作品タイトル不明
新生児
産声が落ち着いたあと。
小さな命が、そっとリリアーナの腕の中に戻ってきた。
「女の子ですよ」
助産婦の言葉に、リリアーナはゆっくりと目を細めた。
「……そう」
かすかな声だけれど、その奥には確かな喜びがあった。腕の中の小さな顔を見つめる。
まだ目もはっきり開かない、頼りない存在。
それでも――
「ラニア」
優しく、名を呼んだ。
その音は、静かに空気へ溶けていく。まるで最初から、そう呼ばれることが決まっていたかのように。
リリアーナは、そのままラニアを抱き寄せた。小さな体温が胸に伝わり、それだけですべてが満たされるようだった。
それからの日々はゆっくりで、同時にとても短かった。
リリアーナは、ラニアと共に寝て、共に起きた。少し眠っては、泣き声で目を覚まし、長く眠ることはできない。抱き上げて、あやして、落ち着いたと思えばまた眠る。けれどそれも束の間、また目を覚ます。
夜も昼も、境目は曖昧になっていった。
ぼんやりとした頭のまま、ラニアを抱く。
小さな口が動き、必死に生きようとする。
そのたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ある夜、ラニアを抱いたままうとうとと意識が落ちかける。その瞬間、かすかな重みと温もりを強く感じた。
「……?」
目を開ける。
腕の中で、ラニアが小さく動いた。指が、きゅっと布を掴んでいる。その仕草があまりにも小さくて、弱くて、確かだった。
リリアーナは、思わず息を止めた。
「……ここに、いる」
ぽつりと、こぼれる。
当たり前のことなのに、それがどうしようもなく尊い。
眠れない夜も、思うように動けない身体も、終わりの見えない繰り返しも、すべてが、この小さな命へと繋がっている。
ラニアは、小さく息をしていた。その規則正しい呼吸が、何よりも確かな証のようだった。
リリアーナは、そっと頬を寄せる。
温かい、柔らかい、壊れてしまいそうなくらい、繊細で。けれど確かに、生きている。
……愛しい。
気づけば、そう思っていた。言葉にするまでもなく、ただ自然に。
リリアーナの世界は、静かに満たされていった。
その日も、夜は静かだった。
――はずだった。
「……ぁ、あ……」
小さな声が、やがてはっきりとした泣き声に変わる。ラニアが、目を覚ました。
「……」
エドモンドは、先に目を開けていた。
ほんのわずかな音でも、今はすぐに反応してしまう。
隣では、リリアーナがまだ眠っている。疲れが溜まっているのだろう。ようやく深く眠れた時間なのかもしれない。
「……」
泣き声は、少しずつ強くなる。
エドモンドは、ゆっくりと起き上がった。
「……どうした」
言っても、分かるはずがない。それでも、そう声をかけていた。そっと、ラニアを覗き込む。顔を赤くして、小さな口を開けて泣いている。
「……お腹が空いた?」
思わず呟く。
だが、どうすればいいのか分からない。しばらく見つめたまま、固まる。泣き声は、遠慮なく続く。
「……いや、違うのか」
視線を落とす。
「……濡れているのか?」
ようやく、おしめに思い至る。確か、替える必要があると聞いた。
エドモンドはぎこちなく手を伸ばした。
「しなくても良い、と言っていたが。……これで、いいのか」
布をほどくが思った以上に手間取る。結び目が固いわけではないのに、妙に指が動かない。ようやく外れた。
「……よし」
小さく呟くが、その先が分からない。
新しい布はどれか、どの順番で替えるのか、完全に動きが止まる。その間にも、ラニアは泣き続ける。
「……待て」
意味のない言葉をかけ、ようやく新しい布を見つけぎこちなく当てる。
結び方が分からない、さっき外したはずなのに思い出せない。
「……こう、か?」
結ぶが少しずれ、やり直す。しかしまた、ずれる。ラニアの泣き声が、少し強くなる。
「……違うな」
低く呟く。
額に、うっすらと汗が浮かぶ。戦場では迷わない手が、今はまるで役に立たない。
それでも、やめなかった。何度かやり直して、ようやく形になる。
「……これで」
そっと、ラニアを見下ろす。
泣き声はまだ、止まらない。
「……何故だ」
完全に行き詰まり立ち尽くす。
「……エドモンド様?」
後ろから、眠たげな声がした。
振り返ると、リリアーナが半分目を閉じたままこちらを見ていた。
「起こしたか」
「ううん……」
リリアーナは、ゆっくりと起き上がる。ラニアの泣き声を聞いて、すぐに状況を理解した。
「替えてくれたの?」
「ああ」
短く答える。
リリアーナは、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう」
その一言で、エドモンドはわずかに視線を逸らした。
リリアーナはラニアを抱き上げる。すると、泣き声が少しだけ落ち着いた。
「今度は、お腹かな」
そう言って、自然な手つきであやし始める。
その様子を、エドモンドは少し離れて見ていた。
手伝う必要はない。むしろ、自分が入ると邪魔になるかもしれない。
それでも、足はその場から離れなかった。
ただそこにいる、それだけのことなのに、妙に胸の奥が落ち着いていた。
ラニアの小さな声、リリアーナの柔らかな動き、そのすべてが、空間を満たしている。
「……」
エドモンドは、何も言わずに立っていた。
守るべきものが、ここにある。
そしてその中に、自分も確かにいるのだと、静かにそう感じていた。