作品タイトル不明
生後十一ヶ月
季節はまたひとつ巡り、ラニアは、生後十一ヶ月を迎えていた。
もう“赤ん坊”というには、少しだけ違う。床に立たせると、ぐらつきながらも手を離した。
「……」
ほんの数秒。けれど確かに、自分の足で立っている。
「ラニア……」
リリアーナが息を呑む。次の瞬間、バランスを崩してぺたりと座り込んだ。けれど泣かない、むしろ、
「……あー」
楽しそうに、もう一度立とうとする。
「無理はするな」
エドモンドが静かに言うが、ラニアはちらりとその方を見て――すぐに視線を逸らした。
「……」
わずかな沈黙。
「……避けられてないか?」
ぽつりと呟くエドモンドに、リリアーナは困ったように笑った。
「うーん……ちょっとだけ?」
ラニアは再び立ち上がり、今度は机に手をつく。そのまま横へ、横へと移動する。伝い歩きは、もうかなり安定していた。気になるものを見つけると、迷いなく進む。
「だっ」
小さな声と共に、机の上にあった木の積み木を掴んだ。それを見つめ、もう片方の手に持ち替え、また戻す。そして、こつん、とぶつけ音を鳴らす。
「……気に入ったみたいね」
リリアーナが微笑む。
ラニアは何度も同じ動作を繰り返し、音を楽しんでいる様子だった。しばらくして、ふと顔を上げる。
「……まんま」
「え?」
リリアーナが目を見開く。
ラニアはまっすぐリリアーナを見て、もう一度言った。
「まんま」
それは、偶然の音ではなかった。明らかに“意味”を持っていた。
「……今、」
「呼んだな」
エドモンドが静かに言う。リリアーナの目が、わずかに潤んだ。
「ラニア……」
そっと抱き上げると、ラニアは嬉しそうに顔を寄せる。そして、もう一度。
「まんま」
その声は、はっきりとした意思を持っていた。この人が、自分の“好きな人”だと。その後も、ラニアの言葉は少しずつ増えていった。
「だー」
「ばー」
「まんま」
音だけではない。ちゃんと“使い分けている”。
「……早いな」
エドモンドが言う。
「他の子より、少しね」
マルグリットが頷いた。
ラニアは、ただ発達が早いだけではない。
理解も深い。
「ラニア、“ちょうだい”」
リリアーナが手を差し出すと、少し考えてから、持っていた積み木をぽとりと渡した。
「……すごい」
「ちゃんと分かっているわね」
マルグリットは静かに言う。けれど、その一方で。
「ラニア、こっちへ来い」
エドモンドが手を差し出す。ラニアは、じっとその手を見る。数秒の沈黙。そして、ふい、と顔を背けた。
「……」
部屋の空気が少しだけ止まる。
「……やっぱり、避けているな」
「えっと……」
リリアーナが言葉に困る。
ラニアはそのまま、リリアーナの服をぎゅっと掴んだ。
「まんま」
「……」
エドモンドは何も言わず、その様子を見ていた。
「好き嫌いが、はっきりしてるわね」
マルグリットが淡々と呟く。
「……そういうものなのか」
「そういうものよ」
あっさりと言い切る。
ラニアは、安心したようにリリアーナの肩に顔を預けていた。その姿は、完全に“選んでいる”。誰のそばにいるのか、誰に触れていたいのか。
食事の時間、ラニアは椅子に座り、目の前の皿をじっと見つめる。
「……食べる?」
「ん!」
元気よく頷く。その仕草も、もう意思表示だった。手を伸ばし、自分で掴む。少し崩れた野菜を口へ運ぶ。もぐもぐと、しっかり噛む。途中で落とすけど、すぐに拾おうとする。
「自分でやりたいのね」
リリアーナは手を出さず、見守る。
ラニアは何度も繰り返しながら、少しずつ上手になっていく。その様子を、エドモンドは静かに見ていた。
「……強いな」
ぽつりと呟く。
小さな身体だけれど、その中にある意思ははっきりしている。
食事のあと。ラニアは再び立ち上がり、数歩だけ歩いた。
「……!」
リリアーナが息を呑む。
一歩、二歩、そしてよろけて座り込む。
「すごい……」
「もう少しだな」
エドモンドの声は、どこか静かだった。ラニアは満足そうに笑う。
「まんま!」
そう言って、手を伸ばす。リリアーナはその手を取った。
「はい」
その瞬間の表情は、何よりも安心に満ちていた。赤ん坊から幼児へ、その境目に立ちながら。ラニアは確かに、自分の世界を広げていた。
そしてその中心にはいつも、リリアーナがいた。
そんな日々の中、ロキは見ていた。
ラニアがふと、視線を空中に定めていることを。