作品タイトル不明
第二十四話「補習回避と夏休み前の勉強会」
補習という言葉には、人を素直にする力がある。
少なくとも、 田端和也(たばたかずや) にはかなり効いていた。
朝の教室に入ると、田端は自分の席で数学の答案を両手で持ち上げていた。賞状でも受け取ったのかという姿勢だったが、点数だけ見ればそこまでめでたい数字ではない。
ただし、田端本人にとっては別らしい。答案の端を指で押さえながら、やたらと神妙な顔をしている。
「悠真」
「おう」
「俺、生き残った」
「大げさだな」
「補習じゃなかった」
「それは大きいな」
「分かってくれるか」
「夏休みの午前中を学校に奪われないのは大きいからな」
「言い方が大人っぽい」
元社会人なので。
とは言えない。
俺は鞄を机に置き、田端の答案をのぞき込んだ。
平均点より少し下。胸を張れる点数ではないが、赤点ではない。提出物も昨日のうちに出している。補習対象から外れるには、ぎりぎり足りている。
この「ぎりぎり足りている」という響きが、今の田端には何よりも甘いのだろう。
前の人生なら、俺も似たようなものだった。人間、余裕で勝てるより、ぎりぎり助かった時のほうが記憶に残ることがある。
「白石さんにも見せてくる」
「なぜ」
「恩人だから」
「俺じゃないのか」
「悠真も恩人。白石さんは答案を読みやすくしてくれた恩人」
田端は妙に律儀なことを言い、教室の後ろの席へ向かった。
そこにいた 白石澪(しらいしみお) は、鞄からノートを出しているところだった。
田端が答案を差し出すと、白石は少し驚いた顔をした後、点数を見てほっとしたように笑った。
「よかったね、田端くん」
「よかったです」
「敬語になってる」
「命の恩人には敬意を払うタイプなので」
「大げさだよ」
白石はそう言って笑った。
前よりも、笑うまでの時間が少し短くなった気がする。
それだけのことなのに、俺は机の横で妙に満足していた。
自分が褒められたわけでもないのに、なぜか少し誇らしい。
こういう感情は扱いが難しい。白石が変わっていくのは嬉しい。嬉しいのに、そこへ自分の手柄みたいな顔をした瞬間、たぶん何かが濁る。
俺は田端の答案から目を離し、自分の机に戻った。
◇ ◇ ◇
昼休みになる頃には、田端の「補習回避」は小さな話題になっていた。
いや、正確には田端が自分で言いふらしていた。
教室のあちこちで答案を見せ、ついでに「俺は帰ってきた」とか何とか言っている。どこから帰ってきたのかは知らない。少なくとも、数学の地獄からは片足だけ戻ってきたらしい。
サッカー部の 杉浦健太(すぎうらけんた) も、弁当を食べながら深く息を吐いていた。
「俺も補習なしだった」
「杉浦もか」
「数学、危なかった。あと提出物出してなかったら終わってた」
「出してよかったな」
「本当に。部活の朝練より怖かった」
杉浦はかなり真顔だった。
部活に遅れると走らされる、という話を前に聞いた。たぶん補習そのものより、補習によって部活に支障が出ることのほうが恐ろしいのだろう。何とも難儀なことだ。
目的は何でもいい。
動く理由があるなら、それで十分だ。
中学生の頃の俺なら、「部活のために勉強するなんて変だ」と思ったかもしれない。
今の俺からすれば、理由の入口なんて何でもいい。単位のため、怒られないため、補習を避けるため、好きな子に情けないところを見せないため。きれいな目的だけで人間が動けるなら、社会人はもう少し健康に働いている。
「今日の放課後、最後にもう一回やらない?」
小野美咲(おのみさき) が、弁当箱を片づけながら言った。
「最後?」
田端が箸を止める。
「夏休み前の勉強会。提出物の確認もあるし、この前決めた本のメモも見てもらいたいし」
「夏休み前に勉強会って、字面だけ見ると損した気分になる」
「田端くんは補習よりいいんじゃない?」
「それを言われると弱い」
小野は笑って、白石のほうを見た。
「白石さん、この前の感想文メモ、また少し見てもらっていい?」
白石はペットボトルのふたを閉めかけた手を止めた。
一瞬だけ、こちらを見る。
俺は何も言わなかった。
うなずくこともしない。見ているだけにした。
助け舟を出すのは簡単だ。
でも、白石が自分で渡れる橋まで、俺が先に歩いてしまうのは違う。
そんなことを考えながらも、内心では少し落ち着かなかった。
白石は小野に向き直った。
「うん。私でよければ」
「助かる。読み始めたんだけど、どこを書けばいいのか分からなくなってきて」
「印象に残った場面を先に一つ決めると、少し書きやすいかも」
「一つでいいの?」
「うん。最初から全部書こうとすると、たぶん大変だから」
小野が「なるほど」と素直にうなずいた。
白石の声は大きくない。
それでも、前より聞き取りやすかった。
怖がっていないわけではないと思う。たぶん、緊張はしている。けれど、言葉の最後が消えなくなっている。
