作品タイトル不明
アデライドとリリアーナ
その日の夜。
侍女達も最低限だけを残して下がり、部屋にはアデライドとリリアーナ、そして寝息を立て始めたラニアだけがいた。
窓の外では、昼間の喧騒が嘘のように遠く、王都の灯りが淡く揺れていた。
アデライドは長く息を吐き、手にしていた茶器をそっと置いた。
「……授からない、のよね」
零れ落ちた声は、とても小さかった。
侯爵家の後妻。その立場の重さを、リリアーナは理解していた。
ルイは可愛い。アデライドも本心から愛しているのが分かる。けれど、それだけでは済まされない世界がある。侯爵家の血を引く子を産むこと。それを周囲から求められているのだ。
リリアーナは静かにアデライドを見つめた。
そして、少し迷うように視線を伏せる。
「……実は」
その声に、アデライドが顔を上げた。
「もしかしたら、と思って用意してきた物があるのです」
リリアーナは席を立つと、部屋の隅に置いていた小さな鞄を持って来た。丁寧に包まれた布を開き、中から幾つかの乾燥薬草と、小瓶を取り出す。
「私が、北の領地で調べて、試した薬草です」
アデライドは目を瞬いた。
「その……私も、なかなか出来なかったから……」
リリアーナは少し恥ずかしそうに笑った。
その表情に、アデライドは胸が詰まる。
公爵夫人から聞いていた。エドモンドと結婚してからも、長い間子どもを授からなかったことを。
「効くかどうかは、わかりません」
リリアーナは薬草をそっと包み直した。
「でも、もし良ければ、使って下さい」
そう言って、鞄ごとアデライドへ差し出す。
アデライドは、しばらく動けなかった。
ただ、その鞄を見つめる。
それは薬草だけではない。リリアーナが苦しみ、悩み、それでも諦めずに探し続けた時間そのものだった。
「リリアーナ……」
思わず、アデライドは彼女の手を握った。
温かい手だった。
リリアーナは驚いたように目を丸くした後、優しく握り返す。
「苦しい、ですよね」
静かな声。
その一言だけで、アデライドの胸に積もっていたものが崩れた。
侯爵夫人としては弱音を吐けない。
使用人達の前でも、夫の前でも、公爵家の娘として毅然としていなければならない。
けれど今は違った。昔、自分を励ましてくれた少女が、目の前にいる。
アデライドの瞳から、ほろりと涙が落ちた。
「……わたくし、焦っていたのね」
「……はい」
「ルイを大切に思っているの。でも、それだけじゃ駄目だって、周りが……」
言葉が震える。
リリアーナは何も否定しなかった。
ただ、優しくその手を包む。
その時、リリアーナは静かに願っていた。
……どうか、アデライド様にも、子どもが出来ますように。
二人はしばらく、手を握ったまま座っていたのだった。
ラニアは柔らかな毛布に包まれ、小さく丸くなっている。その寝顔を見つめながら、アデライドはぽつりと呟いた。
「それにしても、乳母がいないのには驚いたわ」
リリアーナは少し苦笑した。
この時代、貴族の子供に乳母がつくのは珍しいことではない。むしろ当然だった。特に辺境伯家ほどの家柄なら、なおさらだ。
「……マルグリット様にも、とても言われました」
「でしょうね」
アデライドは思わず笑う。
リリアーナは遠い目をした。
「でも、私から離れると、ラニアが凄く泣いたのです」
その時の事を思い出したのか、少し肩を落とす。
「最初は、少しずつ慣れさせようと思ったのですが……駄目でした。泣きすぎて熱を出しそうになってしまって」
「まあ……」
「だから、我が儘を言わせて貰ったのです。エドモンド様も、本当は忙しいのに……」
申し訳なさそうに言うリリアーナに、アデライドは静かに首を振った。
「大切にされてるのね」
その言葉に、リリアーナは一瞬だけ目を伏せた。
「……あまりにも、色々あったので」
小さな声だった。
アデライドは、その意味を深くは聞かなかった。少しの沈黙の後、アデライドはふっと微笑んだ。
「リリアーナは、確かに普通とは違うわよね」
「……そうでしょうか?」
本気でわかっていない顔だった。
アデライドは思わず肩を震わせる。
「わかって無いのは、リリアーナだけよ」
「いつも、頑張っているのですが」
「それは認めるわ」
即座に返され、リリアーナは困ったように瞬きをした。
「……?」
その反応が可笑しくて、アデライドは少し笑う。
「リリアーナは、リリアーナってこと」
「……?」
ますますわからない、という顔になる。
アデライドはとうとう小さく吹き出した。
昔からそうだった。真面目で、不器用で、自分では何も特別だと思っていないのに、いつの間にか周囲を変えてしまう。
ルイが笑ったのも、自分がまた前を向こうと思えたのも、きっと、この人がここに来たからだ。
アデライドは優しく目を細めた。
「会えて、凄く嬉しいってこと」
すると、リリアーナも柔らかく微笑んだ。
「私も。会えてとても嬉しいです」
その言葉は、昔と変わらなかった。
立場も、身分も、住む場所も変わった。けれども、こうして向かい合えば、昔のまま話せる。
暖かな静寂が部屋を包む。
外では夜風が庭木を揺らし、遠くで衛兵の足音が聞こえていた。
ラニアは眠ったまま、小さく寝返りを打つ。
リリアーナはそっと毛布を掛け直した。
それを見ながら、アデライドは穏やかに目を細める。
夜は静かに、更けていった。