを買う、というのは無理があった。
古い通帳も開く。
残高は三万一千六百円。
ただし、これは母さんが管理している口座で、俺が勝手に下ろせる金ではない。お年玉を少しずつ預けてきた結果であって、自由に使える財布とは別物だった。
月の小遣いは二千円。
文房具や本、たまの寄り道で普通に減る。
全部貯めても、一年で二万四千円。
中学生の金銭感覚では大金だが、投資の元手としては弱い。
「未来を知ってても、財布がこれか」
思わず声に出た。
情けない。
だが、この情けなさが現実だった。
宝くじの番号は覚えていない。
競馬も知らない。
親の名義を勝手に使うわけにもいかない。
家のパソコンに勝手なソフトを入れるわけにもいかない。
結局、何をするにも信用と準備がいる。
学校で勉強して、親に成績を見せて、パソコンの使用許可をもらう。
未来知識チートというには、あまりにも地味だ。
でも、地味な足場ほど、崩れにくい。
たぶん。
たぶん、というのが少し弱いが。
俺はノートを開いた。
勉強用とは別の、未来のことを書くためのノートだ。
最初のページには、前に書いた言葉が残っている。
ビットコイン。
NVIDIA。
Mt.Goxは危ない。
ウォレット。
バックアップ。
そこまでは覚えていた。
ただ、投資家でも評論家でもない俺の記憶は、都合よく全部を並べてくれない。
ニュースで見たもの。仕事の休憩中に話題になったもの。ネットで流れてきた記事。「あれ高かったんだよな」と後から知ったもの。
思い出し方が雑すぎる。
自分の脳みそに文句を言いたい。
俺はシャーペンを持ち、ノートに書き足した。
ビットコイン。
NVIDIA。
そこで、手が止まった。
待て。
本当に、この二つだけか。
俺が三十二歳だった頃、スマホは当たり前だった。
電車でも、会社でも、飯屋でも、みんなスマホを触っていた。
ゲームも、連絡も、買い物も、動画も、何もかもスマホに吸い込まれていた。
二〇一〇年の今は、まだ違う。
ガラケーが普通で、スマホを持っている中学生なんてほとんどいない。
だが、これから変わる。
かなり大きく変わる。
なら、スマホが普及した時に伸びた会社があるはずだ。
俺はノートの端に、思いついた言葉を書いた。
パズドラ。
モンスト。
ポケモンGO。
書いた瞬間、少しだけ記憶の奥が動いた。
パズドラはたしか、ガンホー。
モンストは、ミクシィ。
ポケモンGOは、かなりの社会現象になった覚えがある。そして任天堂の株がすごく動いたニュースを見た記憶がある。
……ただ、あれは任天堂が全部作っているわけではない、みたいな記事もあとから見た気がする。ポケモンの会社、任天堂。そのあたりの関係は、当時の俺にはよく分からなかった。
どちらもニュースで見た。
会社の昼休みに、誰かが「ガンホーの株を持っていたら」とか「ミクシィすごかったらしい」とか話していた記憶がある。
俺はその時、へえ、と聞き流した。自分には関係ないと思っていた。
関係ないと思っていたものほど、過去に戻ると急に顔を出す。
他にもあったはずだ。
FGO。
ウマ娘。
ツムツム。
どれもやったことはなかったが、名前は出てくる。
ただ、どの会社の株を買えばいいのか、上場しているのか、いつ伸びたのか、そのあたりは一気に怪しくなる。
ゲームのタイトルを知っていることと、投資で勝てることはまったく別だった。
俺はノートに書く。
ガンホー。
ミクシィ。
任天堂。
サイバーエージェント?
ソニー?
スマホゲーム。
国内株。
ここで少し、息を吐いた。
それに、スマホで伸びるのはゲーム会社だけではない。
スマホが普及するなら、画面も、電池も、通信部品も、カメラも、センサーも必要になる。
半導体もそうだ。
日本には、そういう部品を作っている会社がいくつもあったはずだ。
村田製作所。
TDK。
ソニー。
東京エレクトロン。
半導体製造装置。
電子部品。
聞いたことのある名前を並べているだけで、かなり雑だ。
だが、ビットコインとNVIDIAだけを見ていた時よりは、明らかに視界が広がっている。
細かい株価は知らない。
何年の何月に買えばいいのかも怪しい。
そもそも今の俺は未成年だ。
証券口座を開くには親の同意が必要になるはずだし、勝手に売買などできない。
信用取引なんてもってのほかだ。
そんなものに手を出す気はない。
やるとしても、小遣いやお年玉の範囲で、長く持つ。
未来を知っているからといって、生活を賭けるような真似をしたら本末転倒だ。
それから、もう一つ。
NISA。
この単語も、たしかどこかで始まった。
二〇一四年頃だった気がする。
非課税になるやつ。
細かい制度は覚えていない。
未成年の俺が使えるのかも分からない。
でも、制度が始まるなら、親に説明する材料にはなるかもしれない。
少なくとも、投資という言葉をいきなり出すよりは、勉強、少額、長期、制度という形にしたほうが話しやすい。
俺はノートの余白に、さらに書いた。
親の同意。
未成年口座。
小遣いとお年玉の範囲。
信用取引はしない。
長期保有。
個人用パソコン。
最後の言葉を書いた時、シャーペンの芯が少し折れた。
手元を見る。
机の上には、小銭と封筒と、未来の会社名が並んだノート。
どれもまだ頼りない。
だが、何もないわけではない。
今日、父さんはパソコンを使う時間をくれた。
母さんは心配しながらも、だめとは言わなかった。
白石は自分の場所を少しずつ広げている。
田端は提出物を出しに職員室へ行くようになった。
俺の周りで、いろんなものが少しずつ変わっている。
その変化に比べれば、ノートの上の文字はまだただの予定だ。
でも、予定は増えた。
俺はシャーペンの芯を出し直し、ビットコインの横に、思い出せる会社名をもう一度書き足した。
蛇口だけを探している場合ではないのかもしれない。
そう思いながら、俺はノートの端に、小さく「まずはパソコン」と書いた。