作品タイトル不明
生後八ヶ月
季節はさらに巡り、ラニアは生後八ヶ月を迎えていた。
床に座らせると、もうぐらつくことはほとんどない。背筋を伸ばし、しっかりとした姿勢で周囲を見回している。その視線は好奇心に満ちていて、見えるものすべてを確かめようとするようだった。
「あ……あー……」
小さな声を上げながら、手を伸ばす。気になったものには迷いなく触れ、掴み、そして口へ運ぶ。
「こら、それはだめ」
リリアーナが苦笑しながらそっと取り上げる。代わりに木の玩具を渡すと、ラニアはすぐにそれを握り、今度は左右の手で持ち替えながら眺め始めた。
指先の動きは、以前よりもずっと器用になっている。親指と指でしっかりと物をつまみ、確かめるように触れていた。そして――
「……どこへ行くの?」
気づけば、ラニアは前へと身体を倒し、そのまま器用に進み始めていた。
最初はゆっくりとした腹ばい。けれど、すぐにそれはしっかりとした動きへと変わる。腕と脚を使い、床を蹴るようにして進んでいく。
部屋の中は、以前とは比べ物にならないほど賑やかになった。
気づけばあちらへ、次はこちらへ。
興味のあるものを見つけるたび、小さな身体を懸命に動かして進んでいく。
「待って、ラニア、そっちは駄目――」
リリアーナが慌てて追いかけることも、一度や二度ではなかった。
そんなある日。ラニアはおむつを換えてる途中、じっと部屋の隅を見つめていた。そこに置かれているのは、小さな木製の椅子。穴の開いた、子供用のおまるだった。
まだ早いとは思っていたが、いずれ使うものだからと用意してあったのだ。
「……あー……」
ラニアは小さく声を漏らす。そして突然、ずり、ずり、とおまるへ向かって進み始めた。
「え?」
リリアーナは目を瞬かせる。
ラニアは真剣な顔だった。懸命に前へ進む。
そして、とうとうおまるの前へ辿り着いた。
「ま、さか……」
リリアーナが呟いた瞬間。
ラニアは、小さな手でおまるに掴まりながら、ぐらぐらと身体を支え、なんとかその上に座った。部屋が、静まり返る。しばらくしてから。
ぽちゃん。
「……」
リリアーナは固まった。ラニアは、どこか誇らしげな顔をしている。
「えっ、ええ!? ラニア!?」
慌てて駆け寄るリリアーナ。偶然かもしれない。でも、タイミングが完璧すぎた。
「うそ……本当に……?」
リリアーナは呆然としながらラニアを見る。
ラニアは
「あー!」
と機嫌良さそうに声を出した。
そこへ、騒ぎを聞きつけたエドモンドが入って来る。
「何があった」
そして状況を見た。おまる、座るラニア、呆然とするリリアーナ。
「……使えたのか?」
「た、たぶん……」
エドモンドは真顔のままラニアを見つめた。
ラニアは得意げに
「だー」
と声を出す。そして、エドモンドはぽつりと呟いた。
「……俺の子、もしかして天才なのか」
……親馬鹿。
リリアーナは声に出すのを、何とか止めた。
……でも、やっぱり、ラニアすごい。
それが数回重なったある日。マルグリットは、おまるの上で得意げな顔をしているラニアを、しみじみと見つめていた。
「……エドモンドの時は、あんなにも大変だったのに……」
深いため息と共に漏れた声に、リリアーナは目を瞬かせる。
「そうだったのですか?」
「ええ。酷いものだったわ」
マルグリットは遠い目をした。
「まず、座らない」
「座らない?」
「絶対に座らないのよ」
断言だった。
エドモンドは幼い頃から妙に頑固だったらしい。おまるを見せれば逃げる、座らせようとすれば暴れる。無理やり乗せれば、泣きながら降りようとする。
「嫌がるものだから、玩具を置いたり、歌を歌ったり、色々したのだけれど……」
マルグリットは肩を落とした。
「最終的に、おまるを裏返して兜みたいに被った時は、本気で頭を抱えたわ」
「……え?」
リリアーナは思わず聞き返した。
「しかも得意げだったのよ」
「……」
リリアーナはそっとエドモンドを見る。
エドモンドは無言で視線を逸らした。
「さらに酷い時は、おまるを持ったまま庭へ逃走したわね」
「逃走……」
「とても一生懸命、追いかけたわ」
「……」
ラニアは「きゃっ」と笑いながら手を叩いている。まるで面白い話だと言わんばかりだった。
「なのに、この子は」
マルグリットはラニアを見る。
ラニアは、また誇らしげにおまるに触れていた。
「自分から向かって、座って、成功するなんて……。同じ親子とは思えないわ」
再び、大きなため息。
「母上」
低い声でエドモンドが抗議する。しかしマルグリットは気にしなかった。
「あなたなんて、成功した後に拍手したら、嬉しくなって動かなくなったのよ。離すと、大泣きして」
「やめてくれ」
珍しく本気で嫌そうな顔をするエドモンド。
リリアーナは、つい吹き出した。
「ふふっ……」
エドモンドは眉を寄せる。
「笑うな」
「ご、ごめんなさい……でも……」
想像してしまった。小さなエドモンドの姿を。その間にもラニアはご機嫌で
「あー!」
と声を出している。
マルグリットはそんなラニアを抱き上げながら言った。
「本当に、この子は育てやすいわね……」
すると、エドモンドが真顔で呟いた。
「やはり天才では?」
「親馬鹿ね」
即座にマルグリットは返したのだった。