作品タイトル不明
第5話 父の自慢
レオン殿下が、王になると決意した日。
その夜、俺は領主館の奥にある小さな居間で、リエネと向かい合っていた。
家族だけが使う、暖炉と古い長椅子のある部屋だ。
外ではまだ、救助された王都兵の出入りで屋敷中が慌ただしい。
けれど、この部屋だけは妙に静かだった。
俺がそこまで話すと、リエネは手元の茶器に視線を落としたまま、頷いた。
相変わらず、うちの嫁はクールビューティだ。
「……驚かないのか」
「そんなことございません。ただ、遠い未来……こうなるかもしれないとは思っておりましたから」
「殿下が王になると?」
「いいえ。殿下が、王位から逃げきれない日が来るかもしれない、と」
「そうか……」
「それに、わたくしも両親も、殿下の即位を望んでおりましたから」
「え? どうしてだ?」
「今でこそ、実家は中立の記録官家として扱われております。けれど、もとはレオン殿下のお母様に近い家でした」
「……そうだったのか」
「はい。殿下の御母上、セレスティア様は、派手な後ろ盾こそありませんでしたが、地方文官や記録官、王宮の穏健な者たちから信頼されておられました」
リエネは、カップをそっと受け皿へ戻した。
「幼い頃に、一度だけお目にかかったことがあります」
「レオン殿下の母上に?」
「お顔はもうおぼろげですが、手の温かい方だったことだけは覚えております」
「手?」
「……わたくしが父の後ろに隠れていたら、セレスティア様は膝を折って、わたくしと目線を合わせてくださいました。王族の方が、記録官の娘にです」
「……」
「父は、その日のことをずっと忘れませんでした。あの方は、人を身分で見ない、と」
「……今の殿下と似てるな」
俺は、あの時の殿下の顔を思い出した。
凍えた王都兵に、声をかけていた姿を。
「しかし、お前の実家は大丈夫なのか? オルト爺が、王都は複雑だって脅してきたんだが」
「……第一王子殿下は、少なくとも表向きは、正統性を重んじておられます」
リエネは、茶器の縁に指を添えた。
「理由もなく記録官家を潰せば、殿下ご自身の足場を傷つけます」
「なら、大丈夫か」
さすがに、古くから仕える家をいきなり潰しはしないだろう。
そう思うと、少し肩の力が抜けた。
「……ええ」
茶器を受け皿へ戻す音が、部屋に小さく響いた。
「殿下は、レオノーラをどうするんだろうな」
俺がそう言うと、リエネは視線を落としたまま、問い返した。
「あなたは、どうお考えなの?」
「え? 俺か」
「そりゃあ……誇らしいだろ。俺たちの娘が、王妃になるかもしれないんだぞ」
口にしてから、胸が熱くなった。
レオノーラは北方育ちとはいえ、礼儀作法はリエネと、リエネの実家に叩き込まれている。
王都の令嬢たちに混じっても、見劣りするような娘ではない。
それに、領地の金の出入りも、宿駅の運営も、少しずつ見せてきた。
どこへ出しても、恥ずかしくない娘だ。
俺がそう言うと、リエネは息を吐いた。
「あなたは……時々、夢を見る少年のようなことをおっしゃいますわね」
「そんなことはない」
俺は即答した。
「今回だって、王都へ向かうのに大金が飛ぶことでな……頭を抱えているのだぞ……」
「そこですか。ですが、仕方がありませんでしょう」
「そうだが……普通の男爵家なら、この時点で詰んでるぞ」
「貯蓄は十分にございます」
「……あるには、あるけど……」
うちは、他の男爵家よりは稼いでいる。
北方街道を整え、宿駅を置き、馬替え場と倉庫を作った。
商人から無理に搾るのではなく、この道を使う方が得だと思わせた。
荷は、流れてこそ金になる。
地味だが、金は貯まった。
だが。
「……銀婚式のために、貯めてたのに……」
思わず、ぼそりと漏れた。
リエネが、目を瞬かせた。
「まあ」
「いや……だって、あんまり結婚式で金をかけられなかっただろう。あの時は、領地開拓を優先させて……」
リエネは当時、納得してくれた。
むしろ、俺よりも節約を心がけてくれた。
うちの嫁は、女神だ。
「リエネには、ちゃんとした式も、贈り物も、あまりしてやれなかったからな……」
俺は目を逸らした。
「だから、銀婚式くらいは、ちゃんとやろうと思ってたんだよ」
リエネは、しばらく何も言わなかった。
「……貴方は、意外とロマンチストでしたわね」
意外とって何?
