軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 エスメラルダの矜持

王宮西翼、王妃宮に近い控えの間には、夜更けだというのに明かりが落とされていなかった。

本来なら、王妃が親しい貴婦人たちと密やかに言葉を交わすための部屋である。

だが今は、長卓の上に地図が広げられ、封の切られた指示書と、まだ空欄の多い布告文が並べられていた。

布告文の一枚には、すでに途中まで文面が書かれている。

『第二王子レオンハルト殿下、北方男爵家より――』

その先は、まだ空欄のままだった。

文官たちは、北方からの報告が届き次第、そこに入れる言葉を決めるつもりでいた。

「遅い」

第一王子アルベールは、長卓の端を指で打った。

整った顔には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。

「北方の道は雪で遅れます。殿下、今しばらくお待ちを」

王妃の実家から来ている侯爵が、低い声でなだめた。

王妃イザベラは窓際の椅子に腰かけ、閉じた扇を指先で弄んでいた。

「遅れるのは構いません。問題は、レオンハルトを確保できたかどうかですわ」

部屋にいた文官たちは、目を伏せたまま黙っていた。

長卓の上には、北方男爵家の名が記された布告文がある。

王宮命令への不従順。

第二王子殿下の保護妨害。

地方領主への調査命令。

どれも、まだ正式な印は押されていない。

扉の外が、急に騒がしくなった。

近衛副長オズワルド・ケインが顔を上げる。

「報告か」

扉が叩かれ、伝令が転がり込むように入ってきた。

雪と泥で外套は汚れ、顔色は青い。

礼の姿勢を取ろうとして、膝が崩れた。

「ほ、北方より、急報にございます」

アルベールは眉を寄せた。

「急報? レオンハルトは」

伝令は、すぐには答えなかった。

「申せ」

オズワルドが促す。

伝令は喉を鳴らし、かすれた声で言った。

「第二王子殿下の保護は……かないませんでした」

長卓の上で、アルベールの指が止まった。

「……何?」

アルベールは伝令を見下ろしたまま、次の言葉を待っていた。

長卓の周囲にいた者たちも、息をひそめた。

文官の一人が、途中まで書かれた布告文へ視線を落とす。

イザベラも、扇を弄ぶ指を止めていた。

「……王都軍は北方街道にて吹雪に遭い……多数が遭難。隊列も、崩れたとのことです」

「……は?」

アルベールの頬に浮かびかけていたものが、そのまま凍りついた。

誰も、すぐには声を出せなかった。

文官たちは顔を見合わせ、オズワルドも眉を寄せた。

侯爵でさえ、すぐには意味を飲み込めない顔をしている。

「……遭難ですと?」

イザベラはそう言ったきり、閉じた扇を握ったまま動かなかった。

「なぜだ」

ようやく、文官の一人が口を開いた。

「なぜ、王都軍が遭難など……」

伝令は、青ざめた顔のまま唇を震わせた。

「進行中に吹雪に遭い……その、隊列が伸びたところを……」

アルベールは、ようやく地図の上へ視線を落とした。

「オルト・ハーゲンは何をしていた……」

「指揮官オルト・ハーゲン殿は、現在、生死不明と……」

「なんだと……!」

アルベールが勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る音が部屋に響いた。

「王都の兵を率いておいて……雪ごときで迷ったというのか!」

「殿下」

侯爵が小さく制したが、アルベールは止まらなかった。

「監察役はどうした。ダミアン・クロフトは」

「……帰還しておりません」

「クロフトまで失ったというのか」

「隊列崩壊後……所在不明にございます」

オズワルドの表情が険しくなり、文官たちは、互いに視線を交わす。

イザベラは、閉じた扇を強く握った。

「レオンハルトは……」

イザベラの目が、伝令に向いた。

「兵の話ではありません。第二王子は確保できたのですか」

「……確認できておりません」

「確認できていない?」

イザベラの扇が、ぱちりと音を立てた。

「できていない、ということですね」

伝令は答えなかった。

アルベールは、地図の上に置かれていた駒を握りしめた。木製の駒が、掌の中できしりと鳴る。

「北方男爵家の動きは」

「それが……遭難した兵の一部は、北方男爵家に救助された模様です」

「……救助、だと? 北方男爵家が、我が兵を?」

「そのように……」

アルベールは、ゆっくりと伝令を見下ろした。

「誰がその報告を持たせた」

「北方より戻った兵からの聞き取りにございます。複数名が同じ証言を……」

