作品タイトル不明
生後三ヶ月
ラニアが生まれて、三ヶ月が過ぎた。
腕に抱けば、その重みははっきりと変わっている。頬は丸く、手足もふっくらとして、もう新生児の頃の頼りなさはなかった。
「重くなったね」
リリアーナがそう言って抱き上げると、ラニアは「あー」と声を上げた。
そのまま、くしゃりと笑う。
――はっきりとした、笑顔だった。
「今、笑った……」
思わずこぼれる言葉に、マルグリットが穏やかに頷く。
「ええ。人に向けて笑うようになるのよ、この頃は。エドモンドも、そうだったわ」
リリアーナは目を細めた。
「そっか……」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
ラニアは、じっと自分の手を見つめていた。
小さな指をゆっくり動かし、不思議そうに眺める。
やがて、そのまま口へ運ぼうとして――
「それ、食べるものじゃないよ」
リリアーナはくすりと笑いながら、そっと手を戻した。
マルグリットも、笑いながら言う。
「自分の手を、確かめているのよ。きっと」
「……自分の、手」
リリアーナはその言葉を静かに繰り返した。
ラニアは、今度はリリアーナの顔を見上げる。
そしてまた「あぅ」と声を出した。呼びかけるような、応えるような声。
「ラニア」
リリアーナが優しく名を呼ぶと、ラニアの視線がぴたりと合った。そのまま、楽しそうに声を漏らす。
その様子を見ていたエドモンドが、少しだけ身を乗り出した。
「……分かっているのか?」
「まだ全部じゃないけど、声や顔は覚えていくのよ。リリアーナについては、わかっているわね。この感じ」
マルグリットが答える。
エドモンドはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……ラニア」
低く、静かな声。
ラニアは一瞬だけ目を瞬かせ――それから、ほんの少し笑った。
「……!」
エドモンドの動きが止まる。オルフェウスが横で吹き出した。
「はは、今のはお前に向けたな」
「……偶然だ」
そう言いながらも、エドモンドの視線はラニアから離れなかった。ラニアは、今度は手足をばたばたと動かし始める。
以前よりもずっと力強い動き。抱いている腕の中で、しっかりと存在を主張していた。
しかし、その夜だった。
「……ああ、もう……どうしたの……」
リリアーナは、ラニアを抱いて部屋をずっと歩いていた。
夜は深く、外は静まり返っているのに、部屋の中だけが小さく揺れていた。
ラニアが、泣いている。昼間とは違う、どこか不安げで、途切れない泣き声。
「お腹……じゃないよね」
授乳は済ませたばかり、おしめも替えた、それでも泣き止まない。
「……どうしたんだ」
後ろから、低い声がする。
振り返ると、エドモンドが立っていた。
眠っていたはずなのに、目を覚まして来たのだろう。
「わからないの。さっきから、ずっと……」
リリアーナの声にも、少し疲れが滲んでいた。
ラニアは、ますます強く泣く。
「あー……ああ……!」
その声に、エドモンドは一瞬だけ戸惑った。
だが、すぐに手を伸ばす。
「貸せ」
「え?」
「いいから」
不器用な言い方だったが、その手はまっすぐだった。リリアーナは少し迷ってから、ラニアを渡す。
エドモンドはぎこちなく抱き上げた。まだ慣れていない手つきだ。
「……」
何も言わず、ただ一定のリズムで、ゆっくりと揺らす。その腕の中で、ラニアの泣き声が少しだけ弱まった。
「あ……」
リリアーナが小さく声を漏らす。
完全には止まらないが、確かに変わった。
エドモンドは低く呟く。
「……怖いのかもしれないな」
「え?」
「理由は分からないが……多分、安心すれば落ち着く」
ラニアはまだ小さく泣きながらも、エドモンドの胸に顔を押しつけるようにした。
そのまま、少しずつ、少しずつ――声が途切れていき、やがて。
「……」
静かになった。眠りに落ちたのだ。
リリアーナは、ほっと息を吐く。
「……すごい」
思わずそう言うと、エドモンドは首を振った。
「たまたまだ」
けれど、その声はどこか柔らかかった。
様子を見に来たマルグリットが、少し離れたところで静かに微笑んでいる。
「……三ヶ月頃はね、理由もなく泣くことがあるのよ」
「理由も……なく?」
「ええ。多分、うまくいかないことが増えるのよ。エドモンドもよく泣いたわ。本当にね」
マルグリットはエドモンドに視線を向けた。
エドモンドは、それに気づいてない、訳ではない。しかし、じっとラニアを見たまま何も言わなかった。
リリアーナも、眠るラニアを見つめた。
小さな胸が、規則正しく上下している。
「……そうなんだ」
「だから、抱いてあげればいいの」
マルグリットの声は、どこまでも穏やかだった。
エドモンドは、しばらくそのままラニアを抱いていた。起こさないように、慎重に。
その腕の中にある重みを、確かめるように。
誰も、気づかない。
ほんの一瞬だけ、ラニアが目を開いたことを。そして、金色の瞳が、静かに閉じられたことを。