「わたくしと王都でお会いする時、いつも花を贈ってくれたでしょう」
「……それくらいしか、あげられなかったからな」
「わたくしは、それで十分でしたの」
俺が顔を上げると、リエネは微笑んでいた。
リエネと連れ添って、もう二十年以上になる。
旧家の娘だったのに。
平民上がりで、何もなかった北方へついてきてくれた。
駄目出しはよくされたが、王都の夜会にも領主夫人として出てくれ、いつも俺の隣にいてくれた。
その顔に、王都で出会った頃にはなかった、目尻の小さな皺ができていることに気づいた。
うん。
うちの嫁は、変わらず美しかった。
◆
リシュアンは、この二週間、ほとんど休んでいなかった。
救助の初日から三日目までは宿駅を回り、宿駅番や猟師、女衆、荷馬車の御者にまで話を聞いて回ったそうだ。
その後は、ほとんど執務室に籠もりっぱなしだったらしい。
見に行った時には、机の上に救助者名簿だの、宿駅ごとの収容記録だの、物資使用の控えだのが山になっていた。
そして、その山の中にリシュアンが埋もれていた。
「……父上」
紙束の向こうから、息子の声がした。
「こちらが第三宿駅分です。第一宿駅と第四宿駅は、まだ照合中ですが、明朝までには……」
顔を見たら、なんかクマができていた。
肌が白いから、余計に目立つ。
美少年だろ。
気にしろよ。
「後は俺がやるから、お前は休んでろ」
「日が経てば、金額も証言も曖昧になります。今のうちにまとめなければ」
リシュアンのやりかけの紙を一枚、手に取る。
紙には、第三宿駅へ運び込まれた兵の名前と、発見場所、発見した者、搬送に使った荷橇の数まで書かれていた。
……こんな細かく分けて記録を取っているのか。
いや、必要なんだけど。
お前、まだ十五だよね?
「リシュアン、もうここまでしてくれたら十分だ」
「いえ、まだです。第一宿駅の分に取りかかるところで――」
「リシュアン」
声を低くすると、リシュアンの手が止まった。
「お前が倒れたら、元も子もない」
「……そんなことは」
「それに、お前がここまで形にしたから、あとは他の者にも振れる」
「ここまで私が揃えたものを、他の者に任せるのですか」
「お前しか把握してないなら、お前が倒れた瞬間に終わるだろうが」
「あ……」
「次期当主の仕事は、全部自分でやることじゃない。上手く人を使うのも当主の仕事だ」
……偉そうに言ってるが。
前世で上司によく言われたセリフなんだよな。
「……はい」
リシュアンは、ようやく頷いた。
俺は手を伸ばし、リシュアンをひょいと肩に担いだ。
「っ、父上?」
「重くなったなぁ」
そのまま担いで部屋を出た。
「父上、下ろしてください。私はもう子供ではありません!」
「俺から見れば、まだまだ子供だ。いや――」
そこで、言葉が止まった。
子供だと言い切ってしまいたかった。
だが、この先のことを考えると、それだけで済ませることもできなかった。
「俺は、殿下を王都へ送らなければならん」
肩の上で、リシュアンの身体が強張った。
「だから、領地はお前に託す」
「……承知しました」
「だが、まずは寝ろ」
リシュアンが、ほんの少しだけ肩の上で力を抜いた。
そのまま俺は、寝室まで担いで歩いた。
まだ、俺が担げる重さだった。
◆
救助から二週間が過ぎる頃には、宿駅の空気も少し変わっていた。
王都兵たちは、まだ全員が動けるわけではない。
それでも、最初に運び込まれた時のような死の匂いは薄れていた。
「そろそろ、返せる奴は返せそうだな」
動ける者からまとめて王都へ返す。
北方に長く留めれば、余計な疑いを招くからだ。
兵を抱え込んだと言われても面倒だし、食わせ続けるにも金がかかる。
そして、もう一つ変化がある。
レオノーラが来る時間になると、兵たちの姿勢がよくなった。
寝台に沈んでいた若い兵が、慌てて上体を起こす。
髪を手で整える奴や、さっきまで文句を言っていた男が、咳払いをして黙る。
……お前ら、分かりやすすぎるぞ。
「熱いので、ゆっくり召し上がってください」
レオノーラが椀を差し出すと、若い兵は両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
声が小さい。
しかも、耳が赤い。
「お口に合いませんか?」
「い、いえ! とても……その、ありがたいです」
……何なんだ、この空気。
いや、分かるけど。
ふと、レオン殿下の方へ目をやった。
殿下は広間の奥で、片腕を吊った兵が水を飲むのを手伝っていた。
その視線が、微笑むレオノーラへ向く。
殿下は、目を細めていた。
まるで、眩しいものを見るような顔だった。
……分かる。
分かるぞ、殿下の気持ちも!
