作品タイトル不明
シルヴァルナ島②
シルヴァルナ島に、再び穏やかな日常が戻っていた。
セラフィーネもまた、島での生活へと戻っていた。人々と言葉を交わし、指示を出し、いつものように振る舞っている。
――少なくとも、外から見れば。
けれど、セレナには分かっていた。
時折、セラフィーネがふと遠くを見ること。そして、誰にも気づかれぬように、小さく息を吐くこと。
「……どうしたのですか?」
何度も、そう問いかけた。けれど返ってくるのは、決まって同じ言葉だった。
「何でもないわ」
その言葉は穏やかで、優しい。
けれど同時に、明確な拒絶でもあった。それ以上、踏み込ませないための。
セレナは、唇を噛みしめた。
……このままでは、いけない。
そう思いながらも、どうすればいいのか分からなかった。だから、彼女は再び問いかける。
目を閉じ、静かに精霊に問う。
「ねぇ……どうしたらいいの……?」
しばしの静寂のあと、応えは、確かにあった。それを聞いた瞬間、セレナは目を大きく見開く。
「……でも、それは――」
言いかけて言葉を止め、首をゆっくりと振った。
簡単に選んでいいものではない。理解している。危うさも、代償も。それでも。
「……このままでは、いけない……」
小さく、しかしはっきりと呟いた。
その胸に、ひとつの決意が灯る。
数日後。セレナは島の調剤師のもとを訪ねた。年老いたその男は、突然現れた王女に目を丸くした。
「……何の用だ?」
セレナは、迷わず口を開いた。
精霊から聞いた“方法”を、一つも漏らさぬように言葉にしていく。材料、手順、注意すべき点――すべてを丁寧に伝えた。
だが、調剤師は眉をひそめた。
「……知らんな、そんなものは。出来るとも思えん」
短く言い放つ。
それでも、セレナは引かなかった。
何度も何度も頭を下げ、言葉を尽くし、想いを伝えた。
なぜ必要なのか、誰のためなのか。その声は震えていたけれど、一度も途切れなかった。
やがて調剤師は、大きく息を吐いた。
「……まったく」
諦めたように、しかしどこか苦笑を含んだ声音で言う。
「まあ、出来るかは分からんが……。やってみるか」
そして、小さく肩をすくめた。
それから、時が過ぎた。何度も試し、失敗し、またやり直す。そして――ついに。
「……出来た」
調剤師は、疲れた声でそう言った。
差し出されたのは、小さな容器。中には、揺れるそれが収められている。
「言われた通りには作った。だが……効果は試していない」
低く、慎重な声だった。
セレナは、それを両手で受け取った。精霊の言葉を信じて、ただ伝えただけ。それでも。
「きっと、大丈夫」
小さく、しかし確信を込めてそう言った。
その手の中のものを、まるで壊れ物のように抱きしめながら。
シルヴァルナ島の夕暮れ。
橙に染まる空の下、城の調理場はいつになく賑わっていた。セレナ王女は、静かに、しかしはっきりとした声で言った。
「最近、お姉様が元気がないでしょう? だから今日は、少し贅沢をしてもいいと思うの」
調理人たちは顔を見合わせる。
「ほら、前に聞いた……あの、香辛料をたくさん使う料理」
その一言で、誰もが理解した。
舌が痺れるほど辛いのに不思議と手が止まらなくなる、遠い南方から伝わった、あの料理だ。
「……ああ、あれですか」
ひとりが頷く。
「確かに、あれなら身体も温まりますし……気分も変わるでしょう」
火が入れられ、鍋が鳴り、香辛料の香りが空気に広がっていく。
刺激的で、どこか異国めいた匂い。
「これは、王女様達の特別だ」
誰かが、笑って言った。
その中でセレナは、誰にも見えぬように――
そっと、小さな容器を取り出した。
一瞬だけ、その中身を見つめる。
「……」
迷いは、なかった。
気づかれぬように、それは料理の中へと溶けていった。
夜、食卓には見慣れぬ料理が並んでいた。
セラフィーネは、それを見て首をかしげる。
「……これは?」
セレナは、柔らかく微笑んだ。
「少し前にね、遠い南の国から教えてもらったの。香辛料をたくさん使う料理で……」
少しだけ、言葉を選ぶように間を置く。
「たまには、こういうのもいいかと思って。……お姉様、元気がないみたいだったから」
セラフィーネは、静かにその言葉を受け止めた。
「……そう」
そして、ゆっくりと一口。
わずかに、目が細められる。
「……とても、複雑な味ね」
その声音には、驚きと戸惑いが混じっていた。
「私には……、少し辛いわ」
セレナは苦笑する。
「私には、とってもよ。だから、ほんの少しだけにしたの」
自分の皿を軽く示す。確かに量は控えめだ。
「でも、元気が出るって……みんな言ってたわ」
その言葉のあと、短い沈黙が落ちた。
セラフィーネは、何も言わない。ただ、もう一口、静かに口に運ぶ。
「……いっぱい食べてね」
セレナは、変わらぬ微笑みでそう言った。
ほんのわずかに、セラフィーネの口元が緩む。
「……わかったわ」
それは、かすかな苦笑だった。
けれど、確かにそこにあった“いつもの表情”。
その後は、言葉も少なく。セラフィーネは、黙々と料理を口に運び続けた。辛さに眉を寄せながらも、食は止まらない。身体が温まり、じわじわと内側から何かが巡るような感覚。
一方で、セレナもまた料理を口にしていた。
「……辛いけど、美味しいよね」
そう言いながら、少しずつ。
本当に、少しずつだけ。
その瞳は穏やかだったが、食卓の上には、誰も知らないものがひとつ、紛れている。
願いと、決意と、そして、取り返しのつかないかもしれない選択が。