作品タイトル不明
第二十二話「夏休み前の約束」
翌朝、教室に入る時、俺は少しだけ歩幅に気を使った。
昨日、白石に言われた言葉が残っていたからだ。
隣にいたい。
思い出すだけで、背中のあたりがむずむずする。
甘い言葉として受け取りすぎるな、と頭では分かっている。あれは告白ではない。白石が自分の立ち位置を選ぼうとして出した言葉だ。
ただ、それでも「隣」という単語は妙に強い。
朝の昇降口で白石と一緒になった時、俺は半歩前に出そうになって、少し速度を落とした。
今度は落としすぎて、白石に追い越されかけた。
何をやっているんだ。
距離を測ることを意識しすぎて、歩き方までおかしくなっている。
中学生の体で、三十二歳の中身が通学路の歩幅に悩む。
人生二回目でも、こういうところは全然うまくならないらしい。
「佐伯くん」
隣を歩く白石が、少し不思議そうにこちらを見た。
「今日、足痛い?」
「いや、痛くない」
「歩き方が、ちょっと変」
「……努力の途中だ」
「努力?」
「昨日のやつ」
白石は一瞬考えてから、少しだけ口元を緩めた。
「そっか」
それ以上は言わなかった。
からかわれたわけでもないのに、妙に恥ずかしい。
教室に入ると、田端がすでに席にいた。
珍しい。
机の上には、何枚かのプリントが広がっている。
「おはよう、悠真。白石さん」
「おはよう」
「おはよう、田端くん」
田端は二人分の挨拶を受けると、なぜか深刻な顔でプリントを持ち上げた。
「俺、夏休み前に終わるかもしれない」
「何が」
「提出物」
「終わるならいいだろ」
「違う。俺のほうが終わる」
どうやら、昨日職員室で受け取ってきた追加の提出物らしい。
英語のワークと、数学の直し。
表情だけなら、借金の督促状でも届いたかのようだった。
「出せば終わるだろ」
「その一言が重い」
「出さないと終わらない」
「もっと重い」
白石が小さく笑った。
田端はそれに気づいて、少しだけ救われた顔をする。
「白石さん、夏休みって本当に休みだと思う?」
「えっと……課題はあると思う」
「現実的な答えだ……」
「でも、早めに分ければ何とかなるよ?」
「分けるところからお願いします!」
田端が両手を合わせる。
白石は困ったような顔をしたが、嫌そうではなかった。
昨日までなら、俺が間に入っていただろう。
田端の面倒を見るなら俺が見る、と。
でも、今は少し違う。
白石が答えて、田端が頼む。
その流れを、俺は横で見ていた。
見ているだけで、少し落ち着かない。
けれど、悪くない落ち着かなさだった。
◇ ◇ ◇
一時間目の前の学活で、高村先生が夏休み前の予定表を配った。
教室に、薄いざわめきが広がる。
予定表という紙は不思議だ。
そこに「終業式」と書かれているだけで、教室の空気が少し浮く。
同時に、「補習」「三者面談」「課題提出日」という文字が並んでいて、浮いた空気の足首をつかんでくる。
中学生にとって——いや、学生にとって夏休みは、自由の象徴である。
大人の俺から見ると、あれほど長い自由時間はもう二度と手に入らない宝物のようなものだ。
ただ、当時の俺はたぶん、昼まで寝て、適当に宿題を後回しにして、最後に泣いていた。
宝物の使い方が下手すぎる。
「夏休み前に提出するものもあります。終業式の日に慌てないように、今のうちから確認しておくこと」
高村先生が黒板にいくつか書き出す。
ワーク。
読書感想文の本選び。
自由研究の計画。
部活予定。
補習対象者。
最後の文字が出た瞬間、田端が小さく息を呑んだ。
杉浦も同じような顔をしている。
似た者同士だ。
「田端、息をしろ」
「補習って、名前の響きがもう怖い」
「怖がる前に提出物を出せ」
「そこに戻るのか」
「だいたい戻る」
田端は予定表を机に置き、項目を指でなぞった。
真剣に見ている。
たぶん、怖いからだ。
怖さで動けるなら、それはそれで使える。
高村先生は続けた。