そのとき、近くで椀を抱えていた古参の兵が、ぽつりと呟いた。
「あの方は……本当に王族なのかね」
「どういう意味だ」
「わしらの名前まで覚えようとしておられる」
「まじで?」
「ええ。昨日は、咳をしていた若いのに声をかけておられました。今日は咳が軽いな、と」
「よく見てるなぁ」
「王都では、兵の名など、よほど近くにいる者でなければ覚えられません」
「それどころか俺は、上官に名前を呼ばれた覚えなんか、ほとんどないぞ」
「……あの方は、兵を数で見ておられない」
老兵は、椀に視線を落として呟いた。
「少なくとも、わしにはそう見えます」
俺は腕を組んだまま、広間の奥を見た。
レオン殿下が、兵に何かを言っている。
言われた若い兵は、目元を赤くして、何度も頷いていた。
俺は、声を落として古参兵に尋ねた。
「……殿下について行く、って兵士。出てきそうか?」
古参兵はすぐには答えず、椀の中の粥をゆっくりとかき混ぜた。
「今すぐ剣を取る者は、多くないでしょう」
「まあ、そうだよな」
「皆、疲れており、怪我もあります。王都に家族がいる。オルト隊長に従って来た者も多い」
「家が第一王子派に近い奴もいるだろうしな」
「ですが、王都に戻って、第二王子殿下が兵を見捨てた、と言われれば……黙っていられない者は出るでしょうな」
それも、何となく分かる。
忠誠ではない。
恩だろう。
できれば、王都へ向かうにあたって、こいつらを味方につけたかった。
王都兵が第二王子殿下の側に立てば、これ以上ない牽制になる。
だが、無理強いはできない。
こいつらには、こいつらの事情がある。
それに――殿下が、それを望むとは思えなかった。
「旦那様〜」
背後から声をかけられた。
振り返ると、バーデンが入口に立っていた。
「そろそろ、皆が集まるわ」
「ああ、そんな時間か」
俺は椅子の背にかけていた上着を取り、袖を通した。
「殿下、打ち合わせだ。そろそろ行こう」
「分かりました」
殿下は広間を一度見回し、それからこちらへ歩いてきた。
バーデンが、小声で俺に言う。
「王都兵は、誰か連れていくの?」
「まだそこまでじゃないな」
「でしょうねぇ。でも、証言に立つ者は必要よ」
「オルト爺だけじゃ駄目か?」
「駄目ね」
バーデンは即答した。
「指揮官だから余計よ。一人だと、どうとでも潰せるのよ」
俺たちは第三宿駅を出た。
外の空気はまだ冷たい。
雪はだいぶ溶けたが、道の端には白く固まった名残が残っている。
俺は手綱を受け取り、鐙に足をかける。
「じゃあ、兵士の証言はどのくらい必要だ?」
「できれば複数。しかも、立場の違う者ね」
バーデンも馬に跨りながら言った。
「オルト爺の配下から古参を一人。監察役の命令を聞いた伝令役を一人。あとは、下っ端の若い子ね」
「若いのもいるのか?」
「いるわよ。偉い人間ばかりでは、口裏を合わせたと言われるわ。下の兵が同じことを言えば、潰しにくくなるでしょう」
「なるほどなぁ」
俺は少し前を行くレオン殿下へ視線を向けた。
「そうだ……殿下」
「何でしょう」
「レオノーラには、伝えたのか?」
殿下の馬が、ほんの少し足を緩めた。
「まだです……」
「……殿下は、レオノーラをどうするつもりなんだ?」
横顔が、わずかに強張った。
馬の蹄の音だけが、しばらく続く。
「……私はレオノーラ嬢を、これ以上巻き込みたくありません」
「それは、レオノーラと別れるということか?」
レオン殿下の手が、手綱を握り直した。
それを見て、俺は息を吐いた。
そりゃあ、そうだよなぁ。
そう簡単には――。
「考えなかったわけではありません。今の私には……何も約束できませんから」
「……まあ、そうだよな」
「王都へ着く前に死ぬかもしれない。王になれたとしても、どのような形で即位することになるか分かりません」
「……」
「だから、軽々しく迎えに来るとも、妃にするとも言えません。ですが――」
殿下は、まっすぐ俺を見た。
「私は、彼女の隣で生きたいと言ったことを、取り消すつもりはありません」
