作品タイトル不明
ラニアのため息
護衛に囲まれた馬車は、ゆっくりと北の領地へ向かっていた。
公爵家には挨拶にだけ立ち寄り、長居はせず、そのまま帰路についたのである。
車輪が石畳を越えるたび、馬車は小さく揺れた。その中で、ラニアはぴたりとリリアーナに寄り添っている。
小さな身体を預け、目を閉じていた。
「ふふ。疲れたのね」
リリアーナは優しい声でそう言い、そっとラニアの髪を撫でる。
けれども、ラニアは、起きていた。
ただ、目を閉じているだけで、内心では、盛大にぐったりしていた。
……もう、本当に疲れた。
一人、リリアーナへ身体を預けながら、ラニアは心の中で深くため息を吐く。
……あのルイ。何だよ。どうしてリリアーナの周りって、病人が集まりやすいの?
でも、だからと言ってリリアーナに治癒を使わせるのは駄目だ。絶対に後から面倒になる。だから結局、自分がやるしかなかった。
……リリアーナ、全然気づいてないし。いや、気づかれる前に終わらせるしかないんだけど。
ラニアは内心、もう一度大きくため息を吐いた。
でも、僕は頑張った。本当に頑張った。
ルイにできるだけ自然に触れて、少しずつ、少しずつ治癒を流す。強すぎれば不自然になる。急に元気になっても駄目だ。
だから、ほんの少し良くなる程度。
時間をかけて、慎重に。
今の身体では、とても難しかった。
治癒の力は、一歳半の身体では制御が甘い。
油断すれば一気に流れてしまう。
だから長く触れ続け、細い糸のように少しずつ通す必要があった。
……心の底から、嫌だったけど。
ラニアは心の中で顔を覆う。
僕、あの年齢らしく振る舞ったよね?
完璧なくらいに。
愛想だって作った、笑った、手を繋いだ、遊んだ。全部やった。
そして何より、昼寝。
あれが一番辛かった。
ラニアは心の中で必死に言い訳する。
あれは必要だったのだ。長時間触れていないと、上手く調整できなかったから。
眠ったふりをしながら治癒を発動させるのは、集中しすぎて、逆に眠れないほどであった。
だから別れ際には、もう二度と会わないつもりで言ったのだ。
『だいじょうぶ』
あれは、ルイへの最後の治癒。
元気になればいい。そうしたら、きっと普通に生活できる。
子どもは忘れるのが早い。リリアーナのことも、自分のことも、そのうち忘れていく。
だから、これで終わり。
終わりのはずだ。
正直、もっとルイを困らせても良かった。
リリアーナとの時間を取られた気分だったし。
でも、リリアーナの立場が悪くなるのは駄目だから、最大限我慢した。
全方位、好感度、最高値。
でも、ある朝アデライドを見た時、驚いた。
リリアーナ、いつの間に、祈りをかけてるの。……アデライド、良かったね。赤ちゃんが授かるのは、遠くないよ。
ああ、もお、やだやだ。本当に疲れた。
ラニアは、ぐり、とさらにリリアーナへ寄りかかる。すると、柔らかな感触に包まれた。
……ん?
ラニアはぼんやり考える。
リリアーナ、少しふかふかになった?前より柔らかい気がする。
でも、まあ、気持ち良いから、いいか。
そんなことを思いながら、ラニアはようやく本当に眠気に引きずられていく。
リリアーナは、そんなラニアを優しく抱き寄せた。
「……おやすみ、ラニア」
その声はとても穏やかで。
ラニアは安心したように、小さくリリアーナの服を握るのだった。
北の領地へ戻ってしばらくした頃、侯爵家から、一通の手紙が届いたのだ。
差出人は、アデライド。
リリアーナは封を開き、丁寧な文字を目で追った。
『侯爵家の別荘が、王都と北の領地のちょうど中間ほどの場所にあります。夏は辺境伯領もお忙しいと聞いてますので……冬、もし宜しければ共に別荘で過ごしませんか? もちろん、ラニアも一緒ですよ。辺境伯家と侯爵家の繋がりは、夫も悪くないと申しております。どうか、前向きにご検討くださいませ』
「……まあ」
読み終えたリリアーナの頬が、ふわりと緩んだ。
頭に浮かぶのは、侯爵邸での日々だ。
温かな暖炉、香りの良い紅茶、美味しい食事と、甘いお菓子。穏やかな時間。そして
『るい、いっしょ!』
きゃっきゃっと笑いながら、ルイの手を引いていたラニア。
アデライドと夜に飲んだお茶。
「……楽しかったわねぇ」
リリアーナは、しみじみ呟いた。
ふと、自分の腹部へ手を当てる。
「……少し、お腹にお肉がついた……?」
一瞬、真顔になる。
だが、すぐに首を振った。
「気のせいね」
リリアーナは手を握りしめた。
「産後はなかなか体型が戻らないと、マルグリット様も言っていたし」
産後はラニアへ母乳を与えるためにしっかり食べた。
ラニアの離乳食が始まったら、ラニアと一緒におやつも食べた。
美味しい焼き菓子があれば笑顔になった。
現実は、労働量より食事量の方が多かったのである。
「美味しい物って、幸せよね……」
うっとり呟く。
一方、リリアーナの側で積み木をしていたラニアは、嫌な予感しかしなかった。
……別荘、冬、ルイもいる。
ラニアの表情が、すん……と消える。
嫌な予感しかしない。しかも今度は数日では済まない可能性がある。
ラニアは静かに目を逸らした。
……いやだ。
僕はもう頑張った。十分頑張った。あれ以上、ルイに付き合う義理ある?
しかし、そんなラニアの心など知らず、リリアーナはぱっと顔を輝かせた。
「エドモンド様に相談しなくちゃ」
そう言って立ち上がる。
手紙を大事そうに持ち、いそいそと立ち上がる姿は、どこか浮き立っていた。
ラニアは、がくりと項垂れた。
……終わった。
そんなラニアを抱き上げながら、リリアーナは上機嫌で廊下を歩く。
「ラニア、またルイに会えるかもしれないわよ?」
「……んー」
ものすごく曖昧な返事だった。
けれどリリアーナは気づかない。
「アデライド様にも会いたいし……別荘って、どんな所なのかしら」
……楽しそうだ、本当に。
ラニアは、リリアーナの肩に額を押しつけた。
リリアーナが嬉しそうだから、強く反対できない。でも、嫌なものは嫌だ。そんな複雑な気持ちのまま。
ラニアはリリアーナに抱かれていた。