田端が横から口を挟んだ。
「感想文って何書くんだっけ?」
「自分がどう思ったか、とか」
「俺も変わった」
「田端くん?」
「補習を回避した男になった」
「それは感想文にはしにくいかも」
「厳しい」
白石が小さく笑い、小野もつられて笑う。
杉浦は「タイトルだけは強い」と適当なことを言った。
その輪の中で、白石は自分のノートを開き、読書感想文の書き方を簡単に分けていた。
あらすじ。
印象に残った場面。
自分ならどう思うか。
読み終わって考えたこと。
きれいすぎるテンプレではない。
小野が書き出せるように、白石なりに噛み砕いている。
俺はそれを横で眺めながら、少しだけ変な気分になっていた。
白石のノートの見やすさは前から知っている。几帳面で、行間の取り方がうまくて、色の使い方も控えめなのに分かりやすい。
ただ、それを誰かに合わせて使っているところを見るのは、また別だった。
白石は、ただ助けられている子ではない。
分かっていたはずなのに、実際に目の前で見ると、改めてそう思う。
◇ ◇ ◇
放課後の教室は、夏休み前特有のざわつきが残っていた。
部活へ走っていく生徒。
提出物を抱えて職員室へ向かう生徒。
机に突っ伏している生徒。
みんな少しずつ浮いているのに、紙の束だけは現実を突きつけてくる。
俺たちは教室の後ろに机を寄せた。
田端がいつものように机を運び、杉浦がそれを手伝う。
以前より手際がいい。田端は「机運びだけ上達してる」とぼやいていたが、上達しないよりはましだ。
「今日は提出物確認と、感想文メモの見直しな」
俺が言うと、田端が手を挙げた。
「先生、プールの予定は?」
「誰が先生だ」
「悠真先生」
「やめろ。急に老け込みそうだ」
「中二なのに?」
「中二なのに」
田端はけらけら笑った。
笑いながらも、鞄から英語のワークを出している。
そこは成長だ。
杉浦は数学の直しを机に置き、小野はこの前選んだ本と、何行か書き込んだメモ用紙を並べた。
白石はノートを開き、小野のメモに目を通している。
俺は自分のワークを開きながら、その様子を見ていた。
昨日の夜、机に並べた小銭とお年玉の封筒が頭をよぎる。二万二千七百十円。未来を変える男の全財産としては、泣けるくらい現実的な金額だった。
それでも、今ここで提出物を片づけていることも、白石が誰かのメモを一緒に見ていることも、たぶん同じくらい大事なのだと思う。
金を増やす前に、信用を増やす。
言葉にするとひどく地味だ。
でも、この地味さを飛ばしたら、たぶん後で足をすくわれる。
「白石さん、ここ、あらすじばっかりになってる気がするんだけど」
小野がメモ用紙の真ん中あたりを指した。
白石は少し考えてから、メモの余白に小さく丸をつけた。
「この場面で、小野さんがどう思ったかを一行足すといいと思う」
「一行でいい?」
「最初は一行でいいと思う。そこから、なんでそう思ったかを書けば広げやすいから」
「白石さん、説明分かりやすいね」
小野がさらっと言った。
白石の指が、ノートの端で止まる。
褒められ慣れていない顔だった。
どう返せばいいのか分からず、視線が少し泳ぐ。
俺は口を開きかけた。
やめた。
田端が黙ってこちらを見る。
なぜか、あいつまで少し待っている。
こういう時だけ妙に空気を読むのは、なんなんだ。
白石はノートに視線を落としたまま、小さく息を吸った。
「本を読むの、好きだから。あと、考えるのも、たぶん嫌いじゃないから」
それだけだった。
でも、ちゃんと答えた。
小野は「そっか」と笑った。
「じゃあ、夏休み中におすすめも教えて」
「うん。私でよければ」
白石はまた、自分で返した。
田端が俺の脇腹を肘で軽くつつく。
「何だよ」
「今の、よかったな」
「……田端がまともなことを言うと身構える」
「俺だってたまには言うわ」
田端は少しむくれた。
それから、英語のワークを開いて固まった。
「悠真」
「今度は何だ」
「ここ、昨日やったところなのに分からない」
「田端がまともでいられる時間、短かったな」
「儚い」
杉浦が噴き出し、小野が笑った。
白石も声を出さずに笑っている。
放課後の教室で、笑い声が変に浮かなかった。
それが、少し不思議だった。
◇ ◇ ◇
途中で、 高村由香(たかむらゆか) 先生が教室をのぞいた。
「今日も残ってるのね」
田端が勢いよく顔を上げる。
「先生、俺、補習なしでした」
「知ってるわよ。提出物も出したのよね」
「はい」
「田端くんが自分から報告してくれると、先生ちょっと安心する」
「俺、そんなに信用なかったですか」
「今、作ってるところね」
高村先生はにこりとした。
田端は「今、作ってるところ……?」と復唱して、妙に納得した顔をした。
それは、かなり正しい。
信用は、急に出現しない。
昨日までの行動が積み上がって、今日ようやく少し見えるようになる。
俺はそこで、自分の父さんの顔を思い出した。
