作品タイトル不明
小さき存在の決意
僕は、目を開いた。
けれど――よく、見えなかった。輪郭はぼやけて、光と影がゆらゆら揺れているだけ。
それでも、すぐ近くにある声と、優しく抱き締められている温もりだけは、はっきりと分かった。
――リリアーナだ。その現実が、震えるほど嬉しかった。
けれど、すぐに気づく。身体が思うように動かない。本能なのか、反射なのか。飲む、眠る、出す、泣く。そのすべてが、僕の意思を軽々と追い越していく。
笑うことさえも、自分で選べない。
それでも、リリアーナが近くにいるなら、それでいいと思えた。
最初の試練は、夜にやってきた。
身体が、勝手に泣いた。お腹が空いていたし、おしめも濡れていた。でも、リリアーナは起きない。
代わりに、近づいてくる気配。
……まさか、エドモンドが、おしめを替えるの?
僕は、猛烈に拒絶した。
リリアーナならいい。マルグリットでも、我慢する。でも、エドモンドだけは嫌だ。絶対に。
けれど、エドモンドは時間をかけて、それをやり遂げた。ぎこちなく、不器用に。
……もう、お嫁に行けない。
なぜか、そんな人間の言葉が頭に浮かんだ。
そして、かつて思っていたこと……どうして人間は、忘れてしまう生き物だろう、と。
理解した。
……こんなものを、ずっと覚えていたら。きっと、生きていけない。だから、忘れるのだ。
……でも、これは、生理現象だ。仕方のないことだ。
僕は、懸命に自分にそう言い聞かせた。けれど、それで終わりではなかった。
また夜が来て、身体は再び泣いた。違う、泣き続けた。僕の意思は、やっぱり届かない。
……リリアーナ……ごめん。
困らせているのが分かるから、そう思った。
そのとき、エドモンドが僕を抱き上げた。
……リリアーナ、僕を捨てないで。
必死だった。けれど身体は、エドモンドに渡された。そして揺らされるうちに、ゆっくりと、眠りに落ちていった。
……これを、屈辱と言わずして何と言うのか。
僕はゆっくり目を開いた。
……ほんの少しだけ、動かせる。とても強い意思を持てば。
僕は、決めた。
限りなく“普通の赤ちゃん”として、リリアーナの愛情を受け取る。
それでいい。それが、一番いい。もう、これ以上本能の好きにはさせない。
飲むことも、眠ることも、泣くことも。すべてが僕の意思を置き去りにしていく、この身体。
これは、僕の戦いだ。
この身体を、少しずつでも自由に動かせるようにすること。そして、リリアーナの愛情を、手放さないこと。
僕は、静かに目を閉じた。
……エドモンド……これ以上、好きにはさせない。
あの不器用な手も、あの揺れも、少しだけ、嫌じゃなかったことには、気づかないふりをする。
僕は、赤ちゃんであっても――ラニアだ。
意識が、ゆっくりと沈んでいく。
眠りの中へ。小さな身体に、似つかわしくないほどの決意を抱いたまま。
「……すごい」
「たまたまだ」
リリアーナと、エドモンドの声が遠くに聞こえた。
……やっぱり、少しは許すか。
突然変わったら、きっと驚かれる。僕はずっと人間を見てきた。だから、どう成長するか知ってる。普通の赤ちゃんらしく、少しずつ変わればいい。
だって、あのエドモンドが、これなのだ。僕と、気づかれることなく、大きくなる。そう、思っていたらふと、ローデンの顔が浮かんだ。
……何をしてるのだろう。
ラニアという器に、想いを寄せた男。
全てを忘れて生きてるのなら、それで良い。それこそ、人間らしい。でも、もしそうでなかったら?
……何を考えてる?
僕は今、赤ちゃんだ。何も出来ない。それに、気づくかどうかもわからない。
……もし、僕に気づいたら。
僕は考えるのを止めた。その時は、その時だ。人間らしく、運命というものに、流されよう。
だって僕の身体は、人間なのだから。