作品タイトル不明
リリアーナとラニア、侯爵家を発つ
一週間。
リリアーナとラニアは、侯爵邸で穏やかな日々を過ごした。
不思議なことに。ルイはその間、一度も大きく体調を崩さなかった。食欲も少しずつ戻り、顔色も以前より良くなっていく。
リリアーナには、その一週間は懐かしい時間だった。昔、公爵家で過ごした頃のことを思い出す。
まだ何も持たず、けれど必死に前だけを見ていた頃。リュートを弾いたこと。その全てが、遠い昔のようでもあり、昨日のことのようでもあった。
ラニアは、毎日ルイと昼寝をしていた。
そうして、一週間が過ぎた。
出立の日。
侯爵邸の前には馬車が用意され、護衛達が静かに待機している。
リリアーナは侯爵とアデライドへ深く礼をした。
「長い間、ありがとうございました」
侯爵は穏やかに頷いた。
「こちらこそ、感謝している」
その言葉に嘘はなかった。
アデライドは微笑む。
「本当に、あっという間だったわ」
「そうですね」
別れの時間は、どうしてこんなにも早いのだろう。
リリアーナも少し寂しそうに笑った。
ラニアはというと、きょろきょろと周囲を見回していた。そして、何かを思い出したように、てちてちと歩き出す。
向かった先は、ルイだった。
ルイはすぐに気づき、静かにしゃがみ込む。
「ラニア」
「るい」
ラニアは迷いなくルイの手を握った。
そして、じっとルイを見上げる。
「だいじょうぶ」
幼い声だった。
けれど、その言葉は妙に真っ直ぐだった。
ルイは少し目を見開く。
「……え?」
ラニアは何も説明しない。
ただ、じっと見つめるだけ。
ルイはその意味を考えるように、小さく瞬きをした。そして、少しだけ笑った。
「……さよならだね」
「ん」
ラニアは素直に頷いた。
ただ、それだけ言うと、くるりと振り返ってリリアーナの元へ戻っていく。
リリアーナはラニアを抱き上げた。
「ちゃんとお別れ出来たの?」
「ん!」
ラニアは満足そうに頷く。
その様子を見ながら、アデライドは静かに目を細めた。ルイはしばらく、その小さな後ろ姿を見つめていた。
馬車へ乗り込む直前。
リリアーナはもう一度振り返る。
「アデライド様、お身体を大切に」
「ええ。あなたも」
二人は微笑み合った。そして、馬車がゆっくりと動き出す。
ラニアは窓から小さく手を振った。
「ばいばい!」
ルイも小さく手を振り返す。
「またね」
馬車はそのまま、静かに侯爵邸を離れていった。
穏やかな風だけが、別れの後に残っていた。
リリアーナ達を見送った後、侯爵はしばらく玄関先に立っていた。
遠ざかっていく馬車を、ルイもじっと見つめている。その小さな横顔を見て、侯爵は静かに声をかけた。
「……起きていて、大丈夫なのか?」
ルイは、まだラニアに握られていた方の手を見ていた。けれど侯爵の声に気づくと、はっとしたように顔を上げる。
「……はい」
顔色は悪くない。むしろ、この一週間で最も穏やかな表情をしていた。
侯爵は小さく息を吐いた。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
その日の夕食。
長い食卓には静かな空気が流れていた。
侯爵は書類から目を離して食事をしている。
そして、珍しいことにルイは自分から口を開いた。
「……お父様」
「どうした」
ルイは少し迷うように視線を落とした。
それから、ぽつりと言った。
「僕、ラニアのような妹が欲しいです」
侯爵は、一瞬だけ固まった。
使用人達もぴたりと動きを止める。
「……そうか」
ようやく、それだけを返した。
ルイは真剣な顔のまま続ける。
「小さくて、ふわふわで、温かくて……」
言葉を探すように、少し黙る。
「……とにかく、良いなぁと思ったのです」
その声は、本当に心からのものだった。
周囲の大人達は、誰もが同じことを思う。
――ラニアは、少し特別だ。知らない家で泣き喚くこともなく、我儘もほとんど言わず、粗相もせず、人見知りも少なく。