「それから、テスト直しの提出がまだの人は、今週中です。分からないところを聞くのは悪いことではありません。放課後に残る場合は、必ず先生に一言伝えてください」
教室の後ろで、何人かがこちらを見た。
最近の勉強会のことは、もう少し広まっているらしい。
広まっていると言っても、大げさなものではない。
佐伯たちが放課後に何かやっている。
白石のノートが見やすいらしい。
あの田端が赤点を回避したらしい。
そのくらいの噂だ。
その中で、榊原は前を向いていた。
予定表を持つ指だけが、少しだけ紙を折っている。
見ていないようで、聞いている。
ああいう時の榊原は、たぶん一番面倒だ。
◇ ◇ ◇
昼休み、予定表は教室中で話題になった。
夏休み中の部活に家族旅行。夏祭りに宿題。そして補習。
同じ「夏休み」でも、見る人間によって顔が違う。
杉浦はサッカー部の予定表を見て「休みがない」と嘆き、田端は補習の可能性に怯え、小野は読書感想文の本を早めに決めたいと言っていた。
「白石さんって、読書感想文とか得意そう」
小野が言った。
白石は弁当箱を閉じかけた手を止める。
「得意かは分からないけど、本は読むほうだと思う」
「やっぱり。私、毎年そこが最後まで残るんだよね」
「本選びを先にすると、少し楽かも」
「それも教えてほしいな」
小野は軽い調子で言った。
白石は一度だけ俺のほうを見た。
昨日なら、俺はその視線にすぐ答えようとしていたかもしれない。
今日は、うなずくだけにした。
白石が自分で決めるのを待つ。
ただし、昨日みたいに妙な距離は取らない。
待つ。
隣で。
言葉にすると、思ったより難しい。
白石は小野のほうへ向き直った。
「放課後なら、少し見られると思う」
俺は箸を止めた。
白石が、自分で約束を作った。
目配せさえしたものの、俺を通さずに。
小野の頼みに、自分の都合を考えて、自分の言葉で答えた。
それは喜ぶべきことだ。
間違いなく。
なのに、胸のどこかで、ほんの少しだけ寂しさに似たものが動いた。
かなり勝手な感情だ。
白石が俺以外にもつながりを作るのは、ずっと望んでいたことのはずなのに。
俺はその感情を、弁当箱の蓋と一緒にそっと閉じた。
閉じたつもりだった。
「悠真」
田端が唐揚げをくわえながら、じっとこちらを見ていた。
「何だ」
「今、ちょっと変な顔した」
「してない」
「した」
「してない」
「白石さんが小野さんと約束した時」
こいつは、どうしてこういう時だけ目がいいのか。
「田端」
「はい」
「唐揚げを食べろ」
「ごまかした」
白石がこちらを見た。
小野も少し不思議そうにしている。
俺は咳払いをした。
「いや、放課後なら俺もいると思う。田端の提出物もあるし」
「俺の提出物が理由に使われた」
「実際そうだろ」
「否定できない」
田端は予定表を見て、肩を落とした。
「夏休み前まで勉強会とか、地獄じゃない?」
「補習よりはましだ」
「それを言われると弱い」
「補習は夏休みに食い込むぞ」
「やる。俺、勉強会やる」
決断が早い。
補習という言葉は、田端にかなり効くらしい。
小野が笑った。
「じゃあ、夏休み前の勉強会、人数増えるね」
「言い方がもう部活みたいだな」
杉浦が横から言う。
いつの間にか話を聞いていたらしい。
「杉浦も来るのか?」
「俺、補習になったら部活に遅れるから」
「理由が現実的だな」
「サッカー部、遅れると走らされる」
「なら勉強会に来た方が後々楽だな」
杉浦はうなずいた。
また机が増える。
田端が運ぶ机も増える。
田端はその未来に気づいたのか、少し遠い目をした。
「俺、勉強より机で鍛えられてる気がする」
「夏休み前には筋力も上がるな」
「求めてない成長」
白石が笑った。
小野も笑う。
杉浦も「机運び部じゃん」と言って笑った。
教室の端で、その笑いを聞いていた榊原がこちらを見た。
目が合った。
榊原は何か言いかけたように見えた。
けれど、言わなかった。
予定表を折りたたみ、鞄の中へ入れる。
白石は一人で笑っているわけではない。
小野がいる。
田端がいる。
