作品タイトル不明
アデライドとの再会
侯爵家の応接間は、静かな緊張感に包まれていた。
高い天井、磨き抜かれた大理石の床。壁には精緻な刺繍のタペストリーが掛けられ、控える侍女達は一切の私語も無い。
その中央に立つ女性を見て、リリアーナは一瞬だけ目を見開いた。
「遠くから、ありがとう」
アデライドは優雅に微笑んだ。
柔らかな髪は美しく結い上げられ、深い青のドレスには侯爵家の格式に相応しい刺繍が施されている。
その立ち姿には、もう以前の少女らしさはなかった。侯爵夫人、そう呼ばれるだけの風格が、確かにあった。
けれども、その微笑みの奥には、リリアーナの知る面影がまだ残っている。
「お久しぶりでございます、アデライド様」
リリアーナもまた、完璧な礼を返した。
今の彼女も、次期辺境伯に嫁いだ身。かつて公爵家で働いていた男爵令嬢ではない。
互いに笑みを浮かべながらも、その場には貴族らしい緊張感が漂っていた。
「辺境での暮らしには、慣れまして?」
アデライドは穏やかに問いかける。
「はい。公爵家で教えて頂いた作法や知識のおかげで、務めを果たしております」
「そう」
アデライドは満足そうに頷いた。
「お母様も、きっと喜ばれるわ」
周囲の侍女達は、二人を感心したように見ていた。二人とも立派な貴婦人となっている。その間、ラニアはリリアーナの隣で大人しく座っていた。
ふわふわした紫色の髪を揺らしながら、珍しそうに室内を見回している。
アデライドの視線が、ふとラニアへ向いた。
「……この子が、ラニア?」
「はい」
ラニアは見られていることに気づき、小さく首を傾げた。
「らにあ!」
ぺこり、とぎこちなく頭を下げる。
その幼い挨拶に、張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ。アデライドの口元も、自然と綻ぶ。
「ふふ……小さいわね」
その声音は、先程までより少しだけ柔らかかった。けれども、昼の公式の場では、それ以上踏み込まない。
「長旅でお疲れでしょう。客間を用意しておりますので、まずはお休みください」
「ありがとうございます、アデライド様」
あくまで礼儀正しく、格式を崩さず。
そうして昼の対面は終わった。
そして、その夜。
リリアーナが案内された私室には、アデライドと、年配の乳母だけがいた。護衛も侍女も下げられている。
扉が閉まった瞬間。
「……リリアーナ!」
先ほどまで完璧な侯爵夫人だったアデライドが、勢いよく駆け寄ってきた。
「本当に来てくれたのね……!」
「はい」
リリアーナも思わず笑ってしまう。
昔の呼び方、昔の声。一気に、あの頃の距離へ戻った気がした。
「もう、昼間は緊張したわ……」
アデライドはその場に座り込みそうな勢いで息を吐いた。
「私もです」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑う。その間、ラニアは部屋の絨毯の上をてちてち歩き回っていた。
「あっ!」
棚の上に置かれた木彫りの馬を見つけ、目を輝かせる。アデライドはその姿を見つめ、ふっと表情を和らげた。
「……もう、こんなに歩くのね」
「ええ。最近は本当に目が離せなくて」
「そうなの……」
アデライドはしみじみラニアを見た。
「……お子様は?」
リリアーナはそっと聞いた。
公爵夫人から事情は聞いている。けれども、本人の口から聞くのはまた違った。
アデライドは少しだけ視線を落とした。
「もう寝てるわ。今日は調子が悪かったの」
「……そうですか」
「熱は無いのだけど、すぐ疲れてしまうのよ。食事も細いし、季節が変わるたび体調を崩すの」
アデライドは苦く笑った。
「私、最初は頑張れば何とかなると思っていたの」
その声には、少し疲れが滲んでいた。
「優しくして、一緒に過ごして、ちゃんと向き合えば、いつか自然に母親になれるんじゃないかって」
リリアーナは黙って聞いていた。
「でも、違ったわ」
アデライドは小さく息を吐く。
「あの子は、本当のお母様を覚えてるのよ」
だから時々、私を見る目が、とても遠いの」
リリアーナは胸が締めつけられるようだった。
「……アデライド様」
「嫌われてはいないと思うの。でも、“母親”になれてる感じがしなくて」
アデライドは苦笑する。
「一年以上経ったのにね」
その時だった。
「うま!」
ラニアが木馬を抱えて、とことこと二人の方へ歩いてきた。そして当然のように、アデライドの膝へ木馬を押し付ける。
「……え?」
アデライドが目を瞬かせた。
「うま!」
遊ぼう、とでも言いたいのだろう。ラニアは真剣な顔だった。
アデライドは戸惑いながら木馬を受け取る。
「……ふふ」
思わず、笑みが零れた。
「この子、本当に人懐こいのね」
「甘えん坊なんです」
リリアーナは苦笑した。
「すぐ抱っこって言いますし」
「だっこ!」
タイミングよくラニアが両手を上げた。
二人は吹き出した。先ほどまで沈んでいた空気が、少し柔らかくなる。
アデライドはラニアを見つめた。
「……いいなぁ」
ぽつり、と零れる。
「こんな風に、自然に甘えてもらえるの」
リリアーナは静かに言った。
「ラニアも、最初からこうだった訳ではありません」
アデライドは顔を上げた。
「熱を出した時は、私、何日も眠れませんでした。少し咳をしただけで怖くて……」
リリアーナは、息を吐いた。
「……ちゃんと母親になれてるのか、不安になる時もあります」
その言葉に、アデライドは目を見開いた。
「リリアーナでも?」
「はい」
リリアーナは苦笑する。
「今でも毎日、これで良いのかなって思います」
アデライドはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと肩の力を抜く。
「……そっか」
その表情は、昼間の侯爵夫人ではなかった。一人の、悩みながら子どもと向き合う女性の顔だった。
やがてアデライドは立ち上がり、小さな箱を持ってきた。
「これ、ラニアに」
「え?」
箱の中には、小さな毛皮付きの外套が入っていた。柔らかな最高級ウールに、丁寧な刺繍。一目で高価だと分かる。
「辺境は寒いでしょう?」
「こ、こんな高価な物を……!」
「いいの」
アデライドは微笑んだ。
「リリアーナの子に贈りたかったの」
リリアーナは静かにそれを受け取った。
「ありがとうございます」
ラニアは早速それを抱き締め、「わぁ……」と嬉しそうに声を漏らす。
その姿を見ながら、アデライドは柔らかく目を細めた。
「……本当に、いいなぁ」
そう呟く声は、侯爵夫人ではなく、一人の“母親になろうとしている女性”の声だった。