それでいて、妙に周囲を見ている。
一歳半。
本当に、一歳半なのか。
疑わない者の方が少なかった。
けれど、その違和感をルイに告げることなど出来ない。
侯爵は静かにワインを置いた。
「……そうだな。赤ちゃんは授かり物だから、ルイが望めば、あるいは」
「じゃあ、僕、いっぱいお願いをしようと思います」
ルイは真面目な顔で頷いた。
そのあまりにも純粋な言葉に、使用人の何人かは思わず肩を震わせる。
アデライドは小さく俯いた。
頭の中に浮かんでいたのは、リリアーナから渡された薬草だった。
――私が、北の領地で調べて試した薬草です。なかなか出来なかったから……。
あの時の、少し照れたような、それでも真剣な顔。
アデライドはそっと指を重ねた。
胸の奥が、じんわりと熱い。
侯爵はそんな妻をちらりと見たが、何も言わなかった。
静かな食卓の中で、ルイだけが小さく微笑みながら呟く。
「……ラニア、また来てくれるかな」
その言葉に、アデライドはようやく微笑んだ。
「ええ。きっと、また会えるわ」
それからというもの、ルイはアデライドにリリアーナとラニアのことを尋ねるようになった。
もちろん、二人が来る前にも一通り説明は受けていた。北の辺境から来る女性と、その娘。それくらいの認識はあった。
けれどその時のルイには、正直あまり興味がなかったのだ。だから、ほとんど記憶に残っていない。
しかし今は違った。
「……リリアーナ様って、どんな人だったのですか?」
夕食後の静かな私室。アデライドは少し驚いたようにルイを見た。
ルイの方から、こんな風に話しかけてくること自体が珍しい。
けれど、すぐに柔らかく微笑んだ。
「そうね……リリアーナは、男爵領の六番目の娘だったのよ」
「六番目……」
「ええ。だから、決して恵まれた立場ではなかったわ」
アデライドはゆっくりと思い出すように語り始める。
「最初は、公爵家で使用人として働いていたの」
ルイは目を瞬かせた。
「使用人、ですか?」
「ええ。でも、とても真面目な子だったわ。学院に入ってからは、成績も優秀だったのよ」
「……そんなに?」
「そう。驚くほどね」
アデライドは少し懐かしそうに笑った。
「本当によく努力していたわ。……だから、エドモンド様に見初められたのでしょう。辺境伯は武勇だけでは務まらないもの」
ルイは静かに聞いていた。
「……卒業した後は?」
「卒業を前に、エドモンド様と一緒に学院を去ったわ。そして北の領地へ行って……ようやく、ラニアを授かったの」
その“ようやく”という言葉に、ルイは少し首を傾げた。
けれど深くは聞かなかった。
代わりに、ぽつりと呟く。
「……リリアーナ様は、そんなに優秀だったのですか?」
「ええ。そうよ」
アデライドは頷いた。
リリアーナの学院時代の話、辺境伯エドモンドの噂、アデライドは公爵家の娘として、きちんと耳にしていた。
「……じゃあ、ラニアの両親は、二人ともお強いのですか?」
ルイの問いに、アデライドは微笑む。
「ええ。“とても”と聞いてるわ」
ルイはしばらく黙り込んだ。
自分の手を見つめる。
最後にラニアが握っていた手だ。
「あの二人の子ですもの」
アデライドは穏やかに言った。
「ラニアも、きっと強くて賢い子になりそうね」
するとルイは、小さく拳を握った。
「……僕、頑張ります」
アデライドは内心で驚いていた。
こんなにも自然に、ルイが感情を外へ出すことに。
「そんなにも、気になるの?」
アデライドが優しく尋ねると、ルイは少し視線を伏せた。
「……そうですね」
その答えは、どこか照れくさそうだった。
アデライドはふっと笑う。
「だったら、いつかまた会えないか、相談してみましょうか?」
「本当ですか!」
ぱっと顔を輝かせるルイ。
そのあまりにも嬉しそうな表情に、アデライドは目を細めた。
「ええ。本当よ」
ルイは珍しく、何度も頷いた。
その夜、侯爵家では、静かに話し合いが始まっていた。