杉浦もいる。
その輪に、榊原が今すぐ何かを言うのは難しい。
たぶん、それが教室の空気として少し見え始めていた。
◇ ◇ ◇
放課後、教室の後ろにはまた机の島ができた。
今日は昨日より少しだけ手際がいい。
田端は文句を言いながらも机の足を床に引っかけずに運び、杉浦は答案をちゃんと持ってきた。
小野は読書感想文用の本を二冊、図書室から借りてきていた。
「白石さん、この二冊ならどっちが書きやすいと思う?」
小野が本を机に置く。
白石は表紙と裏のあらすじを見比べた。
「感想文なら、こっちのほうが書きやすいかも」
「なんで?」
「主人公の気持ちが変わるところが分かりやすそうだから。自分ならどう思うかも書きやすいと思う」
「なるほど」
小野が素直にメモする。
白石は、説明しながら少しだけ楽しそうだった。
人に教えるというより、本の話をしている時の顔だ。
こういう顔もするのか、と俺は思った。
また一つ、俺の知らない白石が増えた。
それを嬉しいと思う。
同時に、少しだけ置いていかれるような感じもする。
面倒くさい感情だ。
だが、昨日よりは逃げずに眺められた。
「佐伯、こっち見て」
杉浦が答案を指で叩く。
「数字、今日は入れ替わってないぞ」
「本当だ」
「俺、成長した?」
「した」
「田端、聞いた?」
「俺も成長してる」
「どこが?」
「机運び」
「そこかよ」
田端と杉浦が勝手に盛り上がる。
小野が笑い、白石もつられて笑う。
勉強会というより、ほとんど放課後の小さな溜まり場になってきている。
もちろん、勉強はしている。
提出物も進んでいる。
ただ、そこに笑い声が混ざるようになった。
白石が学校に残る時間に、怖さだけではないものが少しずつ混ざっている。
それが目で見えるような気がした。
◇ ◇ ◇
途中で、高村先生が教室をのぞいた。
「あら、今日も残ってるのね」
田端が背筋を伸ばす。
「先生、俺、提出物やってます」
「田端くんが自分から言うと、先生ちょっと感動するわ」
「感動されるレベルだった」
田端は複雑な顔をした。
高村先生は机の上を見て、小さくうなずいた。
「放課後に残る時は、遅くなりすぎないようにね。夏休み前は部活もあるし、用事も増えるから」
「はい」
俺たちが返事をする。
先生は白石のほうを見た。
「白石さん、小野さんに本の相談をしているの?」
「はい。少しだけ」
「いいね。無理のない範囲でね」
その言い方は、前より自然だった。
過剰に気を使っているわけではない。
ただ、見ている。
白石は小さくうなずいた。
「はい」
高村先生は安心したように微笑んで、職員室へ戻っていった。
先生がいなくなると、田端が小声で言う。
「俺、今ちょっと優等生っぽかった?」
「自分で言うと消える」
「儚い」
杉浦が「田端は提出物界の希望だから」と適当なことを言う。
田端はなぜか嬉しそうだった。
白石が本を閉じて、小野へ返した。
「夏休み前に、もう一回ノート見せるね。感想文の書き方、簡単に分けておくから」
小野がぱっと顔を上げる。
「本当? 助かる」
「うん。放課後なら」
白石がもう一度、自分から言った。
放課後なら。
その言葉は、白石が自分の時間を誰かに渡す言葉だった。
昔なら、たぶん怖くて言えなかったはずだ。
頼まれたら断れずに受けるのではなく、自分で範囲を決めて受けている。
俺はそれを見て、少しだけ胸の奥が温かくなった。
寂しさは、まだある。
でも、その寂しさは俺が処理するものだ。
白石の前に置くものではない。
小野が予定表を広げた。
「じゃあ、終業式の前の日とか?」
「その日は部活ある」
杉浦が言う。
「杉浦くんも来るの?」
「補習回避のために」
「理由が強い」
小野が笑う。
田端が予定表をのぞき込んだ。
「この日なら、俺もたぶん大丈夫」
「たぶん?」
「提出物次第」
「そこは確定させろ」
俺が言うと、田端は予定表に鉛筆で小さく丸をつけた。
「じゃあ、この日。夏休み前の勉強会」
「名前をつけるな」
