作品タイトル不明
生後五ヶ月
ラニアが生まれて、五ヶ月が過ぎた。
もう首は完全にすわり、抱き上げても不安定さはない。むしろ――腕の中でじっとしていることの方が少なくなっていた。
「……また、動いてる」
リリアーナが苦笑する。
床に寝かせていたラニアが、くるりと身体をひねった。
そしてそのまま、ころんと寝返る。
「できたね」
リリアーナが声をかけると、ラニアは嬉しそうに「きゃっ」と笑った。
うつ伏せのまま、しっかりと腕で体を支え、顔を持ち上げる。視線は迷いなく、周囲へ向けられていた。
「随分、自由に動くようになったな」
エドモンドが言う。その声に反応するように、ラニアが顔を向けた。そして、少しの間じっと見つめる。
「……」
だが次の瞬間、ふいっと顔を逸らした。
リリアーナの方へと、身体ごと向きを変える。
「あれ?」
リリアーナが首を傾げる。
マルグリットがくすりと笑った。
「人が分かるように、なったのね」
「え?」
「安心できる人と、そうでない人」
エドモンドが、わずかに眉をひそめる。
「……俺は?」
「これから、かしら?」
さらりと言われ、エドモンドは何も言い返せなかった。ラニアはその間にも、興味のあるものへ手を伸ばしていた。目に入ったものに、はっきりと意志を持って触れようとする。
指を開き、掴み、そして、迷いなく口へ。
「食べれないのに……」
リリアーナが小さく笑った。
その日の昼。
リリアーナはテーブルに座り、簡単な食事をとっていた。焼いたパンと、温かいスープ。その隣で、ラニアは抱かれていた。
じっと、リリアーナの手元を見ている。
「……?」
視線が、パンに向かっていた。次の瞬間、小さな手がすっと伸びて、パンを掴もうとした。
「ちょ、ちょっと待って」
リリアーナが慌てて手を引く。
ラニアは不満そうに「あー」と声を出した。
「あら、興味を持ったのね」
マルグリットが微笑む。
「食べる真似をしてみたいのよ」
ラニアは諦めず、もう一度手を伸ばした。
今度は空を切る。それでも、きゃっきゃと楽しそうに笑っていた。
「まだ早いけど……。そろそろ、離乳食の準備なのかな?」
リリアーナは少し考え込む。
「よだれも増えてきたし、ちょうどいい頃よ」
マルグリットはラニアをよく見ていた。
ラニアはそんな会話など気にせず、今度は自分の足を掴み、ぐっと引き寄せそのまま口へ。
「柔らかい……」
リリアーナは少し羨ましそうな目をした。
ラニアは手足をばたばたさせ、声を出して笑う。その表情は以前よりもずっと豊かで、嬉しい、不満、楽しい、すべてを全身で表していた。
夜、以前より長く眠るようになっていた。それでも。
「……起きた」
夜の静けさの中、小さな声が響く。ラニアが目を覚ましたのだ。
「良い子、良い子」
リリアーナが抱き上げると、すぐに泣き止んだ。そのまま、顔を押しつけるようにして落ち着く。その寝顔は、穏やかだった。
少しずつできることが増え、少しずつ世界が広がっていく。その中心には、いつもリリアーナがいる。
そして、その周りには人の温もりがあった。
ラニアが昼寝をしている間、静かな時間が、久しぶりに訪れていた。
リリアーナは、そっと立ち上がる。やらなければと思いながら、ずっと手をつけられなかったことに、少しずつ向き合うために。
そのひとつが、調合室の片付けだった。
そこは、思い出が多すぎる場所だった。
ラニアと過ごした日々の、殆どが染みついている。
妊娠と分かる前は、なんとなく足が遠のいていた。そして出産してからは、それどころではなかった。
久しぶりに足を踏み入れると、空気が少しだけ違って感じられる。棚には薬草や瓶が整然と並び、机の上には、道具がそのまま残っている。
リリアーナはひとつひとつ手に取り、時間をかけて丁寧に確かめていった。
そうして、一番奥の片隅にまるで隠されるように置かれた、小さな包みに気づく。
「……?」
覚えがない。そっと手に取り、ためらいながら包みを開いた。中にあったのは一通の手紙と、乾燥させた甘甘草だった。
「……ラニア?」
思わず、名前がこぼれた。
胸が、ざわつく。この手紙を置いた“ラニア”に、リリアーナは心当たりがなかった。
でも、分からないからといって、否定することもできない。
震える指で、手紙に触れる。
……これは、ラニアのものだ。
リリアーナは手紙を読み、ゆっくりと息を吐いた。
そして、そっとその包みを抱きしめた。