作品タイトル不明
とある絵本
昔々。
海と交易で栄えた、とある王国に、一人の若者がいた。
商人の息子として生まれた彼は、幼い頃から数字に強く、父の荷馬車を引きながら各地を巡っていた。しかし彼には、どうしても諦められない夢があった。
――騎士になりたい。
それは、本来なら貴族の子弟だけが抱く夢だった。
剣を学ぶにも金がいる。馬を持つにも金がいる。何より、“生まれ”が必要だった。
周囲は皆、笑った。
「商人の息子が騎士だと?」
「金勘定でもしていろ」
だが彼は諦めなかった。
昼は商隊で働き、夜は木剣を振った。
盗賊に襲われた隊商を守り、飢饉の村へ食料を運び、時には命懸けで橋を渡った。
そうして少しずつ名を上げ、やがて国境戦で武功を立てる。
敵兵に囲まれた伯爵を救ったことで、とうとう王都へ呼ばれることになった。
その日、王城では、新たな騎士の叙任式が行われていた。
長い赤絨毯、燭台に灯る炎、壁に並ぶ貴族達。
そして、祭壇の前に、一人の女性が立っていた。
白銀の髪、深い青の瞳、冬の月光のような美しい人だった。
彼女は古い高貴な血筋であり、“王国の白百合”と呼ばれていた。
彼は、その姿を見た瞬間、恋に落ちた。
馬鹿げている、と自分でも思った。
商人上がりの若者が、身分の高い姫君に。
だが、目を逸らせなかった。
叙任式で、彼は跪く。
老王が剣を掲げ、声が響く。
「汝、忠誠を誓うか」
「誓います」
「弱きを守り、国に剣を捧げるか」
「この命に代えても」
王は剣の腹を、彼の肩へ軽く触れさせた。
「ならば今この時より、汝を騎士と認める」
歓声が上がる。
その中で、彼女だけが、静かに微笑んでいた。
その微笑みを、彼は、一生忘れなかった。
それから年月が流れた。
彼は戦場で功績を立て続けた。
辺境の反乱を鎮め、盗賊団を壊滅させ、王国の勝利を幾度も支えた。
爵位を授かり、領地を得て、ついには伯爵にまで上り詰める。
全ては、彼女に並ぶためだった。
戦場から戻るたび。
彼の周囲には、華やかな貴婦人達が集まるようになった。
公爵令嬢、王妹、果ては隣国の姫君まで。
「次の大公になるのでは」
「王家へ迎えられるらしい」
そんな噂が王都を巡る。
そしてある夜、彼女は偶然聞いてしまう。
「彼なら、王女殿下の婿に相応しいわ」
「平民出身でも、今や誰より国に必要な方ですもの」
笑い声、煌びやかな扇、眩しい世界。
白百合は静かに目を伏せた。
――ああ。もう、自分ではないのだ、と。
会う度に、ほんの少し交わした会話。
ほんの少し、交わした視線。
二人の間には、それしか無かったはずなのに。
彼女は、一晩泣いた。
いつの間にか、育っていた感情。そして翌朝、静かに決めた。
――身を引こう、と。
彼はもう、自分より遥かに高い場所へ行ける人だ。
商人の子だった若者は、今や国を支える騎士となった。自分などに縛られてはいけない。
だから、彼女は、彼を避けるようになった。
舞踏会でも、謁見でも、決して会わないように。
彼は気づいた。それでも、追えなかった。彼女が苦しんでいるとわかっていたからだ。
そして冬、隣国との大戦が始まる。
彼は総大将として出陣した。
吹雪の中、三千の兵で、一万を超える敵軍を食い止めたという。
勝利の報せが王都へ届いた夜、彼女は、礼拝堂で祈っていた。
その時、扉が開く。
振り返ると、そこには、雪を被った彼が立っていた。
「……勝手に消えるな」
彼女は、身体を強張らせた。
「お前がいない未来を、俺が望むと思ったのか」
彼女は涙を浮かべた。
彼は苦笑した。
「それを言うために戻ってきた」
「王女殿下が……」
「断った」
彼女は目を見開く。
「俺は、あんた以外いらない」
蝋燭の火だけが揺れる、静かな礼拝堂。
あの日と同じように、彼は片膝をついた。
ただ違うのは。
今度は誰かに騎士にされるのではなく。
自分の意思で、忠誠を捧げるためだった。
彼は彼女を見上げる。
「俺の人生を、あんたにやる」
彼女は泣きながら笑った。
そして、そっと彼の手を取った。
春になる頃。
元商人の騎士は公爵となり、王国の白百合と結婚したという。
その後の王国では。
娘が恋物語を夢見るたび、この話が語られた。
――“白百合姫と商人騎士”の物語、として。