成績表を見せた時の、少し驚いたような表情。
家のパソコンを使う条件を出してきた時の慎重な声。
信用は万能の鍵ではない。
でも、鍵穴の前まで行くための通行証くらいにはなる。
そう思うと、田端の提出物も、白石が見ている読書感想文メモも、妙にばかにできなくなってくる。
高村先生は机の上を見て、小野のメモに目を止めた。
「読書感想文のメモ?」
「はい。白石さんに見てもらってました」
小野が言う。
高村先生は白石を見る。
前なら、白石はその視線だけで固まっていたかもしれない。
今も少し背筋は伸びたが、逃げる感じではなかった。
「白石さん、説明が丁寧なのね」
「得意かは、分からないです。でも、少しなら」
「無理のない範囲でね。人に教えると、自分の整理にもなるから」
「はい」
白石はうなずいた。
高村先生はそれ以上踏み込まず、俺たち全員に向けて言った。
「遅くなりすぎないように。夏休み前は気持ちが浮くから、帰り道も気をつけて」
「はい」
全員で返事をする。
先生が職員室へ戻ると、田端が小声で言った。
「今の俺、優等生グループの一員っぽくなかった?」
「優等生は自分で言わない」
「じゃあ違うか」
「違うな」
「即答やめて」
杉浦が「田端は補習回避グループ」と雑に分類した。
田端はそれでなぜか満足していた。
◇ ◇ ◇
勉強会という名前の放課後の集まりは、思ったより早く形になっていった。
田端は英語のワークを終わらせ、杉浦は数学の直しを残り二問まで減らした。
小野は読書感想文の書き出しを決め、白石から簡単なメモの作り方を聞いている。
俺はその横で、自分の参考書リストを作っていた。
夏休みにやるべきことは多い。
数学の穴を埋める。
英語を戻す。
図書館で調べ物をする。
参考書を買う。
父さんにパソコンの使い道を説明できるようにする。
そして、できれば夏休みらしいこともする。
前の俺なら、そんなものは後回しにしていただろう。後回しにして、結局何も残らない夏休みを過ごした気がする。
今は違う。
違う、と言い切りたい。
ただ、全部を完璧にやれるほど器用でもない。
「なあ、夏休みってさ」
田端が突然、ワークから顔を上げた。
「何だ」
「勉強だけで終わったら負けじゃない?」
「誰との勝負だ?」
「夏との勝負」
「壮大だな……」
「プール行こうぜ。あと夏祭り」
杉浦が顔を上げた。
「市民プールなら、部活休みの日に行けるかも」
「小野さんは?」
「予定が合えば。夏祭りは行きたいなあ」
小野はわりと乗り気だった。
田端は勢いづいて、白石のほうを見る。
「白石さんもどう?」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まった。
田端の誘い方は軽い。
悪気も圧もない。
それでも、白石にとっては外で誰かと遊ぶ約束だ。教室で勉強するのとは違う。
俺は白石を見た。
答えを急がせないように、何も言わない。
白石はノートの端に置いていたシャーペンを、指先で軽く転がした。
迷っている。
けれど、嫌そうではなかった。
「……予定が合えば」
白石が言った。
田端はぱっと顔を明るくした。
「じゃあ候補日決めようぜ」
「待て。お前はまず提出物を全部終わらせろ」
「それはそれ、これはこれ」
「同じだ」
「厳しい!」
小野が笑いながら、白石に言う。
「図書館も行こうね。家だと、たぶん途中でだらける」
「うん」
白石は小さくうなずいた。
その返事は、さっきより少しだけ早かった。
俺はそれを聞いて、胸の中のどこかがゆっくり緩むのを感じた。
白石の予定が、俺だけを経由しなくなっている。
小野がいて、田端がいて、杉浦がいる。
白石自身が、その輪の中で返事をしている。
嬉しい。
少し寂しい。
それから、たぶん安心している。
感情に名前をつけようとすると、どれも少し外れている気がした。
最近、そういうことが増えた。白石を見る時も、自分の未来を考える時も、きれいに分類できないものが増えている。
まあ、分類できないからといって、全部捨てる必要はない。
社会人時代の俺は、分からないものを後回しにしすぎた。
今はせめて、分からないまま持っておくくらいはしたい。
田端が予定表を広げ、鉛筆で丸をつけた。
「じゃあ、終業式終わったら一回図書館行こう。プールはそのあと考える。夏祭りは絶対」
「お前、急に仕切るな」
「夏休み担当大臣だから」
「存在しない役職を作るな」
杉浦が「大臣、提出物終わってません」と報告する。
田端は「それは副大臣に任せる」と言った。
副大臣が誰なのか分からないまま、小野が笑い、白石も笑った。
外では、部活の掛け声が聞こえていた。
窓の向こうの空はまだ明るい。
夏休みは、もうすぐそこまで来ている。
田端が予定表を机の真ん中に置き、得意げに言った。
「夏休みなんだから、勉強だけで終わったら負けだろ!」
白石が、声を出さずに笑った。