作品タイトル不明
シルヴァルナ島③
シルヴァルナ島の夜は、静かに更けていった。
香辛料の余韻がまだ空気に残る中、食卓には穏やかな灯りが揺れている。セレナ王女は、ふと思い出したように口を開いた。
「お姉様、今日は贅沢に――このお酒も開けましょう?」
そう言って差し出したのは、小さな瓶。
深い色をした液体が、灯りを受けてゆらりと揺れる。
「皆がね、“元気になってほしい”って用意してくれたの」
それもまた、遠い南の国から渡ってきた珍しい酒だった。
セラフィーネは、わずかに目を細める。
「……そんなにも、元気が無いかしら?」
その問いは軽い調子に聞こえたが、どこか確かめるようでもあった。
セレナは、やわらかく微笑む。
「皆、よく見ているのよ」
それ以上は言わず、ただ静かに酒を勧めた。
可愛い妹の心遣いと、島の人々の想い、断れるはずがない。
「……じゃあ、いただこうかしら」
セラフィーネはそう言って、杯に酒を満たす。
ゆっくりと口元へ運び、一口。
「……」
ほんのわずかに、息が変わる。
強い酒ではない。だが、身体の内側へと染み込むような感覚。やがてセレナが、静かに口を開いた。
「……お姉様」
その声は、これまでとは違っていた。
「教えてほしいの。彼を助けてから、何があったのですか?」
その瞬間、セラフィーネの手が止まった。杯を持つ指先が、ほんのわずかに強ばる。
――いつもなら。
「何もないわ」
その一言で終わるはずだった。踏み込ませないための短い拒絶で、すべてを閉ざしてきた。
けれど今夜は、違った。
長く静かな時間、セラフィーネは視線を落としたまま動かない。杯の中の液面が、わずかに揺れている。
小さく、息を吐いた。
「……助けたわ。確かに……間に合ったの」
声は、かすかに揺れていた。
「でも……ラディンは、弱っていたわ」
その声音には、感情の起伏がほとんどない。
ただ事実を並べていくように、静かに続ける。
看病したこと、かつて関わったラニアのこと、リリアーナの持つ不思議な力。
そして――北の領地を発つ時のこと。
そこまで話して、ふと、言葉が途切れた。
「……まさか」
わずかに視線を逸らし、小さく息を吐く。
「ラディンが、私を送るなんて言うと思わなかったの」
その頬が、ほんのりと赤く染まっている。
「でも……歩いている間、何を話せばいいのか分からなかったの」
ぽつりと落ちる言葉は、沈黙の時間が、そこにあったことを物語っていた。
そして、また一息。
「ある日ね、偶然……宿が一室しか空いていなかったの」
その言葉に、セレナ王女は、わずかに息を呑む。
「ラディンは、外で寝ると言ったわ。でも――引き留めたの」
視線は、杯の中へと落ちている。
「宿代は同じでいいって言われたから……それなら、同室でも構わないって」
静かに続く言葉。
「……私は、とても薄着でベッドに入ったわ」
一瞬の沈黙。
「だって、同じ部屋なら……分かるでしょう?」
セレナは、何も言えなかった。
ただ、言葉を失ったまま、姉を見つめる。
「……でも、何も無かったわ」
セラフィーネは、かすかに笑ったが、どこか力がない。
「ラディンはね……部屋の隅で、一晩中、毛布にくるまって寝ていたのよ」
セラフィーネは、そのまま酒を一息に飲み干した。
「……私、熱を出したわ。二週間も寝込んだの。きっと……緊張の糸が切れたのね」
セレナは、何も言わない。言えなかった。
「それから――」
セラフィーネの声が、わずかに揺れる。
「島へ渡る船場で、ラディンと別れたわ」
指先が、杯をなぞる。
「でも……悔しくて。もし、私があなたのところへ行ったら……受け入れてくれる?って、聞いたの」
その一言に、すべてが滲んでいた。
「彼は――」
一瞬、言葉を選ぶように目を伏せる。
「来たのなら、いいぞ、って」
その言葉を思い出すように、セラフィーネは目を細めた。けれどその瞳は、どこか潤んでいる。
「……分かっているのよ。私が、島を離れられないってこと」
ぎゅ、と、盃を握りしめる。
「悔しい……」
ぽつり。
「悲しい……」
さらに、こぼれる。
「辛い……」
そして。
「でも……島を、捨てられないわ」
ぽろり、と、涙が零れ落ちた。一滴、また一滴と、止めどなく。
セラフィーネは、はっと顔を上げた。
――言ってしまった。
そう書いてあるような表情、そして視線の先にいるのは、セレナ。
セレナは――何も言えなかった。
かけるべき言葉が、見つからない。慰めも、励ましも、どれも違う気がして。
ただ、目の前で初めて見せられた姉の弱さを、受け止めることしかできなかった。