「名前があるとやる気出るだろ」
「田端は単純だな」
「単純なほうが続くんだよ」
それは少し分かる。
小野が白石を見る。
「白石さん、その日大丈夫?」
白石は予定表を見て、少し考えた。
俺のほうは見なかった。
昨日なら、そこに少し寂しさが勝ったかもしれない。
今日は、ちゃんと見ていられた。
「うん。大丈夫」
白石が答える。
小野は嬉しそうに「ありがとう」と言った。
約束が決まった。
俺が決めたわけではない。
白石と小野が話し、田端と杉浦が混ざり、自然に決まった。
それが少しだけ眩しかった。
◇ ◇ ◇
帰り支度をする頃、教室の外は夕方の色になっていた。
榊原はいつの間にか教室の前のほうに立っていた。
こちらの会話を聞いていたのかもしれない。
表情は読みにくい。
昨日みたいに笑ってはいない。
田端が机を戻しながら、わざとらしく言う。
「いやあ、夏休み前の勉強会、人数増えるな」
「声が大きい」
「宣伝」
「宣伝するな」
田端はへらっと笑った。
その軽さに、榊原のほうの空気が少しだけ動いた。
取り巻きの女子が何か言おうとして、榊原を見る。
榊原は少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。
白石はその視線に気づいていたと思う。
気づいていたが、今日は鞄を抱え込むようには持たなかった。
ノートをしまい、予定表を丁寧に挟んで、鞄のチャックを閉める。
小野が教室の出口で手を振った。
「白石さん、また明日」
「うん。また明日」
白石の返事は、前より少しだけ早かった。
小野が出ていき、杉浦も部活へ走っていく。
田端は「職員室に寄る」と言って、また廊下の向こうへ消えた。今度は本当に提出物を出しに行くらしい。
教室には、俺と白石が少しだけ残った。
昨日と同じようで、少し違う。
机一つ分の距離を気にしていた昨日より、今日は白石のほうからこちらへ歩いてきた。
「佐伯くん」
「ん?」
白石は鞄の持ち手を両手で握っていた。
少しだけ、言い出すタイミングを探している顔だった。
「さっきの勉強会」
「夏休み前のやつ?」
「うん」
白石は一度、予定表の入った鞄へ視線を落とした。
それから、俺を見る。
「佐伯くんも、来るよね?」
胸の奥を、何かが軽く叩いた。
小野と約束した。
田端も杉浦も来る。
白石は、俺がいなくてもその場にいられる。
それでも、聞いてきた。
来るよね、と。
俺は変に考えすぎる前に、答えた。
「行くよ」
白石の表情が、少しだけほどけた。
「よかった」
それだけで、また変な名前をつけたくなる。
つけるな。
今はまだ、つけるな。
廊下から足音が戻ってきた。
「俺もいるからな」
田端だった。
職員室から戻ってきたらしい。手にプリントは持っていない。しっかり提出できたのだろう。
「聞いてたのか」
「聞こえた」
「お前は本当にいいところで戻ってくるな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「ならいいか」
白石が少し笑った。
さっきの「よかった」で柔らかくなった表情のまま、田端を見る。
「田端くんも、来るんだよね」
「もちろん。補習回避のために」
「うん。頑張ろう」
「白石さんに言われると逃げられないな」
田端は大げさに肩を落とした。
俺たちは三人で教室を出た。
廊下には夕方の光が伸びている。
昨日より一人ぶん多い足音。
いや、足音の数は同じか。
ただ、何かが少し増えたような気がした。
白石は俺の隣を歩いていた。
半歩前でも、半歩後ろでもなく。
そして田端が、そのさらに横で提出物の大変さを延々と語っている。
甘酸っぱい空気だけで終わらせてくれないあたり、田端はある意味で貴重だった。
昇降口に向かいながら、白石が予定表の入った鞄を軽く押さえた。
夏休み前。
勉強会。
約束。
未来知識とは何の関係もない予定が、俺の前に一つ増えた。
たぶん、こういう予定のほうが忘れにくい。