「黙れ」

伝令は口を閉ざした。

アルベールは、握っていた駒を地図の上へ放ち、駒は北方街道の上で倒れた。

「使えない」

イザベラが、扇を握る手に力を込めた。

「たかが地方男爵家から、ひとりの王子も連れ戻せないのですか」

文官たちはさらに深く目を伏せ、侯爵はわずかに眉を動かした。オズワルドだけが、口元を固く結んでいる。

その時、扉の外から別の声がした。

「ずいぶん騒がしいな」

オズワルドが振り返るより早く、扉が開いた。

入ってきたのは、王弟ヴィクトルだった。

黒の上衣をまとい、穏やかな顔でありながら、足取りには隙がなかった。

「兄上が亡くなったというのに、王宮はいつまでも落ち着かんな」

「叔父上……ここは王太子府の協議中です」

アルベールの声が硬くなる。

「承知している」

ヴィクトルは、ゆっくりと長卓へ視線を向けた。

広げられた地図。

封を切られた指示書。

途中まで書かれた布告文。

最後に、床に膝をついたままの伝令を見る。

「北方からの報告か。レオンハルトは無事保護できたのか?」

イザベラの目が、わずかに細くなった。

「……ずいぶんと耳が早いのですね」

「王宮中が騒がしい。嫌でも耳に入る」

ヴィクトルは、静かにアルベールへ視線を戻した。

「それで、レオンハルトは?」

「……保護には至っておりません」

「そうか……それは残念だな。あの子は昔から、王宮の外に居場所を作るのがうまかった」

その言い方に、アルベールの目が鋭くなる。

「叔父上が……第二王子を北方に置いたままでは危ういとおっしゃったのでしょう」

「私は、王族として案じただけだ」

「今さら、案じただけとおっしゃるのですか」

「北方男爵家が第二王子を囲っている。早く保護すべきだ。そう申し上げた覚えはある」

ヴィクトルはそこで、長卓の上の布告文へ視線を落とした。

「だが、軍を出すと決めたのは、あなたではありませんかな」

アルベールの顔が強張った。

ヴィクトルは、床に膝をついたままの伝令へ視線を戻す。

「向かった軍は?」

「……多数が遭難。死者、行方不明者も出ております」

「そうか……」

ヴィクトルは、ゆっくりと目を伏せた。

「それは痛ましいことだ。王都を守るはずの兵を、北方の雪で失うとは」

アルベールの顔が、さらに強張る。

「民は、不安に思うでしょうな。王宮の名で軍が動き、その軍が北方で失われた。しかも、第二王子殿下は保護できていない」

文官たちの顔色が、そろって変わった。

「王都では、色々な噂が立ちましょう。王太子殿下が兵を無駄に死なせた、と」

アルベールの手が、長卓の縁を掴んだ。

「必要な出兵だった」

「ええ、もちろんです」

ヴィクトルは、穏やかな顔のまま頷いた。

「だからこそ、王都に不安が広がる前に、表へ出す言葉を選ばねばなりません」

「……叔父上が?」

「ええ。私は軍を出した者ではありません。だからこそ、冷静に説明できる」

「それは、我らの判断を叔父上が語るということですか」

「違います」

ヴィクトルは、表情を崩さないまま言った。

「民に、王宮の乱れを見せるわけにはいきません」

ヴィクトルが控えの間を出た時、回廊の空気は冷えていた。

背後では、まだ第一王子の声が聞こえている。

怒りを抑えきれない、若い王子の声だった。

ヴィクトルは、それを聞き流した。

王妃宮から少し離れた控えの間へ向かって歩いていると、回廊の先で小さな悲鳴が上がった。

「きゃあっ」

続いて、侍女の慌てた声が響く。

「殿下っ、おやめくださいませ!」

「えー? だって暇なんだもん」

「殿下は暇ではございません! これからお勉強のお時間です!」

見ると、若い侍女が少年の手を掴み、どうにか引きずるようにして回廊を進んでいるところだった。

少年は、豪奢な上着を着崩し、どこか眠たげな顔で唇を尖らせている。

第三王子ユリウス。

亡き国王の末の王子であり、王位継承権を持つ一人だった。

ヴィクトルは足を止め、目を細めた。

「まったく、困った子だ」

その声に、ユリウスはぱっと顔を上げた。

「あ、おじ上!」

侍女に手を掴まれたまま、ユリウスはにこにこと笑って駆け寄ってくる。

「聞いてよ、おじ上。この子、少しも遊んでくれないんだ」

「殿下。遊びの時間ではございません」

侍女は青ざめた顔で頭を下げた。

「申し訳ございません、王弟殿下。ただいま、第三王子殿下をお部屋へお連れするところで……」

「構わん」

ヴィクトルは、手を上げた。

「しかしユリウス。お前も王家の者だ。学ぶことは必要だぞ」

「……はーい」

ユリウスは、いかにも退屈そうに返事をした。

