作品タイトル不明
アデライドの息子①
翌朝。
侯爵家の朝は、静かで優雅だった。
夜明けと共に使用人達は既に動き始めており、長い廊下には磨き上げられた床が淡く朝陽を映している。
遠くで銀食器の触れ合う控えめな音が響き、焼きたてのパンと温かなスープの香りが屋敷に満ちていた。
食堂へ案内されたリリアーナは、思わず小さく息を呑む。
大きな窓から光が差し込む侯爵家の朝食室には、白い麻布の掛けられた長卓が置かれていた。 卓上には季節の果実、焼き立ての小麦パン、蜂蜜、白いチーズ、香草入りの卵料理。 銀のポットからは湯気の立つ紅茶が注がれている。
決して過剰ではない。 だが、一つ一つが丁寧で、美しい。
アデライドは穏やかに微笑みながら席へ着いた。
「口に合うと良いのだけれど」
「……とても素敵です」
リリアーナは少し緊張しながら答える。
辺境の質素な食事とは違う。 けれど華美すぎる訳でもなく、この侯爵家の品位そのもののような食卓だった。
ラニアは椅子へ座ると、目の前の小さな蜂蜜壺をじっと見つめる。
「きらきら……」
「ふふ、気になるの?」
アデライドが笑いながら、小さな匙でパンへ蜂蜜を塗ってやる。
ラニアは一口食べると、ぱっと顔を輝かせた。
「おいし……!」
その反応に、食堂に控えていた侍女達の表情まで少し和らぐ。
リリアーナはそんな様子を見ながら、どこか胸の奥が温かくなるのを感じていた。
侯爵家。本来なら、自分達とは遠い場所。
けれどこの屋敷には、不思議と人を緊張させすぎない柔らかさがあった。
朝食を終えた後、アデライドは私室のバルコニーへリリアーナ達を案内した。白い石造りの欄干には蔦が絡み、庭に咲く薔薇の香りが風に乗って届く。
その中央に、小さな卓と椅子、そして一本のリュートが用意されていた。
リリアーナは目を瞬かせる。
「……これは?」
アデライドは微笑んだ。
「久しぶりに、弾いてくれないかしら?」
「えっ……」
リリアーナは戸惑ったようにリュートを見る。
「でも、最近はあまり練習をしていなくて……」
ラニアが生まれてから、リュートに触れる時間は大きく減っていた。
気づけば一日が終わっている。
それでも時々弾くことはあったが、以前のように毎日とはいかなかった。
「大丈夫よ」
アデライドは柔らかく言った。
「あなたの音が好きなのは、変わってないもの」
その言葉に、リリアーナは少しだけ照れたように目を伏せた。
「……ありがとうございます」
するとアデライドは、ふと思い出したように立ち上がった。
「そうだわ。せっかくだから、息子も呼んでくるわね」
「え?」
「きっと喜ぶと思うの」
そう言って、アデライドは部屋を出ていった。
しばらくして戻ってきたアデライドの隣には、一人の少年がいた。
「紹介するわ。息子のルイよ」
五歳ほどの少年だった。
肌は雪のように白く、身体も同年代の子どもより細い。けれども、その瞳は聡明そうで、弱々しいという印象は不思議と無かった。
むしろ、静かに周囲を観察するような落ち着きがある。
ルイは少し緊張した様子で、リリアーナを見上げた。
「……はじめまして」
きちんとした礼。幼いながら、厳しく教育されているのが分かる。
リリアーナも柔らかく頭を下げた。
「はじめまして、ルイ様。リリアーナと申します」
「知ってる」
ルイは小さく言った。
「お義母様が、来る前から話してた」
アデライドは少し困ったように笑った。
「もう、ルイったら」
「だって、本当ですから」
そう言いながらも、ルイはリリアーナから視線を逸らさない。
どこか好奇心と警戒が混ざった目だった。その時、ルイの視線が、リリアーナの後ろへ向いた。
「……この子は?」
リリアーナのドレスの陰に、半分隠れるようにしていたラニアがぴくりと動く。
初めての場所、初めて会う人、少しだけ緊張しているらしい。それでも、ラニアはそろそろと顔を出した。
「……らにあ」
小さな声で名乗る。そして、ぺこり、とぎこちなく頭を下げた。
ルイはぱちぱちと瞬きをした。
「……ちっちゃい」
「一歳半ですから」
リリアーナが苦笑する。
ラニアはじっとルイを見つめていた。
するとルイは、少し考えてから、そっとしゃがみ込む。
「……こんにちは、ラニア」
目線を合わせて、怖がらせないように。その仕草に、リリアーナは少し驚いた。
ラニアはしばらくじっとルイを見ていたが、やがて小さく頷いた。
「ん!」
それだけで、ルイの表情がほんの少し緩む。
アデライドはその光景を見て、静かに目を細めた。
「……良かった」
ぽつり、と零す。
ルイが、こうして自分から他人に近づくのは珍しい。
アデライドはそっと椅子へ腰掛ける。
「さあ、リリアーナ、お願いできる?」
リリアーナはリュートを手に取った。
指先で弦を軽く弾くと、澄んだ音が朝の空気へ溶けていった。
ラニアは目を輝かせる。
「わぁ……!」
ルイもまた、静かに息を呑んでいた。
柔らかな朝の陽射しの中、静かな音色が、ゆっくりと庭園へ広がっていく。
その時間は、侯爵家の慌ただしさを忘れさせるほど、穏やかなものだった。