作品タイトル不明
生後九ヶ月
季節はさらに巡った。
ラニアは、生後九ヶ月を迎えていた。
床に降ろした途端、小さな身体は迷いなく動き出す。四つん這いになり、しっかりとした動きで前へ、横へと進んでいく。
「……速いな」
エドモンドがぽつりと呟く。
以前の“移動”とは明らかに違う。目的を持って動いている。気になるものを見つければ、一直線にそこへ向かう。
「ラニア、待って」
リリアーナが声をかけても、止まる気配はない。やがて棚に辿り着き、小さな手でぐっと力を込めて、端を掴む。
「……立つぞ」
エドモンドの声と同時に、ラニアは身体を持ち上げた。不安定ながらも、しっかりと足で床を踏む。つかまり立ちだった。
「すごい……」
リリアーナは思わず息を呑む。ラニアはそのまま、満足そうに周囲を見回した。視界が変わったことが嬉しいのか、小さく声を上げる。
ラニアがおまるを使えるようになって、身につける服も変わり始めた。
「ラニア、服を着替えようか?」
リリアーナは柔らかく声をかける。
その手に持っているのは、エドモンドが着ていた子供用の服だった。
ふわりとした、長い裾。柔らかな布で作られた、小さなドレスのような衣服。
まだ幼い子供は、男の子も女の子も似た形の服を着ることが多い。おまるを使いやすくするためだ。
裾を少しまくるだけで済むから、着替えも簡単で、失敗もしにくい。
「だー?」
ラニアは不思議そうに首を傾げる。
「今日着る服よ」
リリアーナは笑いながら、ラニアの服を脱がせていった。
小さな腕、丸いお腹、むちむちした足。生まれた頃より、ずっと大きくなった。
「はい、ばんざい」
「ぁー!」
ラニアは素直に腕を上げる。そこへ、服をそっと通していく。柔らかな布が、ふわりとラニアを包んだ。
「……似合う」
思わず、リリアーナは呟く。ラニアは裾をぱたぱた掴み、感触を確かめるように笑った。
その時、部屋へ入ってきたエドモンドが足を止める。
「……何だ、その服は」
「おまるを使いやすいように変えたんです」
リリアーナは説明した。
「小さい子は、こういう形の服を着ることが多いらしくて」
「ふむ……」
エドモンドは真剣な顔でラニアを見る。
ラニアは得意げにおまるへ向かって、ずりずりと進み始めた。裾が長いので、途中で少し引っかかる。
「……む」
真剣な顔で布を掴み、なんとか前へ進もうとするラニア。
リリアーナは慌てて助けようとしたが。
「いや、見守ろう」
エドモンドが止めた。
「試練だ」
「……ただ裾が引っかかってるだけですよ?」
結局、ラニアは自力で布を引きずりながらおまるへ辿り着いた。
そして、どこか誇らしげな顔で振り返る。
エドモンドは腕を組み、深く頷いた。
「やはり賢い」
リリアーナは苦笑した。
けれど、裾を揺らしながら嬉しそうに笑うラニアは、本当に可愛らしくて。
リリアーナも、つい頬を緩めてしまうのだった。
そんな頃だった。
屋敷に、一つの小包が届いた。差出人の名前を見た瞬間、リリアーナは目を瞬かせる。
「……ローデン?」
丁寧に包まれたそれを、そっと開く。中には前回の礼を綴った手紙と、小さな子供服が入っていた。
「まあ……」
思わず、リリアーナは声を漏らす。
淡い色合いの布地、柔らかく滑るような手触り。
とても高価なものだ、と見ただけで分かる。
隣で覗き込んでいたマルグリットが、一目見た瞬間に固まる。そして、ゆっくりと言った。
「……高級な布だわ」
その声が、妙に重かった。
「王族位でしょう。こんな布を、すぐ汚す赤ちゃんに着せるなんて……」
「えっ」
リリアーナの顔色が変わる。改めて服を見る。確かに、素人目にも分かるほど仕立てが良い。縫い糸まで美しい。
「こ、これ……そんなに高いの?」
「ええ」
マルグリットは真顔だった。
「下手をすると、私の普段着より高いわね」
「ええっ!?」
リリアーナは青ざめた。
その横で、ラニアは「あー!」と嬉しそうに服へ手を伸ばしている。
「だめだよラニア、引っ張っちゃ……!」
慌てて避けるリリアーナ。ラニアは不満そうにむう、と唇を尖らせた。
「お返し……必要かしら……?」
リリアーナは不安げに呟く。
「必要でしょうね」
「ですよね……」
顔がさらに青くなる。
薬草ならまだしも、こういう高価な品への返礼など経験がない。
「何を返せば……?」
「普通なら、同格以上の布や宝飾品かしら」
「無理です」
即答だった。マルグリットは少し考え込み、それから小さく笑った。
「でも、ローデンはそういう“損得”で送ってきたわけではないと思うわよ」
「……そう、でしょうか」
「ええ。純粋に、ラニアへ贈りたかったのでしょう」
その時、ラニアが服を掴み、嬉しそうに頬擦りした。
「きゃっ」
柔らかな布が気に入ったらしい。
マルグリットはそれを見て、ふっと表情を和らげる。
「……まあ、贈った側としては、その顔が一番嬉しいのでしょうけれど」
リリアーナは少し困ったように笑った。
「でも、本当にどうしよう……」
そこへ、黙って話を聞いていたエドモンドが口を開く。
「着せればいい」
「え?」
「送った側も、そのために送ったんだろう」
当然のような声だった。
「汚れるのが嫌なら飾っておけ。だが、服は着るためのものだ」
リリアーナは目を瞬かせる。
そして、少しだけ肩の力を抜いた。
「……そう、だね」
ラニアは相変わらず、高級な布を掴んで満足そうに笑っていた。