その様子を見て、ヴィクトルは小さく笑う。

「まあ、まだまだ子供だ。あまり詰め込みすぎるな」

「ですが、殿下は昨日の講義も半分ほど眠っておられて……」

「眠れるうちは眠らせておけ。王宮では、そのうち眠れぬ夜も増える」

侍女は、返す言葉に迷ったように目を伏せた。

ユリウスは、ヴィクトルの袖を軽く引く。

「おじ上、隣国の硝子器がほしいんだ」

「また妙なものを欲しがる」

「だって綺麗なんだもん。光に透かすと色が変わるんだよ」

「仕方ないな。よい子にしているなら買ってやろう」

「じゃあ、ちょっとだけよい子にする」

「ちょっとだけか」

ヴィクトルは苦笑した。

「わかったから、もう行きなさい」

「はーい」

ユリウスは侍女に手を引かれ、また回廊の向こうへ歩いていく。

その背を見送り、ヴィクトルはゆっくりと歩き出した。

王妃宮から離れた、王弟家にあてがわれている控えの間に入ると、そこにはエスメラルダが待っていた。

椅子に腰かけ、優雅に紅茶を飲んでいる。

「お父様、どうでしたか」

「失敗だ。レオンハルトは北方に残っている」

「まあ」

エスメラルダは、目を瞬かせた。

「つまり、死んでもいない、ということですのね」

「そうだ。死んだのは王都の兵だ。遭難もしたそうだ」

「……んもう。使えませんこと」

エスメラルダは、軽く唇を尖らせた。

「せっかく、こちらがお膳立てしましたのに」

「そう言うな、エスメラルダ」

「でもお父様、あの無能をそそのかすの、まあまあ苦労しましたのよ?」

エスメラルダがカップを受け皿に戻すと、かちり、と小さな音がした。

「王子のくせに鈍くさいし、ぐずぐずするし。こちらが焦らせて、やっとその気にさせたのに」

「無駄ではない。第一王子派は兵を失った。第二王子の保護にも失敗した。王妃も焦っているだろう」

「ふふ……これで第一王子派は、お父様の助けを断りにくくなりましたわね」

ヴィクトルは、娘の向かいに腰を下ろした。

「第一王子派が北方を潰せば、我らは後始末に入ればよい。失敗したなら、その失態を広めればよい」

「どちらに転んでも、お父様の手柄ですわね」

ヴィクトルは、カップを持ち上げた。

「ダミアン・クロフトも、よい仕事をした」

エスメラルダは、不思議そうに首を傾げた。

「あの方、戻っていらしたの?」

「いや。安否は分からん」

「レオンハルト様を殺してもいないのに、褒めますの?」

「殺せなかったことは失点だ。だが、第一王子派に傷をつけたのは事実だ」

「……お父様、お優しいですこと」

「エスメラルダ、駒は盤上から消えてなお、働くことがある」

「そうおっしゃいますけれど……レオンハルト様は、まだ生きていらっしゃいますのよ」

「そこだけは、予定が狂ったな」

「北方の雪に埋もれたと聞くのを楽しみにしていましたのに……」

エスメラルダは、指先でカップの縁をなぞる。

「それに……わたくし、あの田舎娘の嫁ぎ先も考えておりましたのよ」

「ほう。どこだ」

「バルツァー伯爵ですわ。ちょうど奥方を亡くされて、若い令嬢を求めていらっしゃいましたの」

ヴィクトルは、カップを持ち上げかけた手を止めた。

「……お前は、相変わらず嫌なところを突く」

「褒め言葉として受け取りますわ。ですが……」

エスメラルダは、にこりと笑った。

「田舎娘には、十分すぎる縁でしょう?」

「……しかし、次の手を打たねばならんな」

ヴィクトルは、カップを置いた。

「リュミエールへ抜ける街道は、あの男爵家が握っている」

「ええ。あの道は必要ですからね……まったく、また考え直しですわ」

「しかし、北方への派兵はもう難しいだろう」

「……こちらから出向く必要はないのでは?」

ヴィクトルは、娘を見た。

「というと?」

「向こうから来ていただけばよろしいのです」

エスメラルダが楽しげに話し始めるあいだ、ヴィクトルは黙って娘の声に耳を傾けていた。

やがて、低く笑った。

「……なるほどな」

「王妃も、お喜びになるでしょう?」

「アルベールには、こちらから話を通しておく」

「お願いいたしますわ。親子共々、せっかちな方で助かりますわね。それより、お父様」

エスメラルダは、ころりと話題を変えた。

「この間の夜会で、とても嫌なことがありましたの」

「誰だ」

「リズベット様ですわ。わたくしに、ずいぶん失礼な目を向けてきたのです」

「……そうか」

「お可哀想に。お家の立場も、あまりよろしくありませんのに」

エスメラルダは、紅茶をひと口飲んだ。

「少し、教えて差し上げた方がよろしいかしら」

ヴィクトルは娘を咎めなかった。

ただ、静かに紅茶を飲んでいた。