俺は、しばらく殿下を見た。
「それは……王になってもか?」
「はい」
「……そうか」
言い切ったなあ。
レオン殿下の横顔を見ると、なんか、言ってすっきりしたような顔をしていた。
やだ、かっこいい。
「……なぁ、殿下」
「はい」
「王家に嫁がせる時……持参金て、どのくらい必要だ?」
レオン殿下は、目を瞬いた。
「持参金、ですか」
バーデンが馬上で肩を震わせた。
「いやねぇ……この流れでその話する?」
「大切な話だろう」
「今、とってもいい話してたのに……急に……金の話……」
「笑うな!」
「私が王になれたなら……レオノーラ嬢を迎えるために、男爵家へ無理を強いるつもりはありません」
「それは駄目だ」
「え?」
「娘をただでやるみたいじゃないか」
「旦那様……変なところで頑固なんだから」
「うるさい」
「……ですが、旦那様。私は、レオノーラ嬢を金で迎えたいわけではありません」
「それは分かってる」
「では――」
「でもな、殿下」
俺は手綱を握り直した。
「親には、親の意地ってものがあるんだよ」
レオン殿下は、少しだけ黙り、それから深く頷いた。
そんな話をしているうちに、領主館が見えてきた。
◆
領主館の会議室には、すでに人が集まっていた。
長卓の上には、地図と、王家へ提出する救助費用の明細が並んでいる。
リエネは上座に近い席で、王都の実家へ送るための書状を確認していた。
リシュアンはその横で、宿駅ごとの記録を広げ、リエネに確認を取っている。
しばらく休んでいいと言ったのだが、どうしても気になると言って聞かなかった。
……誰に似たんだ、こいつは。
たぶん、俺ではない。
オルト爺は椅子に腰かけ、地図の上に置かれた小石を眺めていた。
そして長卓の反対側には、ギデオン・ラウルが腕を組んで立っていた。
元国境軍の下士官で、俺がこの地に来たばかりの頃から、領兵と宿駅警備をまとめている男である。
顔は怖いし、声も怖い。
若い兵士にビビられる。
だが、兵の面倒見はいい。
あと、なぜか子供には好かれる。
「旦那様、お疲れ様です。遅かったですね」
「娘の婿候補と金の話をしていた」
「……今ですか」
ギデオンが、心底嫌そうな顔をした。
レオン殿下が、俺の隣で軽く頭を下げた。
「貴重な時間をいただき、感謝します」
ギデオンは姿勢を正した。
「……ギデオン・ラウルです。ヴァルグレイヴの兵を預かっております」
「話は聞いているな」
俺が言うと、ギデオンは頷いた。
「旦那様。連れていける兵は多くありません」
ギデオンは地図へ目を落とした。
「北方を空にはできません。王都に向かう道中より、留守中の方が危うい」
「それについてだが――」
その時、慌ただしい足音が聞こえたと思ったら、扉が叩かれた。
入ってきたのは、門番の一人だった。
顔色が悪い。
「王都より、使者が参りました」
「使者?」
「はい。王宮の印を持っております。至急、旦那様にお渡しするようにと」
バーデンが、椅子の背から身を起こした。
「早いわねぇ」
「通せ」
俺が言うと、門番は一礼して下がった。
しばらくして、王都の使者が部屋へ通された。
旅装のままだが、外套には王宮使者の徽章が留められている。
その男は、室内を見回した。
レオン殿下を見た瞬間、わずかに目を見開かせたが、すぐに頭を下げた。
「北方男爵殿。王宮より、緊急の通達にございます」
使者は、封書を差し出した。
封蝋を一目見て、リエネが眉を動かした。
「……陛下の印ではありませんわね」
使者は目を伏せた。
「第一王子府と、王宮臨時会議の名で出された通達にございます」
「緊急って言葉、乱用しすぎだろ」
俺は封を切り、そこに書かれた文字を目で追った。
「……故王陛下崩御に関し、毒物使用の疑いあり」
俺は、思わず声に出していた。
「当該毒物、北方街道を経由して王宮へ搬入された疑いあり。ついては、北方男爵家および関係商会に対し、調査への全面協力を命ずる――」
そこで、言葉が止